彼女の懐疑的な恋慕
「先輩、コーヒーか何か飲みます?」
恭一くんの言葉に、私は黙って頷いた。時刻は午後十一時三十分。合唱団の皆は終電があるからと帰ってしまった。必然的に一人暮らしの私と恭一くんが部室に残る。明日は一限があるからそろそろ帰った方がいいのだろう。でも恭一くんがコーヒーをいれてくれるなら、飲んでから帰路につきたいと思った。
地味に嬉しい、なんて言葉にも態度にも出さないけれど。
私は練習中の楽譜を読む振りをして、インスタントコーヒーを作っている恭一くんの後ろ姿を見つめた。歌うときは気をつけているようだが、彼は猫背だ。私はその丸まった背中に話しかける。
「そういえば、ゴールデンウィークは実家に帰ったの?」
恭一くんの実家はここから二時間と、さほど遠くない。ただ交通の便が壊滅的に悪いために一人暮らしをしているのだと、前に彼自身から聞いていた。下宿している人でも、実家が近い人は頻繁に帰省するものだ。きっと恭一くんもその例に漏れず帰ったものと思ったのだが。
「帰ってませんよ。特に帰省する用事もなかったですし」
「そっか。親御さんに帰って来いとは言われなかったの?」
恭一くんはマグカップにお湯を注ぎながら首を横に振った。
「先輩は、親に帰ってこいって言われるんですか?」
「言われるね。夏休みは合宿もあって実家に長くいられないから、ゴールデンウィークにはって」
ふうん、と大して興味もなさそうに言い、恭一くんは私の向かい側に座った。そしてコーヒーの入った厚手の紙コップを私に無言で突き出す。
恭一くんは物腰が柔らかな方だけれど、たまにぶっきらぼうな仕草をすることがある。本質はどちらなのだろうか。ふとそんなことを考えてしまった。
「今年のゴールデンウィークは姉が帰省していたらしいんで、親も俺どころじゃなかったんですよ」
「――恭一くん、お姉さんいたんだ?」
恭一くんは自分の家族のことをあまり話さないから、私は彼の家族構成を知らなかった。勝手に一人っ子だと思っていたのだが。恭一くんは一瞬苦い顔をして、コーヒーを一口だけ飲む。
「もう何年も会ってないですけどね」
「そうなんだ」
恭一くんの態度が引っかかった。あまり仲が良くないのだろうか。私は紙コップに口をつけながら考えを巡らせる。
恭一くんのことが知りたい。
思えば、彼について知っていることはあまり多くない。家族のこともそうだし、合唱団以外ではどんな表情を見せるのか、休日は何をしているのか、どんなことを考えているのか。彼の本質に迫るようなことは何一つ把握していないのだ。
でも何故、知りたいと思うのだろう。
恭一くんは綺麗だ。特に首筋のラインが魅力的だ。そこだけが別の生き物のように私を誘惑している。何度、妄想しただろう。その喉に手をかける瞬間を。真っ赤な紐を巻きつける様を。けれど恭一くん自体にはさほど興味を持ってはいなかったのだ。
私は、恭一くんに好意を抱いているのだろうか?
空想だけではあきたらず、私は恭一くんともっと深い関係を築きたいと思うようになってしまったのだろうか?
私は浮かんできた疑問を鎮めるために、コーヒーを半分飲んだ。混乱している心をよそに、コーヒーで温まった唇が勝手に言葉を紡ぐ。
「お姉さんは何のお仕事してるの?」
「それ聞いて、どうするんですか?」
恭一くんが僅かに棘のある口調で尋ねてきた。聞いたところで何をするわけでもない質問だったのだが。失礼なことを言ってしまったのだろうか。
「えっと、何か……ゴメン」
戸惑いながらも謝ると、恭一くんはどこか寂しそうな笑みを浮かべた。
「別に謝らなくてもいいですよ。冗談ですから」
恭一くんはコーヒーを一気に飲み干し、そのまま立ち上がる。
「俺、明日早いんで帰りますね。部室の戸締りよろしくお願いします」
「あ、待って。私も帰るから」
このままでは、お姉さんのことについては聞けずじまいになりそうだ。そう思ってコーヒーを飲みながら席を立つ。恭一くんは何も言わずに、空になった私の紙コップを回収した。
「窓とか、大丈夫ですか?」
恭一くんに促され、私は部室の窓に鍵が掛かっているか確認する。彼は部室のドアを押さえて私が出てくるのを待っていた。
「ねぇ、恭一くん」
「……何ですか?」
私は恭一くんの焦茶色の双眸を見つめる。その為には結構上を向かなければいけなくて、恭一くんの背が高かったことを今更になって実感した。
「お姉さんのこと、聞かれたくない?」
部室の鍵を閉める彼の動きが僅かにぎこちなくなった。これは肯定ととっていいのだろうか。カチリと錠が落ちる音がしたと同時に、掠れた声で恭一くんが言った。
「あまり仲良くないので、できれば」
「そっか。じゃあ聞かないよ」
本当は知りたいけれど。
どうして仲が良くないのか。一体どんな人なのか。浅ましく追求を続けそうな自分を押さえ込んで、私は自宅に向かって歩き出した。
恭一くんは私と反対方向に足を進める。私は少し離れたところで振り返り、闇に紛れていく彼の丸まった背中を見送った。
完全に夜の中に消えてしまう前に、彼の体に赤い紐のようなものが巻き付いているように見えた。驚いて目をこらすけれど、そのとき既に恭一くんの姿は見えなくなっていた。
即興小説「紐の倒錯的な空想シリーズ」も3作目となりました。
前2作が「私」の恭一に対する欲望がメインだったので、今回からは恭一がどんな人かというものも見せていこうと思いました。
こんな感じで徐々に色々公開していく所存です。
即興なので見苦しい部分も多いでしょうがこれからもお付き合いしていただけると嬉しいです。