↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
PR

あなたはラジオ体操第四を知っていますか? (短編版)

作者: しげぞう
掲載日:2026/10/27

こちらは「あなたはラジオ体操第四を知っていますか?」序章+全10話+おまけ2話

https://ncode.syosetu.com/n9268mw/

の圧縮版です。こちらだけでもお楽しみいただけますが、気に入っていただければ「全編版」もご覧くださいませ。


「新しい朝が来た、希望の朝だ」


 このフレーズを耳にした瞬間、およそ日本で生まれ育った者であれば、脊髄反射的にある特定の情景を脳裏に浮かべるはずだ。


 まだ少し肌寒い夏休みの早朝、目をこすりながら首から下げた厚紙のスタンプカード。最終日にもらえるささやかなノートや鉛筆のためだけに重い体を引きずり、近所の公園や神社の境内に集まった眠たげな子供たちの群れ。そして、どこからともなく聞こえてくる、あの軽快でありながら、有無を言わさぬ謎の威圧感を持ったピアノの旋律である。


 ラジオ体操。それは、この島国に住む一億数千万人の肉体に、まるで初期設定のOSのように深く、そしてこっそりとインストールされた巨大な身体プログラムである。


 パブロフの犬が鐘の音を聞いてよだれを垂らしたように、我々日本人はあの「タンタータ、タタタタ」というハ長調のイントロを聞くだけで、大脳皮質を経由する間もなく、小脳と運動神経が勝手に、腕を前から上に挙げて大きく背伸びの運動の準備を始めてしまう。よくよく考えてみれば、これほどまでに広範かつ強力な洗脳的ボディコントロールの体系を、私は他に知らない。



 私たちが日常的に親しんでいるこの体操は、用途と対象年代によって、二つの極めてわかりやすい顔を持っている。


 夏休みの神社境内で、工場の朝礼で、私たちはあの無邪気な和音に合わせて手足を伸ばし、健やかな一日が始まることを疑わなかった。


 表の歴史において、その系譜は三つしかない。万人の健康のための「第一」、労働者の筋力を養う「第二」、そして戦後の混乱期にあまりに複雑な動きゆえに自然淘汰された幻の「第三」


 だが、昭和四十七年(一九七二年)の秋、旧郵政省の地下書庫の最奥に作成され、のちに存在そのものを抹消された「四番目の数字」があったことを知る者は、現代の政府中枢においてすらごく僅かである。


 公文書抹消番号「郵計・特資七〇四号」――極秘呼称「ラジオ体操第四(マル四)」


 そこには、健康を促進するような牧歌的な思想は欠片も存在しない。それは、極限環境下へと放り込まれる人間の神経系を物理的にハッキングし、肉体が内側から破裂するのを防ぐために開発された、純然たる軍事計画であった。


 *


 時計の針を昭和四十七年へと巻き戻そう。


 この年の日本は、奇妙な熱病と焦燥の中にあった。二月の連合赤軍あさま山荘事件、五月の沖縄本土復帰、九月の日中国交正常化。その前年にはニクソン大統領が日本の頭越しに北京訪問を発表し、泥沼のベトナムからは米軍が撤退を始めようとしていた。


「いざという時、ワシントンは東京を守るためにロサンゼルスを犠牲にはしない」


 永田町と霞が関の奥座敷で、戦火を潜り抜けてきた政治家と官僚たちは、冷徹な結論に達していた。この極東の島国が真の独立を保つためには、アメリカの核の傘という幻影にすがるだけでなく、自前の非対称の牙をテーブルの下に忍ばせておかねばならない。


 こうして、三つの極秘計画が同時に立ち上がった。


 一つは、東京大学宇宙航空研究所の固体燃料ロケット技術を軍事転用した、長距離弾道飛翔体計画『案山子(かかし)』


 一つは、東海村の動燃施設で密かに高純度プルトニウムを精製、核分裂爆弾(原爆)をすっとばして、熱核融合爆弾(水爆)を開発するという、無謀というより狂気じみた純国産核融合再突入体計画『火鉢(ひばち)』


 最後に『火鉢』の実証のため、『案山子』で開発されたロケットを無理やりクラスター化して試験機を打ち上げ、核実験を宇宙空間で極秘に実施しデータを持ち帰るための極限環境科学実験用回収式宇宙機『虫篭(むしかご)』



 かつて特攻兵器を生み出した国の技術官僚たちは、直径わずか一・八メートルの単座式チタン製カプセルにパイロットを押し込み、試験弾頭とともに最大一二Gもの殺人的な重力加速度で成層圏の彼方へ撃ち出す。初っ端から弾道飛行ではなく、周回軌道に乗る予定だ。


 そして狭窄なカプセル内で、搭乗員は手動で弾頭を切り離し、スラスターを用いて安全距距離まで移動。相対運動を相殺して軌道を同期させた後、シビアな手動操作で複数の実験器具をアライメントした上で指令し起爆。


 熱放射による機体の激震と放射線の嵐が通り過ぎた直後、データコアを計測ポッドから、これたま手動の機械式マニピュレーターによって引き抜き、自らが帰還するための大気圏再突入カプセルの最奥部に厳重に格納。


 最後に、焼け焦げた宇宙機から再突入カプセルを切り離し、数千度の空力加熱と殺人級の減速Gに耐えながら着水、回収部隊を待つ。


 これが『虫籠』における宇宙実験の全貌であった。自動制御など到底不可能な過酷な環境下で、人間の臨機応変な判断力と手作業だけが頼みの綱となる、文字通りの決死行である。


 この絶望的な「鉄の棺桶」の中で、薬物も器具も使わずに搭乗員の肉体と精神を無理やり維持するための生体適応プログラム――三つ目の計画『虫籠』のデータ回収オペレーションの中核として経過されたのが、「ラジオ体操第四」であった。




 その開発には、四人の異端者が召集された。


 旧陸軍軍医学校で特殊環境生理学を研究していた主任医官・神保修三博士。徒手体操理論の権威・高取教授。内臓を筋肉の鎧で固める古流柔術「当身道」の師範・滝本巌。そして、郵政省嘱託という地味な肩書きの裏で、NHK電子音楽スタジオ(通称:音響兵室)に入り浸っていた前衛音楽家・服部正信である。


 彼らが設計した全十二節の体操は、外から見れば体操ですらなかった。手足を大きく振ることは一切ない。カプセルの壁にぶつかるからだ。代わりに採用されたのは、自らの主動筋と拮抗筋を同時に百パーセントの力でぶつけ合わせる「超・等尺性収縮(アイソメトリック)」であった。


 第一節『呼吸連動求心性覚醒運動』から始まり、第四節『脊柱圧縮対抗屈伸』、第七節『末梢微小循環遮断並びに強制還流運動』に至るまで、搭乗員は自らの筋肉で己の骨を圧し折り、内臓を雑巾のように絞り上げる。体内の圧力を極限まで高めることで、ロケットの過剰Gによる血液の偏り(ブラックアウト)を物理的にねじ伏せるのである。


 だが、どれほど肉体を固めようとも、人間には感情がある。暗黒の宇宙空間で冷静さを失えば、直ちに計画は破綻する。


 その精神の去勢を担ったのが、服部正信が作曲したピアノ伴奏であった。




 服部がなぜ音による自律神経の強制支配という狂気に取り憑かれたのか。その原点は、戦後二十六年が過ぎても彼の脳髄にこびりついて離れない、一九四五年のマリアナ海溝の記憶にあった。


 当時、学徒出陣した音大生として帝国海軍の潜水艦に水測員(ソナーマン)として乗り組んでいた服部は、米駆逐艦の爆雷から逃れて自動懸垂して静止した海中で、超深海の底から響く聴いてはならない「音」を聴いた。それは鯨の声でも地殻の軋みでもない。海底の泥のさらに下、有史以前からまどろむ山脈ほどもある巨大な「何か」が、ゆっくりと寝返りを打つような不協和な脈動であった。


 ユークリッド幾何学的な規則性を完全に拒絶したその不浄な倍音が、潜水艦の外殻を超えて届いた瞬間、周囲の幾人かの乗組員は鼓膜を鉛筆で突き破り、「星が降ってくる」と泣き叫びながら発狂死した。


 奇跡的に生還し復員、音楽学校に復学した服部は戦後間もない フランスに留学。パリ音楽院でメシアンの下に学びながらも、西洋音楽の美には一顧だにしなかったらしい。彼が探求していたのは、あの深淵の恐怖に直面しても人間が壊れないための「音響のワクチン」――すなわち、深淵の周波数を人工的に再現し、聴く者の大脳辺縁系の恐怖中枢を最初から麻痺させてしまう技術だったのである。




 服部が提出した「マル四」の図形楽譜は、音楽の常識に対する冒涜であった。


 調性は完全に解体され、ピアノは平均律ではなく、古代ギリシャの「ピタゴラス音律」を独自に歪めた特殊調律(デチューン)に指定された。特定の和音を強く打鍵した際に生じる「ウルフのうなり」が、搭乗員の脳波を強制的にシータ波へと引きずり込む。さらに第十節『前庭小脳系同期捻転』では、左手の4/4拍子と右手の7/8・5/8拍子が乱雑に入れ替わるポリリズムによって左右の脳半球の情報処理を分断し、三半規管からのエラー信号を遮断する。テンポはBPM30という時間の停止したような遅さから、第七節ではBPM180のクラスター(鍵盤を腕で叩き潰す奏法)へと暴力的に跳躍した。


 この悪魔のスコアを弾きこなせるピアニストとして選ばれたのが、当時桐朋学園大学に在籍していた十九歳の女子学生であった。


 彼女は音の周波数とリズムを絶対値として知覚する「超・絶対音感」を持ち、どれほど複雑な現代音楽でもメトロノームと寸分違わぬ正確さで、一切の感情を交えずに弾き切る演奏者だった。教授陣からは「技術は世界一に近い。だが演奏に血が通っていない」と気味悪がられていたが、服部にとって、感情というノイズを持たない彼女こそが、彼の脳内に描かれた譜面の再生のための完璧な「生体部品(バイオ・コンポーネント)」であった。




 昭和四十七年十一月十四日、深夜零時。


 渋谷のNHK放送センター地下深く、第五スタジオ(CR-509)の中央に、通常の88鍵より低いエクストラ・ベース(97鍵)を備える巨大なベーゼンドルファー・インペリアルが据えられた。


「テイク1、第一節から通しで」


 服部の指示とともに彼女が鍵盤に指を下ろした瞬間、スタジオ内の空気が物理的に歪んだ。最低音域の弦がピタゴラス音律の狂った和音を弾き出し、目に見えない圧力波となって床を這い回ったのである。それは服部がかつてマリアナの海底で聴いた、あの「名状しがたい脈動」の限定的ながら、確かにその再現であった。


 音量指定は狂気の「ffff(フォルテッシッシモ)」の連続。テイクが重なるにつれ、まずスタジオ内に待機していたベテラン調律師が、内臓の共振周波数に直撃を受けたのか、激しい嘔吐と目眩に襲われ、鼻血を吹き出して倒れた。ピアノの演奏のはずなのに、なぜかオーボエやパンフルートの音が聞こえてくるような気がした。


 彼女の演奏は止まらなかった。テイク15を超える頃には指先が裂け、象牙の白鍵が鮮血に染まったが、静謐な横顔には苦痛も恐怖も浮かばなかった。彼女の虚無の瞳は、宇宙の暗闇を平然と見つめ返し、それをひとつの解として咀嚼していた。


 翌日の午後二時、連続十四時間の録音を終えて彼女が鍵盤の上に倒れ伏した時、手首は微細な疲労骨折を起こしていた。


 副調整室で波形モニターを見つめていた服部は、テープに刻まれた「音塊」と、血を流しながらも、深淵を凌駕した「新しい人」の誕生に、宗教的なまでの歓喜に震えながら笑っていたという。


「完璧だ……。この福音をもって人間は、人間のまま宇宙の闇を直視できる」


 *


 だが、彼女の肉体を介してもたらされたその福音は、人間であるパイロットたちにとっては呪い以外の何物でもなかった。


 昭和四十八年(一九七三年)五月十一日。


 東京・虎ノ門の郵政省分室地下二階に造られた鉛張りの減圧チャンバーで、関係閣僚や各省庁の幹部を集めた極秘査閲が行われた。


 全十二名の候補者のうち、過酷な訓練で横紋筋融解症や精神崩壊を起こした脱落者を除く四名が最終選抜されていた。その筆頭である航空自衛隊の神谷一等空尉が、〇・七気圧に減圧されたカプセルのモックアップ内で、スピーカーから流れる服部の狂音に合わせて「マル四」を開始した。


 マジックミラー越しに見守るエリート官僚たちの前で、神谷の肉体は瞬く間に赤黒く鬱血し、頸動脈が親指ほどの太さに浮き上がった。


 筋肉と骨格が互いに押し潰し合う「ミシッ、ギリリッ」という破砕音がマイクを通じて響き渡る。滝本師範に「腱で骨を圧し折る気組みで固めろ!」と竹刀で叩き込まれた極限の拘縮。収縮期血圧は二五〇ミリHgを突破していた。


 そして、あのBPM180の不協和音が炸裂する第七節『末梢微小循環遮断』から第八節『胸郭拡張呼吸』への移行部であった。その瞬間、神谷の動きがピタリと止まった。


 彼の顔面が土気色に変色したかと思うと、目、鼻、そして固く食いしばった歯列の隙間から、鮮やかな血の筋がツーッと流れ落ちた。肺胞毛細血管と鼻腔粘膜の破綻。次の瞬間、神谷は直立不動の姿勢を一切崩さず、棒のように前倒しになって床の鋼板へ激突した。


 意識が飛んでもなお全身の強直性痙攣(テタニー)が解けず、関節がロックされたまま倒壊したのである。救出のためチャンバーが強制開放され、あの「音塊」も視察室内に解放された。


 視察室は阿鼻叫喚の地獄と化した。流血の惨状と、スピーカーから垂れ流されるピタゴラス音律の不規則で不協和な、超低周波な筈なのに甲高い笛の音も感じさせる呪音に脳髄をかき回され、郵政省の事務次官補は過呼吸を起こして白目を剥いて卒倒し、大蔵省の主計局幹部は絨毯に四つん這いになって胃液を吐きながら「数字が溶けていく」と譫言を繰り返した。彼らはいずれも、その後官僚として再起不能となった。




 その夜、赤坂の高級料亭の奥座敷で開かれた緊急会議では、誰も鍋の松阪牛に箸をつけようとしなかった。鍋の中で赤から茶色へと煮え縮む肉の様が、昼間の神谷一尉の姿を連想させたからだ。


「この体操は隊員を強化するものではなく、自壊させる毒だ!」と青ざめる防衛局長に対し、神保博士は氷のような目で「神谷一尉は生きている。脳血管が吹き飛ばなかったのは第四の身体操作があったからだ。彼から採取したコールタール状の血液こそ、宇宙線に耐え得る生体プラズマの証明だ」と反論した。


 重苦しい沈黙の中、下座で一人だけ悠然とすき焼きの肉を溶き卵に絡めて頬張っていた若き内閣官房副長官が、ナプキンで口元を拭いながら言った。


「冷める前にいただくのが作法ですよ。……今、我々が議論すべきは隊員の健康管理ではない。国家の存亡です。英雄たちの血が流れるのは、真の独立国家としての生存権を得るための不可避のコストでしょう」


 だが、上座でハバナ産の葉巻を燻らせていた最大派閥の領袖――後に首相となる大物政治家――は、アメリカ従属からの独立という野心の裏で、拭いがたい悪寒を抱いていた。


 昼間、チャンバーの窓越しに見た神谷一尉の「目」である。そこには苦痛も愛国心もなく、ただ宇宙の虚無を反射するガラス玉のような空洞だけが広がっていた。


「……我々は国を守るために、中身が日本人でも地球の生き物でもない『何か』を作ろうとしているのではないか」


 大物政治家は計画の完全放棄こそ拒んだものの、東京のど真ん中での実験を禁じ、計画をより深い闇へと潜行させるよう命じた。




 しかし、歴史の幕切れは思わぬ方向から訪れた。


 その年の秋のオイルショックに続き、一九七四年一月、東海村のクリプトン85の微量漏洩と内之浦のミリタリーグレード・ジャイロの調達を察知したCIAの報告を受け、米国務長官キッシンジャーから首相官邸へ一通の非公式メモ(デマルシェ)が突きつけられたのである。


『貴国が推進する独自の宇宙空間生体適応プログラム並びに高推力固体推進システムについて、合衆国政府は重大な懸念を有している』


 背後に「安保破棄と経済制裁で日本を石器時代に戻す」という超大国の殺意を秘めた最後通牒の前に、日本政府は膝を屈した。




 同年三月三十一日


『案山子』『火鉢』『虫籠』の三計画は全面凍結された。


 関連資料の多くは焼却されたが、「ラジオ体操第四」のマスターテープと運動図解マニュアル一式だけは、なぜか「内側を厚い鉛張りにされた黒い防水トランク」に厳重に封入され、自衛隊の警務隊によって運び去られた。トランクを運んだ隊員は、まるで中に生き物が入っているように重心がぐらりと動き、表面から微かな低周波の振動が伝わってきたと証言し、のちに自衛隊を辞めて密教の僧侶となった。


 *


 だが、ワシントンの戦略家たちは一つだけ計算違いをしていた。この島国の人間が持つ「臥薪嘗胆」という名の粘着質な執念である。


 一九七四年の屈辱を骨の髄まで刻み込んだ政官中枢は、その後の歴史において軽薄な理想主義や新自由主義の罠を徹底的に拒絶した。


 一九九〇年代のバブル崩壊に際しては強権的な国家資本主義的介入で製造業と金融を死守し、二〇〇〇年代初頭には技術流出を防ぐため世界に先駆けて「チャイナフリー(脱中国依存)」を断行した。第2子以降の住宅現物給付と高専・理工系大学の完全無償化によって「第3次ベビーブーム」を引き起こした結果、二〇二六年時点での日本の合計特殊出生率は一・九六を記録。一度たりとも他国にGDPで抜かれることなく、名目GDP約一千九百四十兆円を誇る世界第二位の経済超大国として君臨し続けたのである。


 そして、有り余る資金と若きエンジニアたちの頭脳は、半世紀前のリベンジへと注ぎ込まれた。


 彼らが学んだ教訓は「空の上には偵察衛星の目があり、隠れる場所はない」ということだった。ならば、電波も光も届かない「深海」に沈めばいい。宇宙空間のゼロ気圧に耐えるカプセルと、深海の数百気圧に耐える潜水艦の耐圧殻は、力のベクトルが逆なだけの双子なのだから。




 全固体リチウムイオン二次電池を搭載し、機関室をモジュール交換可能にした通常動力型大型潜水艦「みずち」「ちひろ」「うなばら」の三隻をトロイの木馬として先行建造した後、コロナ禍で世界の目が眩んでいた二〇二一年三月十一日、ついに国産原子力潜水艦一番艦「わだつみ」が就役した。一次冷却水ポンプを排した「一体型自然循環冷却方式・加圧水型軽水炉」と固体二次電池により、背景雑音に溶け込む無音航行を実現した怪物である。


 二〇二六年八月上旬、南鳥島沖の超高高度ロフテッド軌道による飛翔試験と、水深六千メートルの海底からさらに地下四千メートルの玄武岩盤に掘り抜いた縦坑内で、ケイ酸塩を溶融させて放射性物質を天然ガラス固化体に封じ込める世界初の「ゼロ・エミッション熱核実験」を完遂。


 同年八月十五日、「わだつみ」の背中の四基のサイロに、最大射程一万二千キロ・十二基のMIRV(一五〜五〇〇キロトン可変出力の『二六式特殊弾頭』)を収めた純国産SLBM『二六式水中発射弾道弾』が装填された。むろん、計算上はワシントンやニューヨークにも届くが、我が国は誠実な同盟国であるため、そのような不穏当な座標は初期設定には入っていない。本当である。


 続く二〇二七年には二番艦「みつは」、二〇二九年には三番艦「あずみ」が就役し、二〇三〇年の現在、日本は深海からの完璧な核抑止ローテーションを完成させている。




 水深八〇〇メートルの深海を九十日間無音で潜航し続ける艦内で、鉛のトランクの遺産はしっかりと生きている。


 徹底的な音響的ステルス実現のため、バーベルもランニングマシーンも使えない静寂な艦内。乗組員たちは一日二回、交代で通路に整列し、骨伝導イヤホンを装着する。流れるのは、半世紀前に録音されたあのピアノ音源を、人間が発狂しないギリギリの周波数帯へデジタルフィルタリングしたパルス音だ。


『――艦内特別保健体操。……始め』


 防衛医科大学校の半世紀の研究により、毛細血管が破綻する寸前の「九十二パーセントの出力」で神経リミッターがかかるよう安全にデチューンされた『実用型・ラジオ体操第四』


 薄暗い通路で七十五人の海上自衛官たちが、足音一つ立てずに直立し、プルプルと小刻みに震えながら等尺性収縮を繰り返す。そして第十一節『大脳皮質・辺縁系乖離運動』に入ると、全員が奥歯を噛み締めたまま、口角を極限まで引き上げた「完璧な笑顔」を一斉に浮かべるのである。


 深海の水圧への恐怖も、かつて幾万の無辜の同胞を焼き尽くした四十八個の人工の太陽とともにあるプレッシャーも、鉄の棺桶に閉じ込められている閉所へのパニックも、その人工的な笑顔のフィードバック信号によって脳内から綺麗に消去されていく。


「今日もいい汗をかいたな」「肩こりに効くよな、これ」と爽やかに笑い合いながら核ミサイルのコンソールへと戻っていく彼らの姿は、国家によって完璧に管理された、極めて健康的でアットホームな職場の光景そのものである。 


 *


 ところで、あの昭和四十七年の深夜、指から血を流しながら呪いの音源を弾き切った十九歳のピアニストはどうなったのか。


 神保博士が自宅の地下室で石像のように硬直して死に、服部正信が音楽界から忽然と姿を消したのとは対照的に、数日間の昏睡から目覚めた彼女は、ヨーロッパへと渡ってメシアン国際コンクールで審査員を恐怖のどん底に叩き落とす圧勝を飾り、「ピアノで宇宙を創世する巫女」として世界的巨匠へと大成した。


 彼女は、服部が仕掛けた深淵の周波数を前にして発狂するどころか、「あら、少し変わった和声進行ね」とばかりに、自らの音楽的語彙として完全に消化吸収してしまったのである。


 さらに拍子抜けすることに、彼女は三十代の頭に極めて凡庸で温厚で善良な男とあっさり結婚し、健康な男児を出産し、手作りのアップルパイを焼いて町内会のバザーに出すような、あまりにも普通で幸せな家庭生活を謳歌した。


「宇宙がどれほど冷たくて、人間の存在が塵のように無意味だとしても、それはそれとして、今日の夕飯の支度はしなくちゃいけないでしょう?」


 彼女はそう言って朗らかに笑った。彼女の徹底した合理主義と超・絶対音感の前では、名状しがたい宇宙的恐怖(コズミック・ホラー)など、日常のタッパーウェアの隅に押し込んでおく程度のスパイスに過ぎなかったのである。


 ただ、ごく稀に、彼女がコンサートのアンコールで弾く自作の短い即興曲をラジオで聴いた元内閣調査室の老人は、顔面を蒼白にして震え上がったという。


「……違う。あれは第七節『末梢微小循環遮断運動』の伴奏パートだ。彼女の中では、第四の呪いがまだ鳴り続けているんだ……」





 二〇三〇年の今も、文化勲章を受章した七十代後半の彼女は、都内の閑静な自宅で穏やかに暮らしている。 


 彼女の周りで怪異など一度も起きたことはない。ただ、彼女が孫を寝かしつけるために口ずさむ子守唄が常に7/8拍子と5/8拍子の奇妙なポリリズムであることや、それを聴いている飼い猫が部屋の何もない空間の隅で「目に見えない多関節の何か」をじっと目で追っていること、そして庭の朝顔のツルが時折、非ユークリッド幾何学的な奇妙な角度で絡み合って伸びていくことを除けば。


 もしあなたの耳に、どこからともなくあの変拍子のピアノ伴奏が聴こえてきたとしても、決して恐れる必要はない。


 深海八〇〇メートルでは自衛官たちが世界平和のために今日も模範的な笑顔を浮かべ、地上では老ピアニストが夕飯の献立を考えながら機嫌よく鼻歌を歌っている。


 名状しがたい暗黒の神々も、この剛胆でマイペースな島国の住人たちの手にかかれば、すっかり去勢されて健康増進と家庭円満のための忠実なメトロノームに成り下がっているのだから。





いあいあ! おしまい



最後までお付き合いいただき感謝します。

気に入っていただけたら、ページ下部よりブックマークとポイント評価をお願いします。


宜しければこちらもどうぞ


「あなたはラジオ体操第四を知っていますか?」序章+全10話+おまけ2話

https://ncode.syosetu.com/n9268mw/


「南山共和国建国史シリーズ」

https://ncode.syosetu.com/s0124k/


ご興味がある方はご一読くださいませ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。