正義って何?
[前回の話]
既存概念の独占への忖度
[今回の話]
忖度こそが正義?
始めに。
タイトルの通り今回のテーマは正義に対する不振です。倫理観を取り扱うものであるため正義こそが正義という価値観の方には不快となること間違いなし、なので悪を許容できる方のみお読みください。
いきなりネタばらしになりますが、ほぼ力こそが正義という結論ですので。
「力なき正義は空論であり、正義なき力は暴論である。故に双方を揃えて用いるのが正論である」──とでもいうのでしょうか、パスカルの『パンセ』からの引用ですが詳しい原文を知らないため意訳です。
でもこれって「何を主張してみても相手が馬耳東風を決め込めば意味がないという話であり、だからといって説得なしに強行すれば正当性は失われる。ならば大義名分を用意してから実力行使を行えばよい」なんて風に曲解した意訳も可能なんですよね。本質はともかく形式は凡そ同じなので。倫理的に見れば目的と手段の逆転なのですけど、実は秩序こそが真の目的であり正義も力もどちらも同じ手段に過ぎず、倫理観を持ち出すのは解釈への詭弁であるというところでしょうか。
パンセの本文を読んだことのない私にはこういう理解しかできないのですが、人間社会が求めるものへと昇華すればこういうことになる気がします。
正義を説明するときによく言われるのが秩序こそが正義であるという定義。
ですが秩序というものは相手が理解し納得していなくとも従いさえすれば維持できるもの。ならばそれを強制する力こそが正義ということにならないでしょうか。少なくも現実においてはそれが最も合理的であるとされ社会的に適用されている感じです。
まあ、事なかれ主義からすれば因果こそが不幸であり無の秩序こそが平穏に違いないでしょうから。
とはいえ、人間とはそれぞれ個性を持つ存在でありそれを主張する欲求を持つもの。存在意義の肯定と主張をせずにはいられない存在です。ですがそんな性は社会全体から見れば平等性を脅かすものでありシステム的に不都合な悪に過ぎません。結果出る杭は打たれるということになるわけで、社会はそんな強制を秩序に基づく正義と定義し許容します。
ですがただ一つだけ抜穴が。それは自身が秩序を司る側になること。管理する側はシステムの上に存在するため必然的にそのルールに縛られる必要性が緩まります。そりゃあそうですよね、取り締まる者が取り締まる権利を否定されては取り締まることなんてできないですから。(笑)
で、特権を持つ者となると、今度はなぜ管理する側と従う者が対等でなければならないのかという不満が生まれるもの。上と下は階層が別な存在であるという概念の現実が自尊心を蝕むようになるわけで、結果区別が差別へと変わるのも必然なのでしょう。秩序が構造である以上縦の繋がりは必然であり否定されてはいないですしね。
こうして区別する権利から差別する自由という歪んだ概念が構造的に定着化。支配力という権威がそれを正当化してくれるため疑問を持つことは多分ないでしょう。
これを目にすれば誰もが支配権力に憧れずにはいられないでしょう。ですが誰しもがそんな上り詰める能力を持っているわけではなく。
そこで新たなる手段を見出だします。管理者との癒着です。強き者を味方につければ自身が強くある必然はないですから。
そして今度は勘違いする。借り物の力を自身の力と思い込む。もしくは取り入る器用さを上位者を意のままに操る力と過信する。こうして上位下層という曖昧な階層が誕生。彼らは権力の代行者を名乗り好き放題を始めます。もちろん純粋に正義をなす者もいるでしょうけど、増長の可能性は先ほどの管理者と同じです。(笑)
──などと偉ぶった考察をしてみましたけど、実際の主題はルールを弄ぶ存在への不信です。
従うだけの者がルールに疑問を持つことは許されないのか? それに抗うことは許されないのか? そんな荒波に適応し自由に活動をする術は?
これらに未だ結論は出ておりません。なので開き直り、これまで通りの悪を騙るスタイルでの活動です。
とはいえルールに従う努力はしますけどね。疑問を持つことと反抗することはまた別ですから。でないと騙りでなく本当の悪になってしまいますしね。(苦笑)
善性の欠如を悪と呼ぶなんて説もありますしね。ならばそれを知らない私は間違いなく悪です。




