愛って何?
[前回の話]
私に力はありません
[今回の話]
力がないならあるところから
何かと世の中の不条理に文句を投げる私ですけど、強ち世の中は世知辛いばかりではないようで「強きを挫き弱きを助ける」や「ノブレス・オブリージュ」の概念もあるんですよね。力ある者は弱き者を支えてあげましょうてやつです。
最近絶対強者による弱者の蹂躙──いや、正しくは相手は強者のようですが、それでも自身が絶対的なそれとなればやはり相手は弱者に格落ちしているわけで──こんなものが流行る世の中だけにね。力がものをいう世の中なら、やられる側よりもやるも側に回りたい、これまで散々耐えてきたのだからその分を取り戻して何が悪い、投資は報われるべきであるってところでしょうか。隣国では火病っていうらしいですね。日本以上に社会的問題となっているらしいです。
いやね、実は私も力の信奉者。パスカルではないですけど「力なき言葉はただの戯言、正義を語るならば力を持つべし」──って、表現は違いますけど彼の言葉ってこんな感じではなかったでしょうか。他にもマキャベリも「安全を求めるならば愛されるよりも畏れられるべし」みたいなことを言ってますし? 「但し憎まれてはならない」なんて後付けもありますけど。そして孫子は「戦わずして勝て」と。東西問わず力こそが正義を支えるものという意見で一致しているようです。
合理的な現実主義だとこうなるんですよね。でないとそれこそ「嫌よ嫌よも好きのうち」なんていうことに。日本人も現実というものをよく解っており、それでも倫理観はそれを許さないという自縄自縛の自覚もあり。
所詮ルールとは権力者の定めたもの、彼らに都合の好い鎖に過ぎない、実際ルールはそれと対となる矛盾が存在するのがお約束。例えば知的財産権と不正競争防止法? 片やアイディアの自由を謳い便乗表現を規制する。もう片やはパブリックドメインの商標化や人格権を以てイメージでアイデアを占有する。……って、それはいいか、それを言うと話が脱線しますし。(苦笑)
こんな私ですが、実はこれってコンプレックスの裏返しなんですよね。倫理に拘る故にどうしてそれが現実では成り立たないのか、どうして世の中はこんな不条理で溢れているのか、それを考察すると必然的に理由も求めることとなり、結果人間の善性よりも悪性、利他よりも利己という自己優先主義に行きつくわけで。まあ、自分あってこその世界ですし自分ファーストは当たり前。仏様だって「唯我独尊」と言ってますから。……って、独善主義ってわけじゃないですよ、念のため。あくまでも自己の存在の肯定ですから。基盤なくして理解なし、「我思う、故に我あり」ってところでしょうか。疑問に疑問を重ねていくと自分自身への疑いと、そしてそんな自分を認めざるを得ないという現実認識へと行き着きますから。
無駄に長い前置きはこれくらいにして本題。愛とは何だろう。
上で述べた感じからすると世の中には自己愛以外に何も存在しないかのようですが本当に利他的愛というものは存在するのでしょうか。
世界に対する愛というものはあるでしょう。これがなければ自身は存在できないですから。物語に舞台が必要なのと同じです。
ならば他者、いわゆる隣人愛というものもやはり必要? 物語は自分一人では成立しませんから。
ということで、世界と隣人の存在は認めららたわけですが、それでは愛はどんな形となるか?
世界については語るまでもないでしょう。自分の住む家を荒したりはしないのと同じです。まあ、汚部屋にするくらいはするでしょうけど?
では隣人は?
自身の利己性に忠実であるならば支配と搾取あるのみ? 都合の好い僕として愛するといった感じでしょうか。当然ながら意に反するならば不要であり、場合によっては有害な存在です。相手を自身の投影と見ればこういう結果となるのは必然ですよね。
だというのに、自分のことを棚上げし相手に愛がないと責めるのが人間。相手を自身を映す鏡と考えれば自分もまた然りとなるのに。
利己と利他は相対する。ここに善悪の概念が発生。自分に都合の良いものが善でありその逆が悪と定義される。逆に相手側からすれば、そしてその集合たる社会からすれば個人の利己は社会という利他、公益に反する悪となるわけで、結果滅私献身が善であり自己愛を以て悪とされる。こうして個人と隣人、世界は対立。社会的観点からすれば個人の権利は全てが悪と定義される。
……これが愛? だとすると愛に価値は無いのでは?
こうして世界や隣人と距離を置けば結局自身の存在意義は失われることに。嫌ならば妥協が必須となります。なるほどこれが他者愛であり世界愛なんですね……。
などと個人の主観から考察してみたわけですけど、これを社会の側から、いやもっと大きな視点で世界を俯瞰的に現象として見てみるとどうなるか?
最近マトリファジーという言葉を知りました。親が子どもにその身を差し出して餌となる行為をいうそうです。
他に交尾後の雄がやはり雌に食べられたりなんてのもあるようで……ってこっちは違うのかな、雄の方は抵抗するみたいですら。蛸なんてそれの最中に雌に毒を仕込んで動きを阻害するらしいですしね。(苦笑)
ともあれ、自然のそれに鑑みてみれば己を捨てた献身こそが愛というのにも説得力があり、知性乏しき虫けらでさえそこまでの愛を持つというのに生命の霊長たる人間にそれができないことは嘆かわしいなどと言われると……。
いや、否定しますけどね。自分でそれをせず他人にのみ求める者の言うことに従う者はいませんから。それに蛸の例にあるように知性が高くなると繁殖だけでなく自己保存という自己愛もちゃんと肯定されていますし。本能と知性は別なんでしょうね。(笑)
今度は人間と世界で。人間という存在は世界から様々な資源を得て活動をします。食においては狩猟や農業で世界から多くの命を奪い生きています。されど搾取される世界は平然としています。いや、偶には災害という形で一矢報いてくることもありますが基本的には多くの恵みを齎してくれるのが世界です。最も愛を具現化した存在といえるでしょう。世界は人間に対価を求めることはありませんから。
これらはどのようにみるべきか。主観と客観の価値観を合わせるとどうなるか?
私の出した結論は次のようになりました。
小なる者は大なる者を喰らい大なる者へ。
大なる者は身を削り小なる者へ。
両者は互いに入れ替わり、立場に合わせ支え合う。
小は大に尽くさず、大は小を貪らず。
多分これがシステムとして正しい姿であり、愛として正しい姿ではないでしょうか。
要するに相互に支え合い、されど無理をしてまで支えないし求めない。
世間では滅私こそが真の愛なんて言われますが、行き過ぎたそれは善ではなく悪というのが私の解釈となりました。
力ある者の寛容、ノブレス・オブリージュはやはり愛。だからこそ力ある者に力は集う。そういうものなのかも知れません。
……理想論ですかねぇ。
実は弱き者の悪の正当化なのかも知れません。




