かつて、ネットには無限の心理的安全性を誇る自由で快適な空間があった
かつて、ネットには無限の心理的安全性を誇る、快適で自由な空間があった
心理的安全性という言葉がある。
定義は難しい。
簡単に言えば、コミュニケーションにおいて、高い期待値を裏切らない度合いだ。
また、心理的安全性は細かく言えば、コミュニケーションの結果が、コミュニケーションコストの投下量に対して、利益や感情としてマイナスに傾かない、また、利益や感情としてプラスになる可能性の幅、その度合いとも言える。
例えればそれは、投資に対する収益の質と言える。
絶対に損をしない、利益率の高い株の銘柄がある。
誰もが詐欺だ、騙されていると言うような、そんな銘柄に囲まれている状況こそが、アリストテレスプロジェクトで発覚した、生産性の高い職場なのだ。
※プロジェクト・アリストテレス(Project Aristotle)は、Googleが2012年から約4年かけて実施した、生産性の高いチームの共通点を見つける研究プロジェクト。
個人の能力よりも「心理的安全性」をはじめとする5つの要因がチームの成果を左右することを明らかにした。
こんにちは、ふりがなです。
今回は、心理的安全性とネットのお話をしたいと思います。
残念ながら世の中のコミュニケーションは、動機がどんなに良くても、徒労どころか悪感情に終わる事が多い。
殊、現実における議論においては、コミュニケーションコストがマイナスに傾く率は非常に高いのだ。
政治、宗教、野球の話題はするな。
これらは投機するコミュニケーションコストが非常に高い話題の分野だからだ。
前提の共有、共感、理解、疑問、討論、総括、仮説の再設定能力、そして話題自体の持つコミュニケーションコスト。
心理的安全性を確保するためのハードルは非常に高い。
経営リスクの高すぎる話題は誰もが避けたがる、そんな話題も、高いコミュニケーションコストの一つだ。
コミュニケーションコストに対して、マイナス利益や悪感情傾かない、かつ、プラス的な利益になる可能性の幅が割と高い条件を考えてみよう。
心理的安全性を形作る、殆どの多くの要素が、コミュニケーションに参加する人の人格を含む『質』にあると気付く事ができるハズだ。
結局は心理的安全性は、コミュニケーションに参加する人で決まるのだ。
対して、存在するだけで心理的安全性の度合いを悪化させるコミュニケーションコストの高い人格も、世の中には居る。
挨拶出来ない、最低限の気配りが出来ない、喧嘩腰である、感情的になる、否定ばかりする、物事を理解する気がない、もしくは物事を理解する能力がない。
そして、コミュニケーションコストを投下される側であるにも関わらず、感謝の念を持たず悪感情で終わる。
挙句が粘着質な性格である事。
かつて主流だった匿名掲示板では、コミュニケーションコストの高い、心理的安全性をぶち壊す人格が多かった。
それは実名性が覆い隠す、人の本来持つ内面の一つでもあったのだろう。
なにせ、相手の感情を揺さぶる悪口が、挨拶代わりだったのだから。
悪意の高い言葉の裏で、それでも匿名掲示板では、コミュニケーションコストのマイナス面は無視する事が出来た。
それは、個人情報や、特定の固定されたアカウントに容易に行き着く事がなかったからだ。
その時の話題は、一切合切が、そこで終わる。
ある意味の潔さこそが、ネットでの無限の心理的安全性のコアだったのだと私は断言する。
必ずしも良質ではないが、時折、辛うじて成立する議論。
そこには、人が自分自身を主体とした、真実や事実を探求する思考の自律性が確かにあった。
一方的で昨今のアカウント制のSNSである。
潔さよさとは真逆である、粘着質であるコミュニケーションコストの高い人格が、たった複数人居るだけで、アカウント制のSNSは大きく炎上する。
心理的安全性の無さを利用して、コミュニケーションコストのやたら高い人格たちが、フォロワーを利用し、人々の意見を封じ込め、やがて自由で快適なネット空間は姿を失うのだ。
そしてコミュニケーションコストの高い人格による攻撃の成功体験の類は、コミュニケーションコストの高い人格の攻撃性をより増加させ、人格のコミュニケーションコストを異常域まで高めていく。
そして、人々を支配的に操るコミュニケーションコストの高い人格の多くの目的は、人を主体とした真実性相当の自律性の探求にはなく、実の所、自信のない自身に代わって権力に依存する事にある。
結果、アカウント性のネットは真実性に関わらず、権力の維持に従事する人でいっぱいになるのだ。
私はそれを、権力依存主体の自律的思考と呼ぶ。
権力依存主体の自律性には、必然的に権力の正当化がつきまとう。
事実に反する虚偽の書き込み、架空の妄想が、権力依存の自律性に付き物なのは、権力が必ずしも正しいとは限らないからだ。
権力は事実を内包しない。
例えば能登半島地震で話題になった、ヘリは着陸出来ないのかという話題だ。
権力依存主体の自律思考を主体とした人格たちは、ヘリは能登半島には着陸できないのだという自らの主張の、明らかな間違いに対して、着陸は出来るだろう、ヘリなんだから、という至極当たり前の、真実性を求める声を一切相手にしなかった。
とにかく集団で粘着して、真実性を無視し、挙句は排斥する。
集団化し、統合されたコミュニケーションコストの高い人格ほどアカウント制のSNSに蔓延った。
私はこれを、集団化し、統合された権力依存主体の自律思考人格と呼ぶ事にする。
自分に自信の無い人ほど、コミュニケーションコストの高い人格に付き従う傾向にある。
資本主義社会という個人が競争に曝された、健全な自己確立の達成し難い現代では、自信のない人が社会にあふれているのだ。
自信の無い人格から主体的な思考や、健全な思考の自律性は生まれない。
自信のない自身を主体として考える事に、需要自体が発生しないからだ。
結果、権威に盲目的に付き従う、権威も思考にも、自律的な属性を強く持たない、フォロワー的人格が多く生まれるのだ。
そして、フォロワー的人格の中には、受験や、恋愛を含む競争社会、体格や容姿などの競争で、自身の確立を絶対的に喪失し、自身の外側である権力に自己確立を完全に代替しようとする人格が生まれる。
自身の中の権力の絶対化と、結局は自己確立は成立しないという自己矛盾が、権力主体の自律性を希求するという思考を生むのだ。
権力への盲信的な服従と、頻繁に繰り返す真実性のない攻撃は、実の所、自身のない自分は正しいのか、という事の繰り返しの再確認である。
権力依存主体の自律思考は、彼らの第二の人生での始まりであり、攻撃性は、結局の所、赤子となった大人の試し行為なのだ。
第二次世界大戦前夜の1941年に出された、エーリヒ・フロムは著者『自由からの逃走』において、ナチス・ドイツの台頭の理由に、権威主義的、攻撃性の高さ、そして機械的画一性を挙げている。
今日では権威主義的パーソナリティとして知られているそれらは、アカウント制掲示板に溢れる、権力依存主体の自律的思考の統合人格そのものではないのか。
そして、権力は匂いを嗅ぎつける。
実の所、人社会や、人社会を前提におく真実性は、権力依存主体の自律思考に極めて弱い。
これは、かつて私が書いた、社会全体が競争下にない状態では、必然的にアリストテレス論理学が権力に疎まれて消え去る話に似ている。
権力者は、自己確立を喪失して、権力依存主体の自律思考に陥った人格を見つけだし、積極的に支持し、真実の自律性を攻撃し、歪曲するようになるのだ。
馬を鹿とし、それでも、それを事実と憚らない社会は、敵対的構造にあるアリストテレス論理学を将来葬りさるだろう。
そんな事を指摘する私が、とある匿名掲示板に書き込まなくなった理由を書こう。
そもそも、規制が激しく書き込めないからだ。
心理的安全性はコミュニケーションコストの投下がなければ始まらない。
今や匿名掲示板における心理的安全性は、最早アクセスするだけで不愉快に陥るという現象で激的に成り下がった。
そうして私は思うのだ。
かつて、ネットには無限の心理的安全性を誇る、自由で快適な空間があったと。




