饅頭
丞吉郎が息子の正太朗を連れ
宍粟家に戻ると
青谷家から
正胤と方子も来ていた
正太朗は加乃恵を見つけると
「母上」
と一目散に膝に飛び乗りしがみ付く
「正太朗。
怖い思いをさせてごめんね、ごめんね
もう二度と怖い目には合わせませんからね」
それまで青い顔をして震えていた加乃恵は
力一杯に正太朗を抱きしめ涙を流し
丞吉郎に
「有難うございました
この御恩は一生忘れません」
と頭を下げた
「何を言うのです
我が子を守るのは当たり前のことです
それよりもお聞きしたい
なぜ子ができたと
私に知らせずにいたのです」
「あの日、丞吉郎様は
済まないと謝られたではないですか。
私はお慕いしていたのに
丞吉郎様は違うのだと知り
でも、
それでも貴方様を慕う心は消えなくて
だからこそ丞吉郎様に
迷惑を掛けたく無く、黙っていたのです」
丞吉郎は必死に記憶を辿る
自分はあの日、謝ったのか
加乃恵と結ばれて嬉しかったのに
何故、何を謝ったのか
あっそうだ
確かに済まないと言った
だが意味が違う
「それは違うのです
私は子供の頃から加乃恵さんが好きで
いつか妻にと願っていたのに
夫婦になる前に結ばれて
順序が逆になり申し訳ないと思い
それを謝ったのです
あの後、二人で結婚はいつにするか
相談しようとしたのに
加乃恵さんが急に帰ってしまい」
それを聞いても加乃恵の心には疑念が残る
それが本当ならば手紙の一つでも
くださるだろうに、と
丞吉郎の父、弥兵衛と
加乃恵の父、正胤は
二人の遣り取りを黙って聞き
いったい何故こんな事になったのかと
理解に努め
郁と方子は
互いに睨み合い一触即発の状態
正太朗は安心したのであろう
加乃恵の膝の上で良く眠っている
ここで方子が口火を切るように
「当時、娘は十六歳だったのですよ
よくも出会い茶屋に連れ込んだもんです」
その言葉に応戦するように郁が
「まだ十六と言うのに
出会い茶屋へ入るなど
恥じらいの無いことです」
「娘が悪いと仰せですか
これは男の責任でしょう
責任逃れされるのですか」
「付いて行く方も付いて行く方だと
言っているのです」
妻達の言い争いに
弥兵衛と正胤は
巻き込まれまいと遠くを見つめる
丞吉郎の
「おやめください
あの日のことは全て私の責任です」
の言葉に
方子勝ち誇った顔をし
郁は唇を嚙む
「加乃恵さん、勘違いをさせ申し訳無かった」
「勘違いと仰せですか。
あの日以来一度も会いに来ては下さらず
東京へ行かれていた間も
手紙一つ下さら無かった
私はずっと心の奥で貴方様からの便りを
お待ちしていたのに」
「それは二人は結ばれた仲なのだから
何も言わなくても私の心はお分かりだと
帰りを待っていてくれているものと
信じていたからです」
丞吉郎のこの言葉に
方子は眉を吊上げ
「言わなければ分かりませんよ、
家の旦那様といい
どうして殿方は
言わなくても分かるなどと思い込むのか」
郁も
「本当ですよ、
感謝しているなら有難うと言うべきです
こっちは毎日休み無しで
家族の世話に明け暮れているのに
労いの言葉くらい
口から出ないんですかね」
「まったく同感ですわ
言わなくても分かるだろうなんて
勘違いも甚だしい」
何故か敵対していた方子と郁が
同じ責める相手を見つけ
意気投合し口撃している
女子とは摩訶不思議な生き物である
口撃の的の弥兵衛、正胤
丞吉郎は小さくなる
ここで郁が
「ところで、その子は
本当に丞吉郎の子なのですか」
とその場を凍りつかせる発言をした
その言葉は
郁の息子には良家の娘を嫁に迎えたい
下級士族の娘を嫁に迎えたく無い
との心の現れだ
その時、寝ている正太朗が
足をばたつかせ着物がはだけ
弥兵衛が声を上げる
「見ろ、この子の太股には
黒子があるではないか」
そして立ち上り自分の太股の黒子を指差し
「儂と同じ場所だ
丞吉郎にも同じ場所に有る
親子三代で同じ場所に黒子とは奇遇だ
それにこの寝顔
丞吉郎の幼い頃にそっくりではないか」
本当は郁も
正太朗の顔を見た時から
息子の子に違いないと分かってはいたのだが
それでも素直に認められずにいた
「丞吉郎殿、
正太朗を我が子と認めるのですね」
初めて正胤が口を開いた
「勿論です
紛れもなく正太朗は我が息子です」
正胤は立ち上がり
丞吉郎の胸ぐらを掴み
拳を握り顔を殴った
「これは今日まで一人耐え忍んだ
我が娘、加乃恵の代わりだ」
と怒りの声を上げながら
すると今度は
弥兵衛が勢い良く立ち上ったので
正胤に掴みかかるのではと
方子と郁は肝を冷やす
しかし心配に反し
弥兵衛は
丞吉郎の胸ぐらを掴み
「この戯け者が
中途半端な思慮で他人様を悲しませて
これは青谷の親御様の分じゃ」
と拳で顔を殴り
「これは危うく母と引き離されかけた
儂の大事な孫の分じゃ」
と肩で息をするほど力を込め
もう一発殴った
両家の父から殴られた丞吉郎は
鼻から血を流し
ふらふらしながら膝を揃え
「全て私の不徳が招いたこと
誠に申し訳ございませんでした」
深々と頭を下げた
弥兵衛は
「青谷殿
どうか加乃恵殿を
宍粟家の嫁にくださいませ」
畳に額を付けながら願い出た
「それはなりません」
方子がきっぱりと断り
又しても場が凍り付く
「加乃恵、私は覚悟を決めました
たとえ貧しくとも
一緒に正太朗を立派に育てましょう
世間など気にする必要はありませんからね」
加乃恵は母の決意に驚いた
「それでも、決めるのは加乃恵、お前です
まだ丞吉郎殿を想う気持ちがあるならば
夫婦になればいい
正太朗のためでは無く自分の為に
母が幸せならば子も幸せなのですから」
方子のその言葉に加乃恵は考える
桜の雨に濡れた日の出来事は
言わば自分の早合点が原因だった
正太朗が生まれて嬉しかったのは
愛しい人の子だから
父親の名を明かさなかったのは
愛しい人を困らせたくなかったから
本当は丞吉郎のことを
今でも心の底で慕っている。
だがしかし、
その後の音沙汰なしの対応には腹が立つ
手紙一つでも寄せてくれれば
悩まずに済んだし
父母に無駄な心配をかけずに済んだし
正太朗は人目を気にせず
深覚庵から外に出て
普通の子のように
自由に野原で河原で遊ぶ事が出来たのにと
母として腹が立つ
「丞吉郎様」
加乃恵の凛とした声に
丞吉郎は背筋を伸ばし
嫌な汗をかきながら
「はい」
と応えた
「私は今でも丞吉郎様をお慕いしております
ですが母として
我が子に不憫な思いをさせたのは
この上なく許し難いこと
今後は何も言わなくても分かるだろう
などと言うお考えは
お捨ていただきたい」
「はい、捨てます。きっぱり捨てます」
「約束ですよ。
私だけではなく正太朗の為にもです」
丞吉郎は加乃恵の目を真っ直ぐに見て
腹の底から
「お約束します、夫として父として」
と誓った
加乃恵は正胤と方子に
「父上、母上、今日まで我儘を通し
ご心配をおかけ申し訳ございませんでした
私は丞吉郎様に嫁ぎとうございます」
と頭を下げた
丞吉郎も頭を下げ
「青谷の父上様、母上様、
今日までのこと全ては私の不徳
改めてお詫び致します。
一生涯、大切にすると誓います
どうか加乃恵さんとの結婚を
お許しください」
と願い出
弥兵衛も
「私が責任を持ち
しかと約束を守らせますので
どうか青谷殿
加乃恵殿を宍粟家の嫁にくださりませ」
「承知致しました
不束な娘ではございますが
宜しくお願い致します。
それでよいな方子」
正胤は妻に問う
「加乃恵が望むなら異存はございません
但し、約束を違えられたら
正太朗共々
お返し頂きますのでご承知おきください」
「うおお、うおお」
突如大きな泣き声が響く
その泣き声の主は
今しがた宍粟家に辿り着いたイノ助であった
「これで坊はもう何処にもやられねぇ
ずっと父っ様とおっ母様と一緒だぁ
良かった良かったぁ」
なおも大声で泣き続けるイノ助
その泣き声で正太朗は目を覚ました
そして、すくっと起き上がり
イノ助に歩み寄って
泣いているイノ助の顔を覗き込む
「どうしたのイノ爺
どこが痛いの、泣かないで
正太朗が痛いのを退治してあげるから」
小さな体でイノ助を抱きしめる正太朗
「痛いの痛いの飛んでいけ
イノ爺から飛んでいけ
痛いの痛いの飛んでいけ
イノ爺から飛んでいけ」
イノ助は正太朗を優しく抱きしめる
「坊のお陰で、もう痛くねぇだ
おらずっと抱えてきた胸の痛みが
いっぺんに吹っ飛んだがねぇ
もうどこも痛かねぇ
有難うなぁ
坊はうんと優しい子だぁ
だから坊はこれから
うんと幸せになるんだでぇ」
嬉し涙を流しながら
偽りの無い笑顔のイノ助であった
――――――――――――――――――
丞吉郎と加乃恵が夫婦となって間もなく
宍粟家は士族を除籍し平民となり
家族で話し合い
東京へ移住して商いをする事に決めた
明治五年の春
四歳になった正太朗を荷車に乗せ
親子三代で東京へと旅立った
旅立ちの日は正胤と方子
兼直に志眞乃夫婦
そしてイノ助が見送った
正太朗は
「イノ爺も一緒に行こうよ」
とイノ助の袖を引く
イノ助は正太朗の駄々が嬉しかった
こんなにも自分を慕ってくれる坊が愛おしい
正太朗のお陰で
生まれて初めて
他人を無条件に
愛おしいと思う感情を知る事ができたのだ
「おらは行けねえだよ
坊が東京へ行ったら
青谷の爺様と婆様が淋しいべ
だから、
おらが坊の代りに優しくてやらねえと」
俯く正太朗にイノ助は
手作りの木彫りの虎を渡した
「虎は一番強いんだ、
だから坊も強い男になるんだでぇ
おら七夕戸の空から
何時も坊の無事を祈ってるだでよ」
――――――――――――――――――
宍粟家は東京で飯屋を始めた
丞吉郎の友人
元薩摩藩士、村瀬の紹介で
職人街の人通りの多い道に面した場所に
店を構える事ができた
果たして上手くいくか
と心配していたが
郁のお陰で店の客入りは上々である
店を始めて間もないころ
酒に酔った客同士が喧嘩を始めたのだが
怒った郁が
喧嘩をする男らの首根っこを掴み
そのまま勢い良く外に放り出し
「商売の邪魔だ、喧嘩は外でやれ」
と怒鳴りつけたので
放り出された男らは大人しくなり
それを見ていた客たちは拍手喝采で大喜び
あの店の大女将は
腕っぷしが強くてきっぷが良くて肝がすわてる
と江戸っ子達の間で評判となり繫盛した
―― ―― ――
明治十年
丞吉郎の
これからの時代は学問が大切だ
教養有る者が人の上に立ち
日本を近代化し発展へと導く
との方針に従い
九歳に成長した正太朗は学校に通っている
「ただいま戻りました」
正太朗の声に
弥兵衛が迎えに出て
「おお、正太朗帰ったか。
今日は饅頭の日じゃ
父上が饅頭をくれるぞ
ささっ一緒に挨拶をいたそう」
「はい、お爺様」
と店から住まいになる奥へと入る
『正ちゃん遊ぼう』
正太朗の友達が呼びに来て
店から奥に声を掛ける
「うん、遊ぼう」
出てきた正太朗が饅頭を持っているので
「いいなあ正ちゃん」
「一人だけずるいぞ」
と羨ましがる
弥兵衛は
「お前たちにも
正太朗の父上が饅頭をくれるから
挨拶をしておいで」
言われた子供達は
正太朗に連れられ奥に上がり
嬉しそうに饅頭を手に出てきてた
そこへ丁度
買い物から戻ったイノ助が出くわし
「みんな若旦那に饅頭貰っただか
いかったなぁ坊
気い付けて遊んでくるんだで」
「うん、行ってきます」
正太朗と友達らは
饅頭を手に元気よく外へ飛び出した
「おらぁよ、若旦那には
言いたい事が山ほど有るけんど
今は饅頭だけ貰うとすっかね」
イノ助の言葉に弥兵衛と加乃恵は
目を合わせて笑う
――――――――――――――――――
今から三年前の
明治七年に丞吉郎はこの世を去った
町中で怒鳴りながら刀を抜く士族が
幼子を抱える母親に
切りかかろうとする場に遭遇した丞吉郎は
親子を庇って刀傷を負い
手当て虚しく絶命した
余りにも突然で早すぎる夫の死に
加乃恵は深すぎる悲しみと寂しさで
涙も出なかった
そして丞吉郎に
憤りの感情を湧かせた
一生涯、大切にすると誓ったのに
夫婦として過ごしたのは
三年にも満たないではないか、と
だが他人を助ける為に己の身を投げ出すとは
優しい旦那様らしい死に方だ
やはり私は
宍粟丞吉郎の妻になったことに
一片の悔いもない
夫を心から尊敬し誇りに思った
青谷家に
丞吉郎の訃報を知らせる手紙を出して
一ヵ月後
イノ助が突然
東京へやって来た
「おら坊を守るためなら
命を差し出すと誓っただけど
父っ様ができて安心してたのに
その父っ様が死んじまってよぉ
坊が心配で居ても立っても居られなかった」
それでわざわざ東京まで来てくれたのかと
加乃恵は感謝したのだが
驚いたことにイノ助は
「大旦那さん、おらを此処に置いてくれ
何でもするでぇ置いてくれ」
と弥兵衛に頭を下げたので
いったい何を言い出すのかと
加乃恵は戸惑ってしまった
「坊の為に命を差し出すと心に誓った
おら、つまんねぇ男だども
自分が誓ったことを違えたくねえだ
だから、おらに坊を守らせてくれ」
弥兵衛はイノ助に言って聞かせる
「イノ助さん、それを忠義心と言うんだよ」
「この心は忠義心て言うんかい」
「つまらない男なんかじゃ無いさ
イノ助さん、あんたは立派な男だ
正太朗をそこまで思ってくれ有り難い
どうだろう郁
イノ助さんが居てくれれば助かる
一緒に正太朗を見守ってもらっては」
「そうですね、男手も欲しいですからねえ」
「では決まりだ
イノ助さんには此処で働いてもう
加乃恵、お前も承知してくれるね」
こうしてイノ助は
東京の宍粟家に住みだした
丞吉郎の死後
店は尚更に繫盛した
市中で人々が噂した、
あそこの女将はてぇした肝だが
若旦那も
他人の親子を助けるために死ぬなんざぁ
肝が据わってなけらゃあできねぇ
てぇした男だ
肝屋を贔屓にしねえと
江戸っ子の名が廃ると
そして、屋号は七夕戸屋なのに
いつの間にか
肝屋の通り名で呼ばれるようになった
明治政府が帯刀禁止令を発令したのは
丞吉郎の死後
明治九年であった。
――――――――――――――――――
今日は丞吉郎の月命日である
月命日には必ず
丞吉郎の好物の饅頭を供えるので
家族は月命日を饅頭の日と呼ぶようになった
開店前の客の居ない店で
弥兵衛が語りだす
「加乃恵には感謝している
正太朗を産んでくれたこと
嫁にきてから
姑の小言に堪えてくれたこと
丞吉郎が亡き後
青谷家に戻らず宍粟に残ってくれたこと」
「まあ、何ですか私を鬼姑のように言って
どうせ正太朗を連れて出ていかれないように
と加乃恵に媚びを売ってるんでしょう」
いつの間にか後ろに立っていた郁の言葉に
弥兵衛は驚き
首を竦め郁から視線を逸らし
「儂は別に
その様なつもりで言ったのでは無い」
「そんなこと心配せずとも
加乃恵はどこへも行きませんよ
加乃恵はもう私達の娘なんですから」
郁の言葉に加乃恵は微笑みながら
「はい、
たとえ追い出されても何処にも行きません
私は宍粟の娘でございますから」
と返した
奥からイノ助が大声で
「早く饅頭食わねえと
おらが全部食っちまうだで」
と言い
弥兵衛が戯けて
「そりゃ大変だ」
と笑うので
郁も加乃恵も笑い出す
その笑い声は
静かな悲しみと
ささやかな幸せを乗せ
ゆっくりと店の中を木霊する。
—— 完 ——




