離流
あの雨の日から二ヶ月が過ぎ
加乃恵の傷付いた心は
ゆっくりと落ち着きを取り戻し
丞吉郎の事も諦め
あの雨の日の秘め事も忘れようと努め
淡々《たんたん》と日々を過ごしていた
母の方子の言いつけで
姉の志眞乃を訪ね
帰宅すると加乃恵は目眩を起こし倒れ込んだ
方子とイノ助が部屋に運び寝かせた
「今日は暑くなったでお天道様に
負けたんじゃろ
横になってれば良くなるだでぇ」
イノ助は加乃恵の額に冷たい手拭いを置いた
方子は珍しく台所に立ち粥を作ったのだが
加乃恵は粥鍋の蓋を開けた途端に嘔吐いた
それを見た方子は
「お前、今月は月のものはあったか」
と聞くので加乃恵は暫く考え
「いえ、ございません」
「先月は」
そう云えば月のものは無い
「ございませんでした」
それを聞いた方子の顔が青くなり
「お前、まさか男と
まぐわったのではあるまいな」
加乃恵はその言葉にはっとした
「そうなのか」
下を向く加乃恵に方子は
「正直に申せ」
と詰め寄る
それでも何も答えない加乃恵に
方子は業を煮やし
イノ助に産婆を呼ばせた
産婆は裏木戸を潜り目立たぬ様に来て
加乃恵の診察をした
そして産婆の見立ては
「間違いなく腹に子がいる
正月過には生まれるだろう」
であった
加乃恵は思いも寄らない事実を突き付けられ
何という事になったのだと
頭の中が白くなり顔は青褪め
体が震えた
だがそれと同時に
子を守らねばとの母性が瞬時に目覚めた
診察を終えた産婆は裏木戸を潜り帰って行った
方子は加乃恵に
「父親は何処の誰なんだい」
あの日、
済まないと謝った丞吉郎の言葉で
たった一度で二人の関係は終わったのだ
今更蒸し返しても丞吉郎には迷惑な話だろうし
丞吉郎にとっては通りすがりの出来事
この子は私の子
私だけの大切な子なのだ
父親の名は口にはすまい
と心に決め加乃恵は黙り込む
「志眞乃の夫が、
お前に商家の跡取りを見つけてくれ
今日はその相手に会わせるために
大喜屋へ行かせたんだ」
方子の意図を
加乃恵は今初めて聞かされた
大喜屋とは
呉服屋で姉の志眞乃の嫁ぎ先である
ああ、可哀想な人だ
と加乃恵は母を哀れに思う
母の方子は幼くして親を亡くし
親類に育てられ
格下の青谷家に嫌々嫁がされた
下級武士の青谷家は
野良仕事をしなければ生活がままならない
そこで金銭面を援助させようと
方子は姉の志眞乃を
大喜屋へ嫁がせたのだ
加乃恵は勝手に、そう信じていた
「お前なんぞ何の取り柄も無いのだから
せめて金の有る家に嫁いで
親を安心させるのが
孝行と言うものであろう」
なんと自分勝手な母なのだ
姉だけでなく私のことも金のために
商家へ嫁がせるのかと腹が立った
「腹の子の父親は勿論
金がある家の男だろうね
別に相手が所帯持ちでも構わない
月々お手当を貰って
お前と腹の子が金に困らなければ」
加乃恵は母の卑しい話を聞くのも嫌だった
口を結んで方子を睨む
「なんだ、その目は」
怒鳴りながら方子は加乃恵の顔を叩いた
帰宅した正胤が妻の怒鳴り声に驚き
居間の障子を開け
その様子を目にし
「何をしておる」
と止めに入った
方子は怒りを顕わに
「穀潰しの娘が孕んでおいて
父親の名前も言わないんです、憎たらしい」
「誰が孕んだと言うのだ」
「ですから加乃恵がです」
そう言いながら方子は加乃恵の襟首を掴み
畳に叩き付けた
「よさぬか方子
儂が加乃恵と話をする
其方は部屋へ戻っておれ」
日頃は穏やかな正胤がきつく言ったので
方子は腹立たしそうに居間を出た
正胤は静かに加乃恵に話しかけた
「懐妊は誠か、身に覚えがあるのか」
加乃恵は頷いた
「父親の名は言えぬのか」
加乃恵は頷いた
「手籠めにされたのか」
加乃恵は大きく首を横に振った
その様子に正胤は目を閉じ深く息をし
「切ないのお加乃恵
儂の大切な娘が
腹の子の父を思いやり
何も言えぬその気持ちが
儂は切ない」
加乃恵は下を向き手をきつく握りしめた
自分が為出かした事で父を悲しませている
なんという親不孝をしてしまったのだ
それと同時に
これから生まれ来る我が子を守るため
どうしたらよいのかと不安に襲われる
「まずは無事に産む手立てを考えねばな」
その言葉に加乃恵は顔を上げ父の顔を見た
「ここには置いてはおけぬ
嫁にも行っておらぬ娘が
大きな腹を抱えていては世間の笑いもの」
加乃恵は悲しげに小さく頷いた
「明日一緒に深覚庵へ行き
姉上に其方を預かってもらえるように
頼む事にしよう」
深覚庵とは
正胤の姉の深幸が
夫亡き後に
人里離れた場所に庵を編み
静かに暮らしている
深幸は家を助けるため
妻を亡くした三十も年上の男へ
後妻に入り子宝には恵まれなかったが
年老いて寝たきりなった父に
誠心誠意尽くし
よく面倒を見てくれたと
義理の息子達が感謝して
毎月欠かさずに生活するには
充分過ぎる金子を
深覚庵へ届けてくている
加乃恵は手をつき
「父上、ご心労をお掛けし申し訳ございません」
と頭を下げた
「加乃恵よ母を許してくれ
全ては不甲斐ない父の責任だ」
正胤は妻の方子に
加乃恵の身を深幸に預ける事を話した
深覚庵で過ごしていれば
気持ちも落ち着き
腹の子の父親の名を言うかもしれないと
それを聞いて方子は
「加乃恵が留守にしたら
此れからは畑仕事は誰がするのです」
「兼直にやらせればよかろう」
「兼直は勉学に忙しいのです」
方子は出世に縁のない夫に見切りをつけ
息子の兼直に将来の夢を託し
金を惜しまず分不相応な程に学問をさせ
それ以外は何もさせずにいる
正胤は
「学問だけでは生きては行けぬ
甘やかし過ぎては一人前の男には育たぬ
明日から畑仕事も薪割りもさせるように
これは家長としての言いつけだ
よいな、方子」
――――――――――
藩主の命で江戸へ行った丞吉郎達は
好き勝手に藩邸から出る事を禁じられていたが
来たる日のために練兵館へ赴き
同じ門下生の
長州藩士、山瀬匡孝と
剣術の稽古に励んでいた
「いったい江戸攻めは、いつになるのやら」
丞吉郎のぼやきを聞いた山瀬から
「なんだ宍粟
もしや国元にいい女でもできたのか」
と冷やかされ顔を赤くし
「ああ、できた
一生を掛けて守りたい女が待っている
早く帰って嫁に迎えに行かねば」
江戸の空を見上げながら
郷里にいる加乃恵に思いを馳せる
そして心に誓う
加乃恵の為に必ず生きて帰るのだと
――――――――――――
翌朝
正胤は加乃恵を連れて
深覚庵に住む
姉の深幸を訪ねた
「姉上、ご無沙汰をしておりました」
「ほんに久しぶりじゃ
志眞乃の婚礼以来になるのお
青谷の皆は元気ですか」
「はい、お陰様で元気にしてはおりますが
実は折入お願いしたい事がございます」
正胤は姉の深幸に
加乃恵の身の上に起きたことを話した
聞き終わると深幸は
「なるほど、そういう事ですか。
加乃恵に一つ尋ねるが
それで後悔はないのだね」
「はい、私には
何の後悔もございません」
「そうか、それならばここで暮らしなさい」
深幸が女中のウタを呼びつけた
「ウタは五人も子供を産んでいるから
不安なことは何でも相談するといい
ウタ、今日からお産まで預かる事になった
姪の加乃恵です、宜しく頼みますよ」
「へえ、承知しました。
加乃恵様、何なりとお申し付けください」
ウタは深幸の嫁ぎ先の女中であったが
深幸が深覚庵へ移り住む時に
自分は最近に夫を亡くし
子供等も一人立ちして
これから先
一人で居てもする事も無く寂しいので
死ぬまで奥様に奉公させて欲しい
と頼みこみ
深覚庵で深幸と二人で暮らしながら
身の回りの世話をしている
働き者で話し好きだが余計な事は口にしない
奉公人の心得はしっかりしていて
信頼が置ける女中である
「加乃恵、今日から住むのだから
ウタに屋敷の中を案内してもらいなさい
私は弟と積もる話がありますから」
加乃恵とウタが部屋を出るのを見届けると
深幸が正胤に
「産むまではよいが
その後はどうするつもりなのです」
「まだ考え倦ねています」
「女郎でも無い若い娘が
一人で子を育てらるほど
世間は甘いものでは無いですよ」
「分かっております
ここで落ち着いて暮らす内に
心を開きせめて腹の子の父親の名を
明かしてくれればと」
「あの様子では易々《やすやす》とは
打ち明けぬでしょう
加乃恵の将来のため
子は秘密裏に産ませねば」
「姉上は青谷家のために
歳離れた男の後妻になってくれた事
申し訳なく思っているのに
又ご迷惑をおかけて」
「正胤、
姉は犠牲になどなってはいません
商家に嫁いだお陰で
今こうして不自由無く暮らしているし
旦那様にも大切にして頂いたのだ
亡き父上母上には感謝している
二人きりの姉弟なのだから
遠慮は無用ですよ」
周囲には
加乃恵は叔母の看病の為に
深覚庵へ移り住む
と偽り
その日から加乃恵は
深覚庵で暮らし始めた
大政奉還まであと四ヶ月。




