03.窓の外
リトナ・シャルエン。九歳。
「魔法についての本を読んでいるそうだが、なぜだ?」
先日迎えた誕生日にも姿を現さなかった父が、別邸に現れた。使用人達は知っていたようだが、私は知らされていない。
突然父の前に立たされ、私は質問されていた。返答を間違えてはいけないと瞬時に悟った。
父は足掻く姿を見るのを嫌う。努力とは滑稽なことであり、恥ずべきことであると、心からそう思っている。そんな人だ。
「理解出来ないものを、読んでいるつもりはありません。本については、母に関わるものとして手に取りました。母の名誉を損なわないようにと、自戒として頁をめくったことはありますが、それだけです」
苦しいか?――いや、母を引き合いに出せばいけるはず。父は母を愛していたから。
父の反応はというと、言い訳に納得はせずとも、本気で学んでいるとも思ってはいないようだ。
表情には、魔法に関わるものを私が手にしたことへの不快感がある。
下された命は一つ。書庫へ出入りを禁止する。それだけだった。
「お前の母の名誉なら、お前が産まれたことですでに汚されている。書庫の書物はお前が触れてもいいようなものではない。これからは、別のものを用いて、これ以上家の名誉を損なうことないよう、努めろ」
「わかりました」
深々と頭を下げる。
苦言がこれだけなのは助かった。おそらく、令嬢としての評価が高いことが理由だろう。
礼儀作法や一般教養、どれをとっても、私は完璧であるよう努めた。
これで魔力さえあれば、使用人達にでさえそう囁かれるほどには、完璧であると思う。
書庫への出入りが禁止されたのは確かに痛いが、大きな問題ではない。
繰り返し読み理解しようとめくった頁は、全て記憶していた。十歳になるまで一年を切った今、別の本から学ぼうとも思わない。
焦るとするなら、書庫への出入りより、私に残された時間の方だ。
父と話す時間すら惜しいと思ってしまう。記憶の私は父と会うのをあれほど望み焦がれていたのに、変わるものだなと思う。
「ところで、屋敷外の者と接触したことはあるか」
反射的に思い浮かべてしまった白い彼、――動揺を抑える。
顔に出すな。動きに出すな。声にも出すな。間を置くな。
「いいえ」
私は答える。表情を変えることなく、ただただ、訊かれた事に答える。
「私は誰一人、知らぬ顔を見た覚えはありません。使用人達から紹介されたこともありません」
「庭へよく行くそうだな。柵の向こうから、何かしらの接触を受けたことはあるか」
「いいえ。柵に近付いたことはありません。屋敷を囲み守るための柵には魔法が施されており、触れるのは危険であると、そう聞かされています」
「あれはお前を保護するためのものだ」
「理解しています」
嘘ではない。だから、堂々としていられた。
屋敷外の者と言った、屋敷外の妖霊とは言わなかった。
柵の向こうからではなかった。彼は柵の内側にいた。私の側にいてくれた。
「これより二日。お前は部屋から出てはならない。食事も届けさせる。授業も休みだ、外部からの接触全てを二日間、遮断する」
なぜ、とは聞かない。私は父の言うことに従うだけだ。「はい」と頷く。
「……お前のためだ。屋敷に、お前を狙っているかもしれない何者かの痕跡が残っていた。お前を守るために、私が直々に屋敷を見て回る」
ほら、従順にしていれば、聞いてもないことを答えてくれる。従いやすいように情報を発信してくれる。
私は「ありがとうございます」と頭を下げた。
そして、父の言う通りに自室へ直行する。
歩調を早めてはいけない。息遣いも、表情も、平時を貫くのよ、リトナ・シャルエン。
自室の扉を開け、閉じ、その場で座り込みたいのをなんとかこらえた。
部屋の外で、もし聞き耳をたてられていたら?
動揺したように座り込む私の音がもれてしまっていたら?
この自室も、監視の目があるのだろうか、私には魔法がわからない。どうすればいいかわからない。
体が震える。今すぐ庭に飛び出して、もう来ないでと叫べば間に合うだろうか?
父はこの国でも屈指の魔法使い。その父が見回ると言った。もし鉢合わせてしまったのなら。
ここは二階だ、窓から出れば、少しの間見付からず行動できるだろうか。
まとまらない考えのまま、私は窓へと視線を向ける。
窓に白い塊がへばりついていた。
一目でときめくような、滑らかな白がぺったり。
「っっっっっ!!!!!」
悲鳴が出そうになる。早足を止めることなんて出来ない!なにを、何をしているのそこで!!
記憶の人生を含めても、こんなに早く静かに激しく窓を開閉したのは初めてだった。
右手には鷲掴みの白い塊、何も言わないがこのもちもちは間違いない。
自室に監視の目がないと信じるしかない。だってもうここにいるのだから。
冷静なのか混乱しているか自分でもわからない。とりあえず、と私は白い塊をベッドの下に押し込んだ。
私はベッドにもたれかかるように座り込んでしまう。
しばらく、お互い無言だった。
私は耳をそばたて、部屋の外を警戒していた。
長い沈黙を破ったのは、扉が叩かれる音――ではなかった。
《ここがお嬢様の部屋か。広いな》
「……公爵家の娘だもの、当然の広さよ」
《花の匂いがする。香の類いか?良い趣味だ》
「ありがとう、母の趣味よ。私も好き。母が好きだったものだから、私にも許されてるの」
《そうか、俺も好きだな、この香りは》
「……それは、すごく、すごく、嬉しいと思ってしまったのだけれど、うう、もう、こんな状況でこんな気持ちにさせないでちょうだい!ゆきまんじゅう!」
我慢できず、小声で叫ぶ。
ベッドの下の彼はケラケラと笑っていた。
心配したのだ、すごく、すごく、涙が出そうになってしまうほど。
「ゆきまんじゅう、ゆきまんじゅう……!私、私、ごめんなさい、あなたにもう来ないでってずっと言えなくて、ここは危険なの、」
《まったく、何をそう怖がっているんだ》
「ゆきまんじゅう、あのね……頃合いを見て、ここから、屋敷から逃げてほしいの。父が屋敷に何者がいると言って、確認のために見て回ると言っているの。きっと、あなたが来てくれているのが、ばれてしまったんだわ……」
《今の俺に存在の痕跡が残るはずはないんだがなぁ》
「でも現に父は!」
《内じゃない、外だ。柵の向こう。痕跡はそこだ。俺じゃない》
「え……?」
どういうことだろう。
問う前に、ゆきまんじゅうは答えてくれた。
《君の家は恨まれてるのかもな。悪そうなやつらが、屋敷を調べに来ていた。痕跡を消すのも下手だったからな、それがバレたんだろう》
「じゃあ、じゃあ……」
《そうか、君は俺が殺されるのかもと思って》
「…………、」
俯いてしまう。
わかっていたことだった。父は、私が父の預かり知らない誰かと会話するのを許さない。
声の震えを止められない、ベッド下の暗闇に、私は言った。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私は、悪い女なの……あなたが父や屋敷の者に見付かれば、殺されてしまうと、知っていたの……それなのに、私は、二年もあなたを騙してた……ここは危ないと知らせなかった」
《あのさ、お嬢様。君が箱入りの世間知らずなのは知った上で言わなかった俺も悪いけど。俺はここがシャルエン公爵家の別邸だと知った上で侵入してる》
「わたしっ……あなたとお話できて、嬉しくて、もう来ないでって言えなくてっ……」
《嗚咽してる~、いや、だからさ、この国のシャルエンといえば魔法至上主義。王家と同じく選民思想強め。そんなプライドもばか高い魔法使いが家主とわかってるのに、野良の妖霊の侵入がまずくないなんて思わないよ》
「じゃあ、危ないとわかってて、私と話に来てくれてたの……?」
《俺の暇潰し相手になってもらうことが契約だったろ?それに、君に監視がついている日は表に出なかったし》
「こんなに白くて綺麗で目立つのに……」
《かくれんぼは得意でね。冬の雪原だと最強だ》
ベッド下からもぞもぞと白い影。這い出てきたゆきまんじゅうは、ふるふると震えた。
《君の部屋に監視はない。部屋の外にも人はいない。泣かないでくれよお嬢様、突然部屋に来て悪かったって》
「泣いてなんかないわ」
《涙が引っ込むのが早すぎる……君の表情筋、いったいどうなってるんだよ……ま、心配かけたことだし、ごめんねってことで触っていいぞ、ヒッ早い行動が早い!?》
「うううう……!」
許可を得たので、ゆきまんじゅうをすくいあげ、覆い被さるように抱き締めた。もちもち。怖かった。もちもち。いなくなってしまうと思った。もちもち。
《嫌ではないのは大前提として遠慮もなくなってきたな……》
「うう……」
《なんで九歳のお子様のくせに、涙を見せるのを嫌がるのかね……》
「泣いてなんか、ないわ……」
《君の腕の中で俺は何も見えないことだし、落ち着くまで好きにしてくれ》
その言葉に甘え、私はゆきまんじゅうを抱きしめたまま丸まっていた。
肩が揺れるのも声がもれるのもおさえられないが、私は断じて泣いてはいなかった。
そして、しばらく。
落ち着いた私は、ゆきまんじゅうをベッドに乗せ、その隣に腰を下ろす。
「報告があるの。私、二日間部屋から出ることを禁じられたわ。庭には行けない」
《君が許すなら、俺はベッドの下にでも隠れてるけど》
「ん"ん"っ」
《君のその、笑顔をしかめっ面で誤魔化そうとするの、すごく面白いと思う》
「………………私、私は……はしたないと思っただけで、そうじゃなくて……その、部屋にいてくれるのは、すごく、すごく……嬉しい」
《じゃあ、白状しておくか。部屋の滞在を許された以上、君にも知る権利がある》
「……何を?」
《俺が君を見つけたのは偶然だが、シャルエン家屋敷の近くをうろついていたのは、俺の意思によるもの》
ああ、そうかと思った。
彼にも目的があったのだ。そうでないと、わざわざ私の元へ現れるはずがない。
《この国で消息を絶った妖霊の情報を集めていたんだ。君と出会う少し前に、突然連絡がつかなくなってさ。死んではないだろうから、》
「私、私、あなたにならいくらでも利用されていい。私に出来ることは少ないけれど、立場も弱いけど、家の名も使うことは出来ないし、でも、何か出来ることを、」
《待った待った。君との出会いのきっかけがそうであって、今はもう“ついで”になってるんだよ。目的がすりかわってしまったんだ。今は君と話すことが本命で、》
ゆきまんじゅうは、何故だかばつの悪そうにふるふると萎んでいくような気がした。
少しだけ小さくなったかに思える姿で、ぼそぼそと続ける。
《……これ言うと幻滅されそうだなって思ってさ。一応探す気はあるから、君からシャルエン家の情報をもらうこともあるだろうし、フェアにいこうと、思って……話しとこうかなと…》
「お友達や、大切な方では、ないの……?」
《友達、というには微妙だな。相手も否定しそうだ。遠距離での会話中に何かあったようでさ、返答出来ないままなのが気持ち悪くて、探してたんだ》
「心配じゃないの……?」
《過去穏やかに語らうような関係であっても、次に会う時、契約者の立場で敵にもなるのが妖霊だ。深入りしないのが当たり前というか、……だから、心配ではなく、自分がすっきりするため、が理由かな。……幻滅したか?人にはちょっと合わない感覚だろ、これは》
「いいえ、……ただ、不思議だな、とは思ったけれど。妖霊が側にいることも、言葉を交わすのもほとんどなかったから、新鮮で」
《なぁ、お嬢様。人が部屋に近付いたら、俺が知らせる。だから、今日は君の家の話を聞いていいか。……君の家の者に対する苦言は出来るだけ控えるから》
やけに真面目に、ゆきまんじゅうは言う。
ふふ、と笑ってしまった。
苦言、彼は苦言といった。二十までの記憶でさえ、一度たりとも、シャルエン家を悪く言う者はいなかったというのに。
《気を悪くするだろうが、俺は君の父の人間性は好きじゃない。兄もいるんだっけか、多分好きじゃないぞ》
「ふ、ふふ……私も、実は、誰にも言えなかったけれど、私も、私もなの!」
友愛と親愛。私は得られなかったが、見たことはある、存在を知っている。
魔法を使える者と、魔法を使うことの出来ない者、両者の間に、親愛は確かに成立していた。家族であっても、成立していたのだ。
だから、だから、私も、愛されることはないと受け入れたからこそ、口に出来る。
「私も、父が嫌い、兄が嫌い、シャルエン家が嫌いなの!」
私だって、家族だからと、家族を愛さなくても良いのだ。