父の社の件について
君は「 」が恐い
父が亡くなったその日、示し合わせたかの様に父の実家から手紙が届いた。内容は概ね、実家に来いというもの。他、父が一族本家の長男だったことや、僕がその跡継ぎとなることなどが連なって書いてあったが、会ったこともない人物からの手紙に、僕は不信感しか持てなかった。だが、父が実家を悪く言っているのは聞いた事が無いし、父が生前に時々「お前も近いうちに連れていかなきゃなぁ」などと言っていたこともあって、僕は父への孝行だと思って行くことにした。
手紙の住所に従って向かった父の実家は、自宅から2つ県を跨ぎ、さらにその先の辺境の山を越えた集落だった。着いたのは夕方。既に空に陽は望めず、赤く染められた雲から夕陽を思うのみだった。
山々に囲まれた広大な盆地に、碁盤の目のような畑と田んぼ、そこに数えられる程度の家屋がぽつぽつと建っている。現代人が住むには少々厳しい限界集落だ。ただ、集落の入り口から見て、盆地の一番奥。小高い丘の上に、他の建物とは一線を画した大きな社が座しており、四方を囲むように立つ鳥居とともに、そこだけが異様な雰囲気を醸していた。
ふと、身震いする。誰かに見られている気がしたのだ。咄嗟に視線を社から外し、僕は日が暮れる前に実家へと急いだ。
手紙には社に一番近い家だと記載があった為、迷うことはなかった。こんな集落に人がいるのかと疑っていたが、途中、田畑で働く老人夫婦や数人の男女に声をかけられた。みな僕の事を知ってるような口ぶりで、一様に歓迎する意を示した。妙な気分になりつつも実家につくと、僕が近くまで来たことを見ていたのか、声を上げる前に玄関の戸が開いた。中から出てきたのは、神職の格好をした初老の男性。
「よく来た。上がりなさい」
自分の事を叔父だと紹介した男は、家を案内しながら、ここが父の実家であり、同時にあの社を管理する神職の一家であることを僕に説明した。
「お父さんのことは、気の毒だったね。それに昨日の今日で、会ったことのない者から来たことのないところに招かれ、さぞ疲れただろう。申し訳ない」
叔父の、白髪の混じった眉が下がるのを見、僕は軽く頭を下げる。
「ただ、君の父親から、ここに訪れなければならない日が来ることは、それとなく報されていたと思う」
続けられた叔父の言葉に、父の過去の発言を思い出して頷く僕。叔父はまた、「お父さんと来るはずだったのに、やはり残念だ」と眉を下げた。
叔父は家の一番奥の部屋へ僕を通し、こちらを振り向いた。
「今夜はここに泊まると良い。元は君の父親の部屋だ」
6畳程の部屋には布団が既に敷かれ、傍らには叔父の着たものと似たような服。窓際には石でできた桶の様なものがあり、水が張られていた。
「明日の朝、そこにある衣装に着替えて欲しい。明朝、御堂で『継ぎ』をする。君には次の家長として参加してもらいたい」
「『継ぎ』?」
「代々うちでは先代の家長が没すると、家長、つまり神主の位を次に継ぐ儀を催す決まりになっている」
訝し気な僕の視線を見て取ってか、「なに、」と苦笑しながら叔父は続けた。
「神主といっても形式的なものだ。この土地はご先祖が開墾した土地でな。山一つ豪快に切り開いたものだから、土地神の祟りを恐れた先祖は、道祖神として祀ることにしたわけだ。今では一族繁栄を願う祈りの儀として残っているのみ。心配せずとも、衣装を着て祝詞を読み上げ、早ければ明日の午前中には帰れるだろうさ」
最後に風呂と手洗い、台所の場所を口頭で説明し、叔父は去っていった。少しして玄関の戸が開く音がしたことから、恐らくはあの社へ明日の準備にでも行ったのだろう。
僕には、どうにもあの叔父と名乗る男が信用ならなかった。人柄は良いように思う。が、言葉を選んで説明をする男の口ぶりが、何かを隠し、誤魔化している気がしてならなかった。とは言え、今さら帰る訳にもいかない。僕がここに来る事は、亡き父親が出来なかったことであり、恐らくはその「継ぎ」とやらが目的だったのだろうから。その日は余計なことを考えないよう、なるべく早く寝た。
早朝、ハッカの様な香りに鼻腔を擽られ、僕は驚くほど自然に目が覚めた。気分の良さよりも、驚きと不可思議な気持ちが交互に回る。漂う涼しい香りを辿ると、窓際の桶に汲まれた清水に何かの葉が沈んでおり、どうやらその水から発せられているようだった。お香の類だろうか、と覗き込んでいると、不意に部屋の引き戸が開いた。
「起きたか」
「あ、おはようございます」
「よく眠れたかい」
「はい」
昨日と同じ格好をした叔父は満足そうに頷いた。
「居間に朝餉を置いてあるから、着替えたらそれを食べて、整ったら御堂に来てくれるか。ゆっくりで構わないから」
そう言い、叔父は踵を返しまた家の外へ出て行った。僕は言われた通り着替え、簡易な朝食を取った。時刻を見ると早朝の5時。夜行性気味の普段の僕からして、考えられない早起きだ。
「……早く帰ろ」
何の脈絡もないが、僕はなんとなくそう独り言ち、息を吐くと外に出た。
一歩踏み出した途端、湿った空気の感触と同時、視界が一気に白く濁った。濃霧だ。恐らくは集落、もとい盆地全体を覆うであろう、雲海も斯くやという霧。比喩でなく本当に一寸先も見えず、僕は若干の不気味さを感じ身震いした。この湿気と気温のせいもあるだろう。季節的に暖かい方とは言え、早朝にこの薄い白袴のような恰好だけではやはり肌寒い。
遥か右手に、篝火の揺らめきが辛うじて確認できた。方角から見るに、社に続いているようだ。冷気がじわじわと肌に滲み込んでくる気がし、僕は腕を摩りながらその灯りの元へと急いだ。
灯りはやはり社の丘の麓にある篝火で、奥へと連なる灯篭と共に、社へ続く階段を照らしていた。流れ落ちる靄に架かった石階段を幾らか上ると、鳥居が見え、社の正面へと出た。
「来たか」
階段を登り切った先、鳥居の下に叔父が笑みを浮かべて待っていた。
「飯は食ったか」
「はい。ごちそうさまです」
「よし、さぁこっちへ」
叔父は俺の全身を眺め頷くと、先導して鳥居をくぐり歩き始めた。
鎮座する社には、昨日に離れて見た姿とは全く異質な存在感が漂っていた。ともすれば、この社が霧を吐きこの地を覆い、そして僕を呑まんとしているのではと空目する程に。
しばらく社を見上げていた為気付かなかったが、視線を落とすと、社の眼前で縦に2つの列を成して地に並ぶ白いものが見えてきた。段々と距離が詰まりそれが鮮明になるや、僕はいよいよ絶句した。
村人だ。先日の昼間に見た集落の住人たちが、白装束に包まれ、社を前に跪いていた。皆一様に手を合わせ、一心不乱に何事かを呟いている。
「あ、あの、この人たちは?」
不気味な程静かに歩みを進める叔父の背中に、聞かざるべきかとも思いつつ、恐る恐る声をかけた。
「……あぁ、これも『継ぎ』だよ」
気持ちの悪い間を置き、叔父がゆっくり答える。しかしそれは返事の体を成しているのみ。不安の一切は僕のはらわたを食い込んで離れず、僕の恐怖心を舐った。
村人たちの間を通り社へ着いたところで、叔父が足を止めた。こちらを振り返る叔父に、冷ややかなものが首筋を通るが、それはなんら変わりはない温和な笑みを浮かべる叔父だった。
「すまないが、ここからは君一人だ。御堂には家長のみが入るしきたりになっている」
叔父はそういうと、戸惑う僕にメモを手渡してきた。
「そこに『継ぎ』の祝詞が記されている。詩みたいなもんだ。御堂に入ったらそのまま床に座って、これを読み上げてほしい。君がするのはそれだけだ」
「入って座って、祝詞を読む……」
「そう」
叔父は僕の肩を2度程叩くと、「あぁそうだ」と何かを思い出し、やけに遅々とした調子で言葉にした。
「祝詞は、間違えちゃいけない。止まってもいけない。何があっても」
僕は眉をひそめた。言い含みが過ぎる叔父の口調に、きっと僕でなくても言い知れぬ何かを感じたと思う。
「何かがあるんですか?」
「……怖がらせたかっただけだよ。たった3行だ。何も問題ない」
叔父のその最後の一言には、血が通っていない気がした。
にわかに信じがたいだろうが僕は、この足元も覚束ない濃霧の中、今来た道を独りで戻る恐怖に比べれば、一刻も早く儀式を済ませ穏便に帰る方が得策だと当時考えていた。
思えば、既に儀式は始まっていたのだろう。
(たった3行……たった3行……1分もいらない……)
呪いのように胸裏を廻るそれが、正しくは呪いであることに、僕は気づかなかった。
メモを握りしめ、御堂に続く木製の小さな階段を上る。そして僕の背丈を少し上回る引き戸に手をかけ、そのまま慎重に開けた。戸の奥には暗闇が広がっており、奥行など幾分も測れない。何かの口腔に自ら入るような気分だったが、意を決し、僕は敷居を跨いだ。
戸を後ろ手に閉めてしまうと、御堂はより一層その闇を深め、床の軋む音がやけに耳にこびりついた。微かに聞こえるあの村人達の呟きが、皮肉にも僕の心細さを和らげる一助となっている。
少し進むと、1本の蝋燭と、それに照らされた2枚の皿と徳利、そして真新しい厚手の毛布を見つけた。
(ここに座れってことか……?)
僕は疑問を抱きながらも蝋燭台の手前で膝を折り、正座の形を取った。
目の前に並ぶ珍妙な組み合わせを改めて見た所、皿の一方には今朝部屋の桶に浮かんでいた葉。もう一方には、僕が食べた朝食と同じものが乗っていることに気付いた。どれも叔父の家にあったものだ。もしやと思い徳利へ鼻を寄せてみると、微かにあの涼し気な香りが。儀式として、自分の取り込んだものを供えているのだろうか。
慎重にメモを開く。疑問、いや、もはや疑惑と言ってもいい。叔父と集落に対する圧倒的な不信感。それが僕の心臓を乱暴に叩いている。これは警告か。早く逃げろと言いたいのか。しかし、肉体は正直だというのに、司る頭は今も尚許しを乞うことに思考を捧げている。
……一体僕は、何に許しを乞おうと言うのか。
「"―――――"」
1行目を読んだ。日本語の様な、そうでないような。強いて言うなれば古語に近い言葉の羅列を、意味の分からないまま口に出す。思いの外流暢に紡がれる口舌に、僕自身驚いた。
と、その時。僕が早々に2行目に踏み入ろうとした、その時。
今まで嗅いだことのない凄まじい獣臭が、僕の鼻腔をむんずと掴んだ。周囲の空気が一気に重く、黒洞々と、粘り気を帯びる。何より、その纏わりつくような視線が、僕を戦々恐々に引きずり込んだ。村に訪れた際、初めに感じた視線に相違ない。
(何か、いる)
口にしかけた祝詞を食んでしまう。が、直前の叔父の言葉が思い出され、僕は無理やり、絞り出すように声を出した。
「"―――――――"っ……」
1行目より少し長い言葉を、震える声をそのままに一息で言い切った。呂律が回っている自信はない。ただ何が何でも、読み上げなければならなかった。
僕の目の前で陶器を打ち合わせたような、硬質な音が鳴った。見ると、皿に盛られていた食事やら葉が、忽然と消えている。空になった皿だけが乱雑に抛られ、徳利は諸共どこかへ行ってしまっていた。
一段と獣臭が濃くなった気がする。その臭いを発する何かが、僕の周囲を、頭上を徘徊し、こちらを凝視している事が吐き気がするほど分かるのだ。少なくとも人間ではない、何かが。
恐怖は限界に達しようとしていた。強張った筋肉が喉を締め上げ、横隔膜が痙攣し、息は声にならず隙間風の様な音を出して過呼吸を繰り返す。せり上がる胃液を、痛いほど食いしばった歯で止めた。
「”――……」
一瞬、息を吸う。
「……―――”!」
蝋燭の火が、ふっと消えた。その後の沈黙は、時が止まったのかとさえ考えるほど長く感じた。
(……?)
外が白んで、明け方であることが左手の奥にある御堂の窓から知れた。いつの間に、と思いつつ頬の涙やら鼻水をぬぐう。不思議と自然に涙が止まっていた。嗚咽も、痙攣も、緊張もなく、糸を切ったように今は脱力感に満たされている。
だが一方で、違和感もあった。静かすぎるのだ。僅かに聞こえていた村人の呟く声がぴたりと止み、電話の切れたような沈黙だけが、滔滔と流れていた。嫌な予感がした僕は、引き戸へ様子を伺おうと身をよじった。転瞬。
水音。
鈍い音と共に、衝撃が床を伝ってきた。
咄嗟に向き直る。灯りは潰えたが、辛うじて差し込んだ細い朝日がそれを照らす。
蝋燭台を挟んだ向う。赤黒い溜まりと、そこに沈む、液にまみれた肌色の塊。
それはむせ返るような錆臭さと獣臭の入り混じる中、身じろぎを数度繰り返し、そして、死んだように動きを止めた。
僕は目を見開き、震える手で脇にあった厚手の毛布を手に取った。蝋燭台をのかし、それを溜まりから取り上げ、毛布にくるむ。
(な……んで……)
毛布を胸に抱いてへたり込み、僕は呆然と、微動だにしないそれを見た。酸素が回らず、力が入らない。
と、未だ血塗れのそれが、僕の腕の中で不意に動いた。
「……!」
悲鳴の代わりに出た息が、喉の奥でつっかえる。
息を吹き返したそれの目が、僕を見つめていた。その、瞳孔も白眼もない、漆塗りの眼球が。
やおらにその口が開いた。
「モう、終シまい」
凡そ人とは思えない声。数人の声を掻き混ぜたような、奇声。役目を終えたようにそれは、その無明な眼差しを閉じた。
気を失えるならそうしたい。だが、それの確かな息遣いと、脳裏に刻まれたその声が、僕の意識をその場に縛り付けていた。天井から滴り落ちる何かの水音だけが、御堂を飽和している。
それから逃げるように。半ば縋るように。僕は息をするのも忘れ、徐に頭上を見やった。
そこからの記憶はない。
ただ、見てはいけないものを見た。
そんな漠然とした覚えがある。
あの後、気が付けば僕はバスに乗り帰路についていた。ぼやけた頭で、どうやって帰ってきたのか思い出そうとしたが、どうしても思い出せなかった。
数日後、僕が訪れた山が全焼したというニュースを見た。大規模な山火事とのことで、集落は跡形もなく焼き払われたらしい。ひと際大きな家の焼け跡から男性と思しき焼死体が発見されたが、それ以外に遺体は発見されなかった。死体が一体誰なのか、僕に確かめる余地はなかった。
あの辺りに「件崇拝」という旧套が密教として存在していた事を知ったのは、そのかなり後のことだ。
産まれ落ちてすぐ、これより来る禍を予言し死ぬという、 人の面をした獣の子「件」。その信仰は、古くは平安の時まで遡れると、嘘か誠かその文献には記されてあった。
もし、その件を生き永らえさせ、且つ次の件を産み、予言を継がせることが可能だとすれば……。
神を奉るというよりは、何かを閉じ込めているように見えた、あの四方の大鳥居と御堂を思い出しながら、僕はそんなことを考えた。
僕はあれを夢だと思った事はない。いや、思えた事はない。嫌でもそう断じることはできなかった。
「パパ、みてー!」
3歳になった娘が、小さな歩幅で跳ねながら僕の足元へ駆けてきた。その手には、四葉のクローバー。
「おー、ありがとう。自分で見つけたのか?」
「うん!」
僕は屈んでクローバーを受け取ると、娘の頭を撫でてやった。娘は満面の笑みを浮かべると、また公園の緑地へ駆け出していく。
娘は平凡で可愛らしく、僕にはもったいないほど素直な女の子に育っていた。その後ろ姿を見ながら、思わず感慨深い笑みが浮かぶ。
「パパー」
「うん?」
娘がふと立ち止まり、肩越しに僕を呼んだ。
そして、ゆっくりと、首だけが振り返る。
「アと、にひゃクゴじュうにチ」
「……っ」
娘の目ではない、黒々とした、感情を湛えないそれが僕を射抜いた。臓物が跳ね上がり、汗が噴き出す。
「もドってこイ」
息も絶え絶えに、僕は口をただ開閉するばかり。足の力が抜け、膝をついた。
「だいじょうぶ? パパ?」
と、視界が、心配そうに僕をのぞき込んでくる娘の顔で埋まる。悲鳴を上げかけ、口をつぐんだ。気付けば、娘の目は元通りに。口調や仕草も僕の見知ったものだった。
「あ、あぁ大丈夫だよ。ごめんね、パパちょっと疲れたみたいだ」
娘は首をかしげると、僕の頭を撫でた。健気にも僕の真似をしているのだ。
「帰りにアイスかってい? あたる気がするの」
「あ、はは……いいよ、買おう。何がいい?」
「チョコ!」
僕は体を起こし、娘と手を繋いだ。
きっとアイスは当たる。こういう時の娘の勘は、一種の予言じみた的中率をしているから。
引き攣った笑みが浮かぶ。
大丈夫。大丈夫。まだ、大丈夫。
あぁ、
きっと父もこんな気持ちだったんだろう。
君の「 」が恐い