タケシくんとナナミさん、時々アルフレッド
「あの、ね、タケシくん、しばらくね、距離を……置きたいの」
結婚間近だろうと思っていた恋人からそう告げられた言葉は、まさしく男にとって青天の霹靂であった。
「え……?」
あまりの事態に理解が追い付かず、タケシはぽかんとした表情を浮かべ恋人であるナナミを見た。
結婚間近であった。
近いうちに一緒に指輪を見に行こうという話も出ていた。お互いの家の両親にも挨拶をしている。
だからこそ、ナナミの言葉を理解できなかった。
「なんで。俺どっか悪いとこあった? 言って!? 直すから余すところなく言って!?」
「や、あの、タケシくんが悪いわけじゃないんだけど……」
言葉の意味を理解した途端、タケシはほとんど反射的にナナミに縋りついていた。ここで下手にカッコつけたところで振られてしまえば意味がない。どれだけ不様な醜態を晒そうが、ナナミの気持ちを取り戻すためなら構わない。そんな所存である。
何が悪かったんだろう。
結婚するにあたって、妻が夫に抱く不満の数々をネットなどで調べたし職場の仲間たちからも聞いたし、やられてイヤな事はしないように努めてきた。そりゃあ人間なので過ちを犯す事はあるけれど、それでもナナミが嫌がる事は極力しないようにしたし、やらかしたとしても同じ失敗を繰り返さないようにだってした。
生理的に無理、とか言われたらもう立ち直れない。けれども、そこまで嫌われるような事はしていないはずだ。タケシから目を逸らすナナミは、嫌悪から目を合わせないようにしているのではなく、どちらかといえば何となく気まずい雰囲気の方が強い。
「その、タケシくんの職場に、アルフレッドさん、いるでしょ。えぇと、その……」
とても歯切れの悪い言葉。
よくある展開なら、ここでナナミがそのアルフレッドが気になって……だとかの心変わり系を疑うところなのだが、ナナミがアルフレッドの名を口にした時も別に頬を染めるでもなく気まずそうな顔のままなので、それはなさそうだなと瞬時にタケシは判断した。
ちなみにアルフレッドは海外支店からこっちに研修でやってきた男である。独身。タケシと同年代。
高身長イケメンという事もあり、社内の女子からキャーキャー言われているのである。
タケシにとってはいけすかねぇ野郎でしかないが。
何せアルフレッド、タケシをライバルか何かのような扱いをしているのか、事あるごとに絡んで来る。実際仕事ができるので、あいつと話をしていると思いもよらぬ部分に気付いたりしてミスが未然に防がれたなんて事もあったりしたけど、それはそれこれはこれである。
休日にナナミとデートしている時に二、三度アルフレッドと遭遇した事もあったけれど、その時は挨拶だけしてさらっとすぐに立ち去ったし、アルフレッドがナナミにちょっかいをかけたりはしていなかった。
タケシにはウザいくらい絡んでくるが、だからといってその恋人まで同じ扱いをするようなことはしない。そういった分別のついた行動ができる男であるので、アルフレッドの事をウザいなぁと思いながらもタケシは何だかんだライバルとして認めていた。
「言ってくれナナミ。あいつが一体……?」
だが、それは表面上で実は自分の与り知らぬところでナナミに何か失礼な事をしたか言ったのではないか? そう思えば確認するしかない。
突然距離を置きたいなんて言われてるし、ここで下手に何かを見ない振りをしたところで何の解決にもならないのだ。
「あの、本当にね? 大した事じゃないんだけど……アルフレッドさんがタケシくんの事呼ぶ時のね? 言い方がその……」
「言い方」
言われて思い返してみる。
日本では相手の名前を呼ぶ時に苗字で呼ぶけれど、海外はファーストネーム呼びが主流だ。勿論かしこまった場ではファミリーネームで呼ぶ事もあるけれど、アルフレッドは社内では基本的に同僚の事を名前で呼んでいる。それはタケシも例外ではなかった。
馴れ馴れしすぎるわけでもなく、どちらかといえばフレンドリーな雰囲気すらあるのでそれを嫌がる者はいなかったと思う。少なくともタケシの知る限りでは。
というかアルフレッドもそういうキャラとして認識されていると思う。会議だとかの重要な場面ではちゃんと苗字で呼んだりしてるし。
何か、問題あったかな……? とタケシは思わず首を傾げた。
自分の事もタケシと呼び捨てだが、こっちもこっちで呼び捨てしてるし何なら忙しい時はアルと省略して呼んだりもしている。そこら辺で特に揉めた事もない。
「いえあの、アルフレッドさんが悪いわけじゃないんだけどね……その、どうしても、思い出しちゃって……」
言葉を選びながら言うナナミの、相も変わらず歯切れの悪いそれをタケシは辛抱強く聞いた。
そしてその結果。
「おいアルフレッドおおおおおお!」
タケシは休日明け早々に、アルフレッドの元へ詰め寄ったのである。
「なんだどうしたタケシィ。朝っぱらから元気だな」
「誰のせいだと! てかお前その呼び方やめようやめて。まじで」
「アーハン?」
「露骨に肩を竦めるなあとその雑発音も」
流暢に母国語を操る事ができるのは当然だが、アルフレッドはあえてわざとらしいイントネーションでもって聞き返した。普段であればいや雑、と笑いながら流せるものだが、今回はちょっと流せそうになかった。
「恋人に距離を置こうと言われた」
「ほう? いよいよ愛想をつかされて捨てられるという事か」
「お前のせいでな」
「おお何という事だ俺が魅力的なばっかりに……ん?」
「ノリだけでボケる技術を仕入れるな」
「いや待て。何故俺のせいになる?」
アルフレッドは解せぬ、とばかりに整ったその顔に困惑の色を乗せた。片眉を跳ね上げるその仕草が随分とサマになっている。
確かにアルフレッドの容姿は整っていると言ってもいい。
十人中十人どころか他からも何人かやってきて彼の事をイケメンだと断言するくらいには、イケメンなのである。
休日に街を歩けば女から声をかけられることはザラで、後先を考えなければ遊ぶ相手に苦労もしない。まぁ、後が面倒なので上手い事躱しているのだが。
タケシの恋人である女の顔は見た事がある。あるけれど、デートなんだなと理解していたしそれを邪魔する程野暮でもない。二言三言タケシと会話をしてすぐにその場を離れている。
恋人に声をかける事はしていなかった。一応、挨拶くらいはした、その程度だ。
だが世の中には別段特に仲が良くない相手であっても、何でか自分の中でその思いを熟成発酵させて当人置いてけぼりにする者がいるとアルフレッドは知っている。地元でストーカー被害に遭った事があるので、ちょっと挨拶しただけでももしかしたら勝手に恋を芽生えさせ……なんて事が絶対ないとも言い切れない事をアルフレッドはよくわかっていた。
とはいえ、流石に知り合いと遭遇して挨拶もしないのは人としてどうかと思ったので最低限の筋を通した事に関してとやかく言われるつもりもないが。
まさか本当にそんな事になっていたとしたら、それはさぞ面倒な事になりそうだな……と思ったアルフレッドは改めてタケシに向き直った。
「いいか、何をいくら言われようとも俺が魅力的な人間である事実に変わりはないし、どうしようもできない」
「そういうこっちゃねーんだわ。お前の顔面の圧が強いとかそういうの今話してねーから」
「ハ?」
貴様の顔とかどうでもいい、とにべもなく切り捨てられてアルフレッドは思わず眉を寄せた。お前、この顔面をどうでもいいとかよく言えたな……?
総務で密かに顔面国宝と言われるこのツラだぞ……? と言いたい気持ちに駆られたが、まぁ余計な事を言って話を長引かせるのは得策ではない。
ちなみに書類を纏めたりしつつの会話なので、別段周囲からお咎めはきていないが周囲でちらほら聞き耳を立ててるのは間違いなかった。あまりにもタケシがおかしなことを言い出したらそれとなく周囲が諫めるだろう。そう判断して、アルフレッドはじゃあさっさと結論言ってくんねぇかなと思い始める。
「お前が俺を呼ぶ時のイントネーションがどうしても奴を思い出すからって……」
「ヤツ?」
自分がタケシを呼ぶ時? は? 何を言っているんだ……?
それならいっそ自分の魅力が溢れすぎて、とかの方がまだわかりやすいなと思いながらも、アルフレッドはじとっとした目をタケシに向けた。
「タケシィ、お前あんま言いがかりみたいな事言い出されても俺だってなんでもかんでも万能に対処できるわけじゃないんだぞ」
「そのタケシィ、っていう発音! それが原因なんだわ」
「ハ?」
何言ってるんだ? という反応をしてしまったのはアルフレッドにとっては至極当たり前の事であった。
彼にとっては普通の発音なのだ。
勿論日本と海外では使う言語が違う事もあって、イントネーションが異なるものもそれはもう多くあるけれど。けれどそこまでおかしな発音で呼んでいるわけでもない。もしあまりにもおかしな発音だったなら、それとなく他の者が教えてくれていただろう。
埒が明かないとでも思ったのか、タケシはスマホを取り出して一つの動画を見せてきた。
仕事中だろうとも効率が落ちなければ余程の事が無い限りお咎めはない、のでまだ周囲は聞き耳を立てつつ二人の動向を見守っている。
そうしてタケシのスマホを覗き込んだアルフレッドはというと……
「…………え?」
長い、長い沈黙の果てに何とかその一音を絞り出したのである。
タケシのスマホで見せられた動画は、とある映画のワンシーンであった。
少年少女たちを主役としたホラー作品。
そんな作品のワンシーン、ピエロの格好をした男が、
「はぁいジョージィ」
と言う場面であった。
多分、怖いシーンなのだろう。
だがしかしネットで散々そのシーンを切り取ってオモチャにされてきたせいで、むしろ笑いしか出てこないある意味で有名になりすぎてしまった場面でもある。
そんな本来は恐ろしいはずのピエロが口に出した人物の名前。
それと、アルフレッドがタケシの名を口にする時のイントネーションが、困ったことに全く一致していたのである。
その事実に気付いた周囲で聞き耳を立てていた社員たちは、一斉に吹き出すところであった。だがしかし流石に聞き耳立ててるのはわかっているだろうとしても、大っぴらに笑うわけにもいかない。馬鹿にするつもりがなくとも、流石に一斉にこのフロア全体が笑い出せばご本人が何も思わないはずもない。昨今それでなくともパワハラだとかモラハラだとかセクハラだとかで色々と厳しくなっているのだ。そんなつもりがなくともそう受け取られかねない言動は避けるべきだ、と周囲が必死に堪えた事でワンフロアが笑いの渦に沈む事はなかったが、そのかわりに一同が同時に笑いをこらえたせいで何か一斉に謎の動きをする羽目になってしまった。
タケシくんの彼女でもあるナナミさん曰く。
最初は気にならなかったんだけど、気になり出してからというものタケシくんの顔を見るたびに脳内でアルフレッドさんがタケシィって言うシーンがリフレインしちゃって。
そのせいで笑いそうになるし、どうにかしないとと思っても思ったらその分余計に脳内のアルフレッドさんの圧が強くなるし。
タケシくんが悪いわけじゃないんだけど、どうしてもそのシーンが浮かぶようになっちゃって……
あの、しばらく、距離を置けばおさまるとは思うの。思うから、ねっ? だからあの、ちょっとだけ距離を置きたいの。出会い頭に笑いそうになって崩れ落ちるのを堪えるのもう限界なの……!!
これが、彼女が彼氏に対して距離を置きたいと言い出した事の全容である。
悪いところがあるなら言って! 直すから!! と必死に懇願したタケシくんではあるが、流石にこれは直しようがない。だってタケシくん本人が何かをしでかしたわけではないのだから。
唯一の解決策としては、タケシくんが改名しジョージィ、というあのピエロ野郎を彷彿とさせるイントネーションで名前を呼ばれなくなるようなものに変える事、ではあるのだけれど。
改名理由が流石に酷い。
日常生活に支障をきたすものでもなく、大急ぎで改名しなければ社会生活に不便が生じる程に酷い名でもない。たとえば毎回読み間違えられるような難読名だとか、その名を知った相手が毎回プークスクスと笑うような悪い意味でのキラキラネームだとかであればまだしも、世間一般的におかしな名前でもないので仮に手続きをして改名しようとしたところで、すぐに認可されないだろう。というか普通に却下されると思われる。
タケシくんに非は一切なかったのが余計に哀れである。
ナナミさんも私の心が弱いばっかりに……! とまるで村でも焼かれた勇者のような悔恨の声を上げていた。いや、心の弱さは関係ないんじゃないかな……とタケシくんはそう慰めるので精いっぱいだった。
「お前の……せいだ……っ」
ナナミがタケシを見てもアルフレッドがタケシを呼ぶ時のシーンを思い浮かべなくなるまでか、はたまた思い浮かべても笑わなくなるまで。それが果たしていつになるかはわからない。わからない、がこんな事になったのは間違いなく隣にいる男のせいである、とタケシはなんとも言えない表情を浮かべてのたまった。
アルフレッドが完全に悪いわけではないのは勿論わかっている。彼とて普通に名を呼んでいるつもりなのだろう。ただ、母国語のイントネーションにつられて、それが結果として別の代物と完全一致してしまっただけで。
怒りと悲しみがミックスされた状態のタケシに言われて、アルフレッドもまた困ったように眉を下げた。
知らんがな。そういうだけならとても簡単である。自分は名前を普通に呼んだだけ。
とはいえ、別段結婚間近のカップルを破局させるだとか、そういう意図はこれっぽっちもないのである。ないけれど、しかし原因となってしまったのもまた事実。
アルフレッドは常に自信に満ち溢れた人間ではあるものの、尊大とまではいかないしそれなりに人としての良心も持ち合わせている。
普段憎まれ口を叩く事だってあるけれど、それは偏にタケシの実力を認めているからだ。そんなライバルにして遠い異国の地でできた良き友と言っても過言ではない男を、結果として不幸に陥れかけているという事実には流石にちょっとだけ心が痛んだ。
イントネーションを少し変えて呼ぶようにすれば解決するかもしれないが、いかんせん口の中でその名を転がしてみてもしっくりこない。
ふむ、と困ったように小さく呻き、とりあえずは、
「わかった、前向きに善処しよう」
アルフレッドは本人なりにとても誠意ある発言をしたのであった。
それ普通にやらねーぞっていう意味だぞ、とタケシが半眼で呻いたのは聞かなかった事にした。日本語って時々とんでもなく難しいな、と思いながら。
――さて、それからしばらく経って。
ようやくナナミの中で心の整理がついたのか、距離を置く期間はどうにか解除された。
本日はタケシとナナミの休みが重なった事もあって、久々のデートである。
顔を見たり声を聞いたりすると思いだしちゃうから……で、お互い連絡をとっていたのは文字だけのやりとりだったが、ようやっと直接の対面が叶った事でタケシのテンションはぶちあがっていた。
ナナミもちょっと申し訳なかったな……と思う部分はあったので、いつも以上にベタベタくっつかれてもされるがままになっていた。傍から見れば完全なるバカップルである。
さて、そんな中、同じく休暇を満喫しようとしていたアルフレッドが困った事にタケシとナナミにバッタリ遭遇してしまった。
思わず警戒態勢に入るタケシ。
もう笑わないようにしないとな……と、そっと頬の内側を噛んで耐えようとするナナミ。
しっかりバッチリ目が合ってしまったので、流石に無視をして立ち去るわけにもいかないな……と思ってしまったアルフレッド。
そこでとりあえず声も出さずぺこ、と頭だけ軽く下げて立ち去れば良かったのに、アルフレッドは某ピエロを彷彿とさせるタケシィ呼びはもうしないのだというのを知ってもらうべく、すっと息を吸い込んだ。別の呼び方になれば、もうあの面白ピエロは思い浮かんだりもしないだろうと思って。
「あっ、タケシー」
だからこそアルフレッドは、ピエロから遠ざかるかのようにそう声を上げた。
「……っ!!」
そしてナナミはその場に崩れ落ちた。
「いやあの、お前どっからその声出した?」
「喉からだが」
「いやしれっと声戻ってるけど、はぁ!? ちょ、おま……」
タケシは何を言っていいのかとても悩んだ。
発音は普通だった。普通にタケシだった。
だがしかし、問題は声だ。
裏声を駆使したのだろう。アルフレッドから出たその声は、びっくりするくらい女の子みたいな声になっていた。お前そんな特技を……!? とタケシが困惑するレベル。
その声は、図らずも某人気アニメの水ポケモン使いそっくりであった。
お姉さんが二人いる三姉妹の末。お転婆マーメイドと名高いアニメ初期でヒロインやってた美少女である。
それが、やたら圧の強いイケメン男性の口から出てきたのである。
ナナミが崩れ落ちるのはある意味で必然であった。
折角某ピエロの呪縛から解き放たれたと思っていたのに、ここにきて予想外のインパクト。ナナミは腹筋が攣る勢いで笑っていた。最終的に呼吸もままならなくなり、涙目になったまま荒い息をしている。
「タッ、タケシくん……ごめん、しばらくっ、距離、置いてもい、かな……?」
「アルフレッドてめぇこのやろう!」
「……正直すまんかった」
笑いすぎて顔から汗と涙と鼻水と涎といったありとあらゆる汁が出ているナナミに言われ、タケシはとっさにアルフレッドを罵倒する。
アルフレッドとしてもほんの出来心だったのだが、まさかこんなことになろうとは……と思ったのでそっと両手を肩のあたりまで上げて降参の意を示した。
ちなみにアルフレッドが本国へ帰還するまでの間に、この手のやりとりはあと五回発生した。
無駄な才能発揮しやがって、とはタケシの嘘偽りのない感想である。
タケシくん 大学を卒業後普通に就職した若手エース。
ナナミさん タケシくんとは職場が別のちょっと笑いの沸点が低いお嬢さん。
アルフレッド 優秀かつ無駄な才能に満ち溢れた男。世の中において無駄だと思える特技は大体できてしまう。