事務屋と魔法学③
麻布を敷いた木製の寝台の上に、青白い顔の若い男が臥せっていた。固く閉じられた目には黒い隈が浮いており、頬は病的にこけている。すえた匂いが鼻をくすぐる。
死期が近い人間の臭いだ。
神殿に足を踏み入れた時から、ダウの目つきは鋭くなっていた。
「様子に変化はあったか」
傍らに立つ老いた巫女に問いかけながらも、既に病人の横に膝をついている。
「薬を飲む量が減ってきています。口に流し込んでも、飲み下さずにこぼすようになりました」
「そうか」
やり取りの間にも患者に覆いかぶさり、目や唇を指で触れながら観察している。首元までをなぞると、おもむろに粗末な麻の着衣をはだけた。
聞いていたとおり、胸には大きな傷があった。
「胸の傷にも変化はないか」
「はい。血が流れることもありませんが、かといって治ることも無く、まるで時が止まったかのようでございます」
胸の中心にあるのは、縦に走る手のひら大の切り傷だ。短剣の切創のようにも見えるが、いまだ生々しい傷でありながらも血の一滴すら流れていない。
確かに異様だ。魔法の関与を疑うには十分だろう。
「この方、死んではいませんの?」
ジョーが傷を覗き込みながら野放図に言った。この際、遠慮せずにあれこれ質問できる彼女の気質がありがたい。
「生きているのは確かだ。小さいながら、呼吸は続いている。薬を口に含ませれば飲み込む。だが目を覚ますことはない」
答える間も傷に軟膏を塗り込み、口に液体を含ませている。
「それはなにかしら」
「軟膏はオリーブ油に薄荷とミルラの香木を混ぜたものだ。飲ませたのは葡萄酒だ。塩と酢とお湯、そして少量のナツメヤシを混ぜてある」
「ですって。どうかしら」
ジョーがこちらを見る。
治癒術に精通しているわけではないので、私に聞かれても困る。ベイロース先生の教えを必死に思いだし、精一杯の回答を口にする。
「オリーブ油は傷や火傷に効果的ですし、薄荷やミルラは冥界の気配を遠ざける効果があります。葡萄酒は病人にこそ飲ませるべきものですし、塩や酢も健康には良いとされています」
事実、立ち込めていた死の気配は、薄荷とミルラの香りに圧されている。生気に満ちた芳しさが室内に満ちている。
ダウが満足そうに頷いた。
「そのとおり。加えてナツメヤシは滋養があり魔法的にも医神に縁がある善き素材だ」
「信仰と学問が調和した治療ですね。ダウさんが優れた専門的知識をお持ちであると、よく分かる治療です」
「出来る限りを尽くしているだけだ」
ぶっきらぼうに言いながらも、照れたように鼻をこする。ダウは優れた魔法学者であり、実践者でもある。こういう人材は貴重だ。
そもそも魔法の研究者は少ない。学術研究において魔法は、極めて異端で学び難いものとされている。
なぜか。
それは、人間が神や権能を類型化することができていないからだ。時代によって信仰される神は変わるし、その名や権能も変化していく。
祈祷の手段も一定ではない。そこで発揮される魔法的な効果は、客観性も再現性も低い。
これでは体系的に整理することなど不可能だ。学ぶべき知識が整理されなければ、学徒が増えるわけがない。
結果、現状では呪術師や魔法使いが、それぞれの自分の魔法論を勝手に戦わせているに過ぎないのだ。
魔法という学問は、詐欺師の巣窟でもある。
そんな中で誠実に学び、他者のために実践するダウは、稀有な存在だ。
「魔法使いのくせに、素敵な性根の持ち主ですわね。そういうの、好きですわ」
「ええ、私も同じ気持ちです」
「そんなに褒めてくれるな。気恥ずかしい」
ダウは本当に困惑したように頭を掻いている。優れた知識と経験を持ちながらも、威張ることも無く、ひねくれてもいない。本当に良き男だ。
だが、彼が優れた魔法学者であるがゆえに、魔女の容疑者に数えなければならない。善良に見える人物を疑う行為は、とても心が痛む。
そういった心の機微を意に介しない勇者は不躾に問いを重ねた。
「よき治療だという事は分かりましたけれど、もっとこう、いっぺんに回復することはできませんの? 私も神殿での治療を受けたことがありますけれど、あっという間に折れた骨がつながりましたわ」
「ありふれた怪我や頭痛などであれば、寄進を惜しまねばすぐにも治る。だが特別な場合には簡単にはいかない。例えば何万人もの患者を出す疫病などは、より位階の高い神の領域だ」
石造りの広くない室内には、神像が置かれている。その手には蛇が巻き付く杖が握られている。
名高い医神だ。が、確かに最高位の神ではない。
「神殿の巫女が祈祷をしたのですが、あまり振るわぬ結果でした」
老巫女は申し訳なさそうに視線を落としている。
「怪我の治癒を祈祷したある巫女の夢に現れた神は、お話しになりました。失ったものを取り戻さねば治ることはない、と」
相変わらず神々の言葉は要領を得ない。
失われたものとは、いったい何なのか。
「俺は神の言葉にある失ったものを活力や生命力ではないかと推測し、魔力と滋養に満ちた薬剤を、組み合わせを変えながら調合して与えて、様子を見ている」
「ところが、今のところ生きながらえてはいるが目覚める気配はない、という事ですわね」
「そのとおりだ」
「ならば別の手っ取り早い解決方法を取った方が良いのではなくて?」
「別の手段とは何だ」
「簡単な事ですわ。犯人を見つけて、はっ倒す。それがどのような相手であろうとも。いかがかしら?」
結局はそこに帰着する。
呪いを受けた場合、その元凶である呪術師や幻獣を倒すことで回復する場合は多い。
もちろん原状復帰しない場合もあるので、そこは博打にはなる。だが過去の事例から鑑みれば、分の悪い賭けではない。
問題は、その相手がどこにいる誰なのか分からないという点だ。
「犯人に心当たりはないかしら?」
「それが分かれば苦労はしていない。いったいどんな奴ならば、こんな不可思議な症状を引き起こせるというのか。俺の方が知りたい」
ダウの語気には怒りすら感じられる。少なくとも嘘や隠し事は無いように感じられる。
それでもジョーは、さらに踏み込んだ。
「ところで、このランス市には魔女が潜んでおり、城壁に穴を開けたり人々を襲ったりしているという噂がありますわね。何か心当たりがあれば、伺いたいのですけれど?」
凛とした瞳でダウと老巫女を見ている。ただ視線を送っているだけなのに、圧力がある。
ありがたいことに、私の忠告を受け入れてくれている。危険な流れではあるけれど、魔女やダウらを明確に敵に回すような言い方はしていない。
「俺は魔女が出たなどという噂は、信じられんな。確かに城壁に穴が開いた騒動からしばらくして、胸に傷を受けた患者が多く出るようになったと思うが……」
そこでダウが老巫女を見ると、彼女が後を継いだ。
「城壁の騒動が、およそ100日ほど前でしょうか。その20日後くらいにこの方が最初に神殿に運ばれてきました。その後もおよそ10日に1人という具合で同じように意識の戻らぬようになって、私の知る限りでは全部で9人が同じ症状になっているようです」
「あら、そういえばこの方以外の被害者は神殿にはいらっしゃらないのかしら?」
「ええ。神殿に預けていただいて付きっきりで看病するとなると、それなりの御寄附を頂かなければなりません。この方はご両親が裕福でいらっしゃいました。あと一人、身寄りのない方がいらっしゃいましたので別の部屋でお預かりしています。それ以外の方はダウ様のお薬をお渡ししております」
自宅などで家族や友人が世話をしているのだろう。神殿であっても、場所も人手も有限だ。止むを得まい。
ダウと老巫女のおかげで、事実関係を改めて整理することができた。
まずは、一夜にして城壁に穴が開くという騒動があった。その後、定期的に奇妙な傷の被害者が発見されるようになる。そのいずれも、原因が特定できていない。
原因不明の奇妙な出来事が続けば、つなげて考えたくなるのが人の性だ。そこで、何となく魔女が犯人ではないかという噂が立ち始めたのだろう。
ひとつ、気になっていたことがある。
少し迷ったが、それを口にすることにした。
「さきほどダウ様は魔女の噂が信じられぬとおっしゃいました。何か魔女の関与を否定するような材料があるのでしょうか」
「明確な何かがあるわけではない。だが何か不思議なことがあると、人はすぐに神だ、魔法だと騒ぎ立てる。神に任せて思考を捨てる前に、もっと考えるべきだろう」
なるほど、極めて学者的だ。
「例えば、君は“酒神の邪気払い”という薬を知っているか」
「酒の飲み過ぎで手足などに痛みがあったときに飲む薬ですね。ただし腕の良い魔術師が調合したものでなければ、かえって体調を崩すとか」
マルクスの受け売りだ。
酒の痛飲を繰り返すと足の指や腕の節が痛むようになる。それはもう、激しい痛みだそうだ。
そこで植物の根や葉を煮詰めた汁を、水で薄めて飲むらしい。不味いが、よく効く。だが神殿の加護を受けていない邪気払いは、飲んだ後に吐き気やめまいがする。悪ければ死んでしまうこともあるらしい。
そんな話だった。
「それが本当か、俺は実験したことがある。魔術的な段取りを排除し、調合の手順だけを寸分たがわず再現するのだ。するとどうだ、見事に薬効を発揮した」
「つまり、そこに神はいなかったのですね」
「ああ。原料である百合の球根には毒がある。これをよく薄めて飲めば薬となる。だが、下手な魔術師が調合して毒が多く残ってしまうと、体を壊す。だがその結果を薬師の腕前ではなく神の気まぐれに押し付けていたのだ」
最近も聞いた話だ。
ルークである。
彼女も、伝統的な儀式中には神が不在のものもあると言っていた。優れた研究者が魔法という分野を研究すると、そこに神の不存在を見出すことも、往々にしてあるのだろう。
深い河は音を立てない。能力ある者こそ、自然に頭角を現すのである。ルークもダウも、自ずと同じ思考を辿っているようだ。
「神ありき、あるいは魔女ありきで物事を考えていては、進歩が無い。先の言葉は、そういう信念の表れだと思ってくれ」
理性的で剛健だ。ますます好ましい。
だがダウは間違っている。
決定的な情報を持っていないのだから仕方がない。
デルポイの神託で、魔女の存在が明言されている。ならば魔女がいる。これはもはや事実である。
そしてこうも変事が相次ぐからには、魔女が関わっていないとは考えにくい。
たまたま城壁が破壊され、時を同じくして原因も分からず前後不覚になる人が続出して、そこに魔女がいる。にもかかわらず、一切関与していない。
そんな偶然があるだろうか。
もっとも簡単な筋書きは、城壁を魔法で破壊した魔女が街に侵入して人々を襲っているというものだろう。
仮にそうでなかったとしても、城壁の穴か、犠牲者たちか、どちらか一つには魔女が関わっていると考えるべきだ。
少なくとも三つの変事の内、二つは連動していると考えなければなるまい。
「ダウ様、仮に魔女が関わっていないとして、城壁に穴を穿つ魔法というのは可能なのでしょうか」
「無論、不可能ではないだろう。強力な魔法使いは、10日も20日もかけて多くの供物をささげる祈祷と儀式の末に、神の力を用いた魔法を行使する。それができるものならば、可能だ。だが魔法とはきわめて属人的で、再現性も無い。このランス市でそんなことをできる人間といえば……」
そこで黙った。誹謗になるからだろう。
だが私も一人の人間を思い浮かべた。きっとダウと同じ人物だ。
ルクレティア・ラモス。
やはりそこに帰結する。
天才的な魔法使いで、優れた学者で、伝説的な魔女の魔法である“星射抜き”の再現を目指している。風無き所に波は立たぬというが、やはり噂が立つには状況が揃っている。
ベイロース先生は、愛弟子である彼女を第一の容疑者としている。非情にも見えるが、客観的で冷静な判断だ。
もっとルークに踏み込んでいかねばなるまい。彼女は未だにシム・ロークの名前さえ憶えていない。もっと彼女を知ろう。もっと彼女に近づこう。




