表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

猫を追う

作者: KURA

銃弾で頭を貫いた彼はなぜ自殺なんてことをしたのでしょうか。

支離滅裂で調べても確証の取れない妄想のような文書。

彼は狂気の中最後の正気を握りしめてこの文章を書いた。

死んだ理由を知りたいのならば、それは正気の世界にはない。

 人間が一番怖い。それは無知蒙昧なる人間が言う言葉だ。

そんなわけがない。私も昔はそう言っていたような気もするがあの時から人間の矮小さ、脆弱さ、そして心が握りつぶされるような恐怖、世界がひっくり返ったような絶望感、あの悍ましい事件によってもたらされた狂気は私の価値観をひっくり返した。

私の内側にはあの時の悲鳴がべったりとこびりついているのだと思う。


私はあの時の経験を人に話すことはしない。

精神科を進められるのが関の山だ。面白く話すにも私の恐怖がそれを邪魔する。

恐怖のままに話す姿はきっと狂気にしか見えないだろう。

そして……あのような知識など知るべきではないのだ。


だが私はあの時の経験を記すことを決めた。

実をいうと私は自分自身の正気すらもわからないのだ。気が狂っているのか、正気なのかわからない。

だからこそあの時の経験を思い起こし記すことによって、健全に生きていたころの記憶を思い起こすことで私の精神を少しでも健全に保ちたい。

たとえガラスのように割れてしまう脆く愚かな正気だったとしても私は手に入れたかった。

今にも私の体が走り立し己の命を絶つのではないか、私は一秒後の私の正気を信じることが出来ない。


無知でいたかった。知りたくなかった。

幸せな無知だったころの、あの時を思い出そう。

私が正気を壊されたあの時を。





 夏の暑い日だった。長い昼は時間感覚を狂わせる。

私は日が傾き夜が来ようとしているのにもかかわらず、空き地の中で猫の写真を片手に以来の猫を探していた。


依頼は猫を探してほしいというものだった。

依頼人は猫のために引っ越しをしてきたほどの猫好きで、引っ越してきて忙しい時に飼い猫がいなくなってしまったのだと。


気味の悪い街に逃げてしまったかもしれないのでそこを探してほしいと言われた。

気味の悪い街などと小学生かと思ったのだが実際に見てみるとわかった。

どこか黴臭く何故か晴れているのに薄暗いようにさえ感じる。

これならば探してくれ、と単純に依頼された方が百倍ましだと思った。


気が付くと太陽はどこにも見当たらず、薄暗い街は暗闇と言っても差し支えのないものとなっていた。

気味が悪い街は恐怖すら感じる恐ろしい夜へと変貌したのだ。

カラスも鳴いていない静寂、鳥の声には時々驚かされるが全くの無音というのは勘弁してほしいものであった。


「切り上げよう」


猫というのは夜行性であるが、この恐ろしい街にいることのほうが嫌だった。

依頼に対しての責任感などは持っているが、この時はプロの探偵としてのプライドは恐怖に負けてしまったのだ。

明日までに猫が死んでいないという確証もないが、私がこのまま猫を探して無残な姿で見つからないという確証もないのだ。


 自らの家を目指して歩いていると奇妙なことに気付いた。

雲がないのだ。いつもは奇麗な月をうざったいほどに隠している雲がないのだ。

ここまでは晴天であると言い訳することが出来る。

だがそのことを奇妙に思い、空を見上げた時に気付いてしまった。星が見えないことに。

月しかないのだ。真っ黒な空にポツンと月の身が浮かんでいる。

いくら都会のネオン街とて星々が一つも見えないというのはありえない。

眼球のように全く何もない一色の空に恐ろしいほどまでに丸く完璧に陰りのない月が浮いている。


「…………早く帰ろう」


早く家に帰って強い酒でも呷り昏倒するように夢の世界に旅立ってしまいたかった。

もうすぐこの町を抜けるはずだ、そう思うと自然と足が速くなった。

今度からは絶対に夜のこの町に立ち入らないようにしよう。

そう強く誓いながら足早に歩いた。


 見覚えのない道を通った気がしたがこの恐ろしい一日を一秒たりとも多く記憶していたくなかった私は気にもせずに帰宅した。

強い酒を腹いっぱいに呷り、頭の動きが悪くなったその勢いのまま眠りに落ちた。





 朝目覚めるとようやくあの言いようのない恐怖を振り切れた気がした。

だがあの町にはまた行かなければならないと思うと憂鬱になった。

仕事なのだから行かないという選択肢は取れない。断る理由が怖いからなどというものはだめだろう。

依頼人は怒らないだろう。彼も怖いから私に依頼してきたのだから。

だが探偵として助けを求められたのに怖いからなどという理由で逃げるのは流石に憚られた。

探偵としての私が逃げるなと囁いたのだ。

ここで逃げておけばよかったのに。


 私は依頼の猫の写真を落としていないことを確認すると、すぐさま事務所を出た。

少しでも早く出て作業が長引いても夜になることを避けたかった。

あの町に行くことは許容できても、夜のあの町に私が存在するという事実を許せなかった。


 依頼人がどこかで見つけたと電話がかかってくるのを期待しながら、探していたのだが残念ながら依頼人がどこかで見つけることはなかったようだ。

夕陽がこけ臭い住宅街に差し込んでいた。夕陽のにおいが黴に混ざり不快なものになったあの匂いをいまだに憶えている。

帰らなければ、強迫観念にも似た意思が胸の中から浮かび上がってくるのがわかった。

見ながら探していた猫の写真を懐に入れる。


「早く、早く帰らなければ」


この少しづつ光が失われているこの場所から一秒でも早く立ち去りたかった。

足早に帰れるほど冷静ではなかった私は走ってこの住宅街から脱出しようとした。

いい大人が全力で走るのだから見た目はやはり良いものではない。

しかも夏であったものだから汗だくになりながらも私は全力で走ることを止めなかった。


 だが昨日の悍ましい夜空よりも背筋の凍ることに気付く。

明らかに道が増えているのだ。昨日よりも決定的に。

私は探偵業をしている仕事柄通った道は覚えるようにしているし、さらに依頼された地域の地図くらいは調べている。

昨日は夜だということもあり道を間違えたのだという言い訳も効いたのだが、今は暗くなろうとしているとはいえ、道をまがえるほど暗くはない。

そして私が恐怖のあまり道を間違っていたとしても私はこのような道は知らない。

一帯の地図を思い出しても場所がわからない。

崖から落ちるような感覚であった。


「どこなんだ……ここはッ!」


電柱に書いてある地名を見てみると見覚えのないものが書いてあった。

どう読むのかもわからない地名、日本語かすらもわからないその地名を見て私は腰を抜かしそうになった。

記憶を信じることが出来なくなる。

私は気が狂って妄想の中で探偵業をし、徘徊していた時に正気に戻っただけではないのか。

読めない字が現実として存在しているという事実は私の正気を削った。

彼らは私のほうがおかしいと言わんばかりに町の中の要素の一つとして存在しており、もはや読めない私のことを批判すらしているのではないかと思えてくる。


 狂気に取りつかれ、自分への不信にさいなまれていたが、ある事に気付き正気に戻らざるを得なかった。

精一杯に見渡してもあの頼もしき日の光が見当たらないのだ。

人類を照らしてくれる最初で最後の庇護者である太陽が。

代わりに不気味に孤独に輝く月が私を照らしていた。


叫びだしそうなほどの恐怖を味わったが、この暗闇で生娘のように叫ぶことは避けたかった。

暗闇の中の見えない黒の部分に私を狙っている獣がいるのではないかという妄執につかれていたからだ。

私はこのまま頭を抱えてダンゴムシのように丸まり、夜まで自分でいるという作業を、生きるという生体活動を放棄してしまいたかったのだが、生きたいという私の中の削られ少なくなった人間性が叫んだためにその場から立ち去ることにした。





 夜の闇を恐怖しながら倒れているのか進んでいるのかわからないほどに町を不格好に進んでいた。

そうすると奇妙な声が聞こえた。

なにかを乞うような、読み上げるような、決して普通に話すようではない特殊な声だった。

だが私はその声すらもクモの糸に見えた。

孤独というのは人間の心に猜疑心を生む。だからほんの少しでも人間と話したかった。

この異常な状況にて常識というものを人と交流して確かめたかったのだ。

だが今になって思うと最大の失敗はこの怪しい声の主を探そうとしていたことだった。

このような狂気の街にいる人間が正気のはずがないのだ。


 かすかに聞こえてくるその声の方を目指し歩いていた。

この声が獣などの声でないことを必死に祈りながら私は歩いていた。

先ほどまでの自分すら信じることのできていなかった時よりもしっかりとした足取りで声をたどっていった。

明かに不気味なその声ですらも追い詰められた人間にとっては気にならないものだろう。

溺れる人間は藁であろうと、毒の塗られた茨であってもつかみ取るものだ。


「誰か……誰か……」


 歩いていると広い場所に出た。

広場のようだ。そして目の前に教会のような三角屋根で鐘のついている建物が見えた。

建物についている文字は誤字のような、書き損じたような奇妙な文字で私は読むことが出来なかった。

悲しいことに声はこの教会のような建物から聞こえているようだった。

私はすがるようにその教会の扉をたたいた。


「あのーすみませーん」


声も出してみるが、どうにも人が近づいてくるような気配は感じない。

普通ならば待つか、立ち去るかするのだろうが私には恐怖が常に心に付きまとっているため私は教会の扉を引いてみることにした。

すると扉は錆びているのか引っ掛かりを感じる感覚であったが、ゆっくりと開いた。

錆びているせいか、きしむような音が鳴ったが誰も来る気配がない。

教会なのだから誰かいそうなものだったが、見渡す限り誰もいなかった。


 協会は十字架をつっているということもなく何の宗教を信仰しているのかわからなかった。

そしてただでさえこの住宅街はかび臭いのだが、この教会は特にその匂いが強かった。

まとわりつくような湿気が不気味な気配のように私の恐怖心をあおった。

一歩踏み出すのを戸惑う。

ろうそくの明かりも少なく、ステンドガラスからの光は少ない。

聖なるものであるはずの教会を不気味なカルト宗教の建物にすら幻視する。

もしかしたらこの声は教会の地下で怪しい儀式をしている声なのではないかという考えが頭をよぎった。

救いの蜘蛛の糸が地獄への特急便に変わった瞬間だった。


 わざわざ恐怖に飛び込むほど私に勇気はない。

未知を解き明かそうとする探検家の魂は私にはないのだ。

出来るだけ音を出さないように後ろに下がる。

もしかしたら先ほどの音で何者かが来るかもしれない。その危惧が私に焦燥感を味合わせた。

ゆっくりとだが確実に教会から立ち去ろうとした時、後ろから鈴の音が聞こえた。


 だれか私の後ろにいるのか、体が硬直する。

一気に体の関節が錆びたように動かしにくくなった。

そんな風に私が固まっている間にその鈴の持ち主が私の横を駆け抜けていった。


「ね、猫……?」


首に鈴をつけた猫が私の横を抜け、教会の中にかけていった。


「……あ、あの猫!」


私はあの猫を見て驚いた。

見覚えがあったからだ。私はその驚きのままに懐にある写真を取り出した。

依頼にあった猫は鈴をつけているといわれた。

そして写真を見るとあの駆け抜けていった猫は依頼人の探していた猫であった。


「…………行かなきゃ」


私はいかなければならなくなった。

私がここに居なくて数日探して見つからないだけならば私は何も思わなかっただろう。

私に選択がないからだ。だがこの瞬間、この状況に私が何もせずに逃げることは私は探偵として、私という人間として出来ない。

きっとこのまま逃げ帰ったら私は死んだように人生を生きることになるのだと、思った。


そのせいで無知という幸福を手放してしまうという愚行をしてしまったのだが。





 猫を追いかける。

猫は何かに導かれるように地下へと行ってしまった。

暗い階段を軽快にかけていった。 

ろうそくも少ないその階段を私はおっかなびっくり進んでいった。

私は怖かった。一段ずつ地面を確かめるように降りていく。少ない蝋燭では完全に足物を照らすことはできない。その階段に潜む残った闇から手首が伸びてくるような気がした。

そして恐ろしいことに一段、一段、降りていくごとに聞こえてくる声が大きくなっていった。


 一体何分こうして階段を下りているのだろう、そう考えた時に出口が見えた。

私はここでようやく探偵としてのプライドと恐怖がつり合った。

冷静になったとも言ってもいい。

もしも見つかってしまったら……などという考えが私の体を制止する。

だが猫を見つけたいという思いが私の体を動かした。

壁に張り付き、中をのぞく。


 中は広い空間が広がっていた。

そして一際目の引いたのが中央に吊るされているなにかだった。

それはツギハギだった。それは不格好な標本のようで、キメラのようで、いろいろな何かをくっつけたような見た目であるのに何処か統一性を感じる何かだった。

そしてよく見るとくっついているものが一体何なのかわからなかった。

類似したものを想像してみても何か違和感を感じる。

鶏を見て鳩を想像しているような、決定的に何かが違うという直感的な何か。

そしてその違和感が知識を覆すような何かであると思った。


 その妙に目の離せない標本を見ていたのだが視界の隅で動くものが見えた。

猫だ。猫が歩いているのが見えた。

現時点では人もいないため、回収してすぐさまこの奇妙な建物から退散しようと思った。

壁から離れて広場に出ようとした瞬間足音が中から聞こえた。


「おや、おやおやおや。ネズミが入ってきたのかと思ったのですが、猫ですか。丁度いい、供物を上にとりに行くのも面倒でしたから」


足音を聞いて体が硬直していた私はその声を聴いた。

そしてそのあとに猫の声も。

すぐさま壁に張り付き中をひっそりとみてみると虫の羽のようにいろいろな色の混ざった光のような衣を着た人間が猫を捕まえていた。

供物、と奴は言った。


「待ちやがれ!」


 気が付くと私は飛び出していた。

飛び出し、私の声を聴いて驚いている人間の持っている猫をひったくるように取り返した。

猫は何か脅威におびえるように震えていた。


「おやおやおやぁ? やはりネズミが紛れ込んでいたようですね。貴方の猫ですか? それは失礼なことをしました」


「はぁ、はぁ。この猫には帰りを待っている大事なご主人がいるんだよ。私じゃあないがね」


「あぁあ、良いですよ。その猫、見逃しましょう」


「いいのか」


「良いですよぉ。もうそろそろ人間を使いたいと思ってましたから」


 そうして私のほうを見た奴の眼はとても人間とは思えなかった。

そして私は奴を男なのか、女なのか、わからなかった。

装飾によって顔が上手く見えないというのもあるが声も、見えている顔も男性的というにも女性的というにも判断できないものだった。

そして奴の眼は何かに塗れていた。

欲望や悪意のような人間に備わっている黒いものではなく人間にこのような感情があるのだろうか、と感じるほどの何か。

狂信というものは信仰ですらなく、このような得体のしれない何かなのではないかと私は思った。

きっと人間には狂気としか言えない。言いようのない何か。悍ましいそれを私は狂気と罵る事しかできない。


 私は猫を抱えて走った。

ゆっくり降りていた階段を駆け抜けた。

暗いが確認しながら登っているような暇はない、たとえ転んだとしても良いとして無理やり走りぬけた。


「は……は……はッ……! おかしい……おかしい!」


そうおかしかった。いくら登ろうと、いくら急ごうと階段が終わらなかった。

下っていた時とは違い駆け上がっているのにもかかわらず、私は降りている時よりも時間がかかっていると感じた。

心なしかろうそくの間隔も長くなっているように感じる。

時空がゆがみ距離というものがおかしくなってしまったような怪奇現象。


「主はよほどあなたを逃がしたくないらしい。ほら、私はこんなにも簡単にあなたに追いつける」


その声は明らかにおかしな近づき方をしていた。

まるで瞬間移動をしているように瞬間的に声の聞こえる距離が変わっていった。

私はいくら走ろうと距離が稼げていないかのように感じるのに、奴はまるで距離が縮んでいるかのようにすら思う。

動きの連続性が失われている。瞬きするような少ない時間で奴は私が必死に上ってきた階段を容易に移動した。


「逃げるのは無駄だと思いませんか。君が百段駆け上がろうと私は数段上るだけであなたの肩にだって手を置ける」


 必死に上っている私の肩にやつは手を置いた。

そちらを見ると私は必死に上っているというのに奴はただ歩いているだけなのだ。

気が狂いそうだった。悪夢のようだった。

藻掻くように不格好になりながらも私は逃げているのにほんの少しの距離すらも稼ぐことが出来ない。

現実を信じることが出来なかった。いやこれが現実のなのかもわからない。


「諦めなさいと、言いましたよ」


「うわっ」


私は奴に肩を掴まれ、そのまま後ろに倒された。後ろが階段だと思っていた私は悲鳴を上げる。

大の男がみっともないと思うかもしれないが私はそれだけ精神的にも限界であったのだ。

そして背中に訪れるであろう激痛に備えた。





 だがその激痛は訪れなかった。

鋭利に私の背の肉に刺さるはずの階段の角はなく、なめらかな床の感触があった。

本格的に私はこの状況が夢なのではないかと感じた。

だが私の抱く恐怖が、ここが夢の世界でないことを告げていた。


「さぁ、諦めましたか。主は君の魂を望んでいる。抗ったところで君は出られません。無駄なことはしない方が楽ですよ」


「は……私にはこの猫を依頼人に送り届けるっていう使命があるんでね……」


 虚勢を張った。

私は折れそうな心をそう奮い立たせた。そうしなければ私はそのまま膝を折り、来る死を受け入れてしまいそうだったから。

大きすぎる恐怖は時に死よりも恐ろしいものだと知った。

魂が握りつぶされそうなほどの恐怖を味わうくらいならば私は虚無に帰ってしまいたかった。

だが私は探偵だ。依頼を受けた。そして私の腕には温かい尊い命がいる。

死ぬわけにはいかない。


「……愚かな。わかりました。もう譲渡するのはやめます。主に謁見なさい。どうやら貴方は杖で打っても効き目がなさそうだ」


奴はどこからか取り出した杖を掲げた。

何が起こるのかわからないが、ろくでもないことなのはわかる。

私はこの空間に出口はないのかと見渡す。

だが中から削り空間を作ったかのようにつなぎ目すらも見えない。天衣無縫、出口も隙間さえも見当たらない。

幻覚なのだろうか、と私は思った。恐怖から逃げられないという私の絶望がこの隙間さえもない空間を作り出し見ているのだろうか。


 出る方法が思いつかない私は、話すことにした。

時間稼ぎが出来ないのかと思ったのだ。


「この空間はどういうことですか」


「ああ、逃げようという考えは無駄ですよ。ここには見ての通り隙間さえもない。空気すらも限られているので私のこの空間に長居したくないですからね」


「主ってのは」


「……もう数分待てばよろしい。貴方の目の前に主は現れる」


勘弁してくれ。私はそう心の中で吐き捨てた。

カルトの主なんてものはろくなものではない。悪魔でも呼び出すのかとこの時は恐ろしかった。

実際は悪魔の方が良いと思えるような何かであったのだが。


 奴は持っていた杖で地面をついた。

何か恐ろしいことが起きる。そう私の中の何かがつぶやいた。

杖は地面に突き刺さった。数センチほど沈み込み静止した。

だがそれも普通ではなかった。地面に刺さるというよりも水面に杖を刺したように周りが波打っているのだ。


「宇宙っていうのは沢山あるんですよ。知っていましたか。ああ、世界と言った方が馴染み深いですかね」


「は……?」


そして奴は何か話し始めた。私は視線を奴の顔に向ける。

奴はこちらを見ていて、笑っていた。

それは私を馬鹿にするようだとか、何かが面白いというものではなく……歓喜、そう歓喜に満ち溢れた笑みだった。


「たくさんあるからこそ世界と世界の間は狭い。それこそ裏と表と言っていいくらいに」


「何を」


「だからこそ、ほら。世界は繋がる」


 世界がほどけていく。

地面が、石の壁が、天井が、まるで糸のようにほどけていく。

現実が、世界が、ほどけていく。

夢のように、悪夢のように、蜃気楼のように。

溶けていく。

残るのは私と腕の中にある猫だけ。


「主に謁見するのは羨ましい。ですが私にはまだ使命がある。では終焉の時まで、ごきげんよう」


 そして奴も消え去り、私と猫だけが残った。

腕の中で怯えている猫を抱きしめる。

我々の周りには何一つ存在していなかった。

恐らくこの時私は世界と世界のはざまにいたのだろう。

何もかもが存在しない。ただ一つ確かなものは腕の中の猫だけだった。

自分も自分の感触も自分の考えも何もかもに確信を持てなくなった私に震えながらも温かさをくれたのは腕の中の猫であった。


 そしてこの空間に変化が訪れた。

遠くに光のようなものが見え、そして近づいた来た。

私は光に包まれ、目を閉じると私の周りに物質が存在した。

物質が存在しているという安心があったが、私は妙な気配を感じた。


「ははは……なんだこりゃ」


 なにかが壊れる音がした。

私の心が折れる音だったのか、それとも人体に備わっている大事な何かが壊れた音だったのか。今の私にもわからない。

そこにあったのはいうなれば全くの別次元に存在する生命体なのだと思った。

確証はない。ただその存在感に次元が違うと思ったのだ。

平面のキャラクターが立体の人間を認識するというようなこと。

そうとしか言えなかった。恐ろしいまでの現実感。自分の体が幼稚園児の絵のようにすら感じる存在感の差。彼のものと私のどちらが現実化と問われれば私は彼のものだと答える。

赤のような、黒のような、青にすら見える。

カメレオンのように変わっているのか、人間には認識できない色なのか。わからない。奴の纏っていた虫の羽のように色を変える衣はこの皮なのだと思った。


どこが口なのかもわからない。

手のように細長い場所もあるし、頭のように太く短い部分もあるのだがそこに口は見受けられないように見える。

手のようなところを見ると先が開き、ほの暗い炭鉱のような闇をのぞかせていた。

あれは人間の手のようなものなのか、それとも触手のようなものなのか。または私の考え付くことのない全く別次元の体の一部なのか。


恐らく存在としての格が違いすぎるため、または私という生物が見ることを拒否しているのか、かのものはぼんやりとした霧をまとっていた。

詳細には見えないのだが人型のように立ち上がると、私のことを見ている気がした。


 私は動けない。動きたくない。

何もかも、したくない、認識したくない。

私は膝から崩れ落ちた。体が朽ちているのではないかとすら感じる。

力の抜けた腕から猫が抜けていった。


彼のものは私を認識している。

そしてゆっくりとこちらに来ている。

ああ、私は食われるのだ。ああ、私は虚無になるのだ。

ああ、ああ、ああ、ああ、ああ、あああ」


 私は叫んでいるのか諦めの中思考しているのかもわからなかった。

私が今寝転がっているのか、私が今叫んでいるのか、私が今生きているのか。

わからな い。





「にゃぁあ」


 その猫の声を聴いてほんの少しだけではあるが正気の私が帰ってきた。

頭を抱え泣きながら頭を地面に打ち付けていた私は前を見る。

猫が彼のものに向って歩いていた。

思考が回らなかった。猫に彼のものの恐ろしさがわからないわけがない。

なのになぜ彼のものに向かって言っているのかがわからなかった。


 そしてある考えがよぎった。ある言葉がよぎった。

奴は最初にこう言った。

ネズミが入ってきたのかと思ったのですが、猫ですか。丁度いい、供物を上にとりに行くのも面倒でしたから。

もしかしてあの猫は私の代わりに供物になろうとしているのではないか。


「待て、待って! 待ってくれ」


 だが猫は止まらない。

彼のものも止まるはずがない。

そして猫は彼のものの目の前まで行くと私のほうを見た。


私は思わず走った。

だが間に合わない。猫の体が薄れ消えていく。

生命体の中の大切なものが猫の中から消えていくのを感じた。

そして猫の体が消えるとともにまた世界がほどけていった、

私は薄れていても猫のことを掴みたくて手を伸ばした。

だがその手は猫の体をすり抜ける。

私が猫の首輪を掴み、完全に猫が消えてしまったところでまた私は何もない虚無に一人残された。


 先ほどとは違う本当の虚無、本当の孤独。

ぬくもりも、動きも何もない。

ただ私一人。一人? 0人?

何もない。私の中も、私の外も。

空虚な私は虚無に包まれ何もしない。





 気が付くと私は自分の事務所の床に倒れていた。

猫の首輪を握って私は寝ころんでいた。

そのまま私は数日を過ごした。

何もできなかった。何もしたくなかった。


 数日後私が動いたのは私を救ってくれたあの猫の飼い主にせめて子の首輪を届けたいと思ったからだ。

私の正気はもはや修復不可能なまでに傷ついてしまったが私がこうして息をしていられるのはあの猫のおかげなのだと思い私は重い体を引きずって動き始めた。


 依頼人から電話番号は聞いていたので電話をかけた。

出なかった。

猫を探しているのだろうか。はやく首輪をもっていって真実を教えなければ。

きっとこの首輪を持っているべき人間はきっと私じゃないと思ってから。


 私は依頼人の家に言った。

インターホンを鳴らす。出てこない。

そして私はある事に気が付く。

この家に人の気配がなさすぎるのだ。

まるで何年も人が住んでいないような、そんな気配の無さ。


冷や汗が垂れていくのを感じる。

体の芯が少し震えている。

私は近所の家のインターホンを鳴らした。

幸い近所の人は家にいたようで、出てきた。


「なにかしら?」


「ご近所の家に用がありまして。いらっしゃらないようなんですが、何か知りませんかね」


「はぁ……その家数年前から空き家だったと思うんだけど」


「…………すみません。今何年でしたっけ」


「××年ですよ」


変わっていなかった。

おかしい。狂ってしまった私の頭がもっとおかしくなりそうだった。

私が帰って来た時には何年もたっていたという答えの方が何百倍もましだった。


「あ、ありがとうございます」


「はぁ」


お礼を言って私は扉が閉まるのも待たずに走った。

行先は私の事務所だ。

事務所には貰った書類や情報を置いてある。

その少ない情報でも実在を確認したかった。


 鍵を乱暴に開け、蹴破りそうなほどの勢いで事務所に入る。

いつも書類を入れている引き出しを引き出しごと引っ張り出し、書類を机の上にばらまく。

だがいくら探してもぽっかりと穴が開いたようにあの依頼人の書類だけが見つからなかった。





棚も引き出しもすべてひっくり返しまるで泥棒にでも入られたかのような部屋で私は寝ころんでいた。

わたしには何が現実なのか幻覚なのかわからなくなっていた。

あの依頼人は確実に存在していたし、あの心配した顔は本物であった。

なのに彼を証明するものがすべて夢幻や泡のように消えた。

唯一残ったのはあの猫の首輪と事前に貰っていたあの写真だけ。


 私は何もかもがおかしくなりそうだった。

だから私はパソコンを開いてこの一連の悪夢を記すことにした。

首輪を握りしめながら書くことで私は糸のような正気を保ち、こうして書ききることが出来た。

私はもう幸せにはなることはできないと思う。

もはや普通に生きることさえもできないように思うのだ。

この悪夢がもたらした恐怖と狂気は私の中に根強くあり、私を私でなくする。

きっと次に正気を失うともうこの正気の世界に帰ってこれないと、思う。


 私は猫には悪いが、自殺しようと思う。

猫の首輪を握りしめながら、私の持っているあの猫の写真を見ながら、お守りに事務所に置いておいた拳銃を使いこの後死のうと思う。

勿論この狂気に満ちた記録を消去し、死ぬ。

あのような悍ましいものには関わらない方が良い。

このような記録を見る被害者は作れない。

私のほんの少しの正気のために健全に無知という幸福を抱きしめて生きる人々を巻き込んではいけないのだ。

私はあの猫の記憶と悍ましい狂気を抱き、死んでいくのだ。


私はこの悍ましい記憶とともに葬られるのだ。

猫よすまなかった。私も今そちr









「せんぱーい」


首筋に鋭い冷たさを感じる。

体が硬直して腰を痛めそうなほどに変な力が体に入る。


「おい」


「おっ先輩またあの事件の事調べてるんですか。うえ、よくこんなの読めますね。僕最初読んだとき頭おかしくなりそうで半分も読めませんでしたよ。ドグラマグラとおんなじ感覚」


「……お前はこの探偵が発狂したと思うか」


「んー自殺かは置いておいても発狂はしてたんじゃないですか。だってこんなの正気の人が書ける内容じゃないでしょ。……本当にあの探偵が書いたのかは別として」


「あん? お前はこの遺書が探偵以外の人間が書いたってのか」


「いやいや、可能性の話ですよ。でも……となると小説家が題材に怪奇小説を書いて殺した後に小説を置いて去っていったってことですか。さしずめ小説犯罪……友達の小説家にアイデアとして売れませんかね」


「おい。不謹慎だ」


「はいはい」


目の前の後輩は肩をすくめるだけだ。

俺はコイツに付き合うのも面倒だと思い席を立つ。


「どこ行くんです? パソコンも落とさないってことは帰るわけでもないんでしょう?」


「タバコだ」







 若い、事件を調べていた刑事の後輩は彼のいなくなったオフィスで彼のパソコンを覗いている。


「先輩はこの事件自殺だって言い張るけど、拳銃で頭勝ち割るなんて自殺ありえるんですかねぇ」


後輩は彼の事件のことを思い起こす。

ひどく血なまぐさく吐き気がするほどの異常。

彼の探偵はその手に握る拳銃で頭を勝ち割ったようだった。

何回も、何回も、何回も。

除夜の鐘のように、何回も。

なにかを乞うように何回も。


恨みを持った何者かが殺害したのではないかと思ってしまうほどの暴力。

血がべっとりと探偵事務所に飛び散り、彼が最後の最期に息絶えるまで悶えながら、のたうち回りながら血をまき散らしたことを示す。


警察はこの凄惨というにはあまりにも正気を削る事件を自殺ではないと結論を出した。

遺書と思われる文書も頭のおかしい事実という事実が見られない名前しか事実のないあまりにも現実味のない小説のようなものでありとても証拠足りうるものとは思われなかった。


そしてこの文書が信じられなくなった最大の理由が。


「猫の首輪も、写真もなかったんだからなぁ。遺書ってか小説でしょうあんなの」









 























こんばんは。初めて私の小説を読むお方は初めまして。

KURAです。

今回はホラーが書きたくてこの作品を書きました。

わかる人にはわかると思うのですが、私はクトゥルフ神話が好きなのです。

だからこの作品はかのラヴクラフト先生の影響を受けています。

この作品を気に入った方は調べてみてはいかがでしょう。


さて、作品の話ですがこの作品はべたなものです。

衝動的に描いたので特にしっかりと設定を固めたりと、時間をかけてはいないのですがホラーをかくのは楽しかったですね。

これからも書いてみたいです。


最後にここまで読んでいただきありがとうございます。

ホラーというものをあまり書かないのですが、恐怖は与えられましたかね。

それでは次の作品でお会いしましょう。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ