第37話 それぞれの思惑。
時刻は逢魔が時――屋敷のテラスから黄昏に染まる街並みを一望しながら、リズベット・ドルチェ・ウルドマンは優雅にティーカップを傾けた。
死神をも魅了してしまいそうなほど妖艶な黒のドレスをまとった姿が、一層彼女を扇情的な女性へと変えている。
傍に控えている執事は魔法にかけられたように、意識が朦朧とし、風に揺られる揺藍のように右へ左へ……。
「しかし、こうもジュノス殿下に先手を打たれるとは、正直予想外でした。思っていた以上に彼は強敵のようですね」
「当然だ! 彼奴は兄弟の中でも特にズル賢く、これまでに僕を散々利用してきたんだ」
夕凪に靡くカーテンの袖から姿を現したのは、夕陽に燃える朱色を思わせるような巻き毛の少年。
眉目秀麗を描いたような美少年は、リズベットに見下すような視線を落としてから、街をじっと見据えた。
「あら、そのように皺を寄せていては、せっかくの美少年が台無しですよ。うふふ。ユリウス殿下」
「黙れ! 貴様に僕のこれまでの屈辱がわかるか? あの悪魔のような男に陥れられ、立場を失ったこの僕の気持ちがっ!」
暮れゆく街にユリウスと呼ばれた少年の声が木霊する。
リズベットが言うように、確かに彼は美しかった。
しかし、今の憎しみに歪んだ顔は美しさとはかけ離れているように窺える。
エルフの血を引き継ぐ兄ジュノスとは違い、純粋な人間の血を引き継ぎながら、薔薇の妖精と呼ばれたユリウス。
妖精というのは勿論比喩であるが、その比喩が決して冗談などではないほどに、ユリウスは可憐な美少年であった。
だが、そんな彼の心の内には魔物が住み着いている。魔物を住み着かせたのは他ならぬ兄、ジュノス・ハードナーである。
幼い頃から何をやっても優秀な兄と比べられてきたユリウス。
身体能力も魔力総量も、頭脳に関してもジュノスには敵わなかった。
それは、彼が不出来だったからではない。
ジュノス・ハードナーはエルフの血を引き継いでいるのだ。人のそれとは出来が違い過ぎた。
さらに、彼は転生者であり、物語の主人公である。
主人公補正がかかった彼には、誰も敵わないようにできている。それが物語の主人公というものである。
しかし、本来はそれでよかった。
彼が女性のお尻を追いかけている間に、ユリウスはユリウスで虎視眈々とその地位を狙っていたのだから。
だけど、状況が変わる。
兄ジュノスは多くの有力貴族を取り入るだけではなく、民草達の支持を集め始めたのだ。
さらに、極一部ではあったが、ユリウスを慕ってくれていた貴族がジュノスの手によって没落してしまう。
そう、兄ジュノス・ハードナーが知らず知らず追い詰めた不正貴族の中に、彼が慕っていた貴族が紛れていたのだ。
このことが、彼を追い詰める結果となる。
彼、ユリウス・ハードナーは現在、リグテリア帝国皇位継承権を有する兄弟の中で、最も立場が危うい存在と囁かれている。
皇帝の座が遠退けば、母からの愛情が薄れゆくのも皇族の性。
しかし、彼は今年で15歳となったばかりの少年。
母の愛情が遠退くことは、ユリウス・ハードナーに取っては耐え難い苦痛である。
ジュノスとは違い、父である皇帝から愛情を一切受けることのなかった第四王子ユリウスに取って、母からの愛情がすべてであった。
そんな折り、彼の元にジュノス第三王子を疎ましく思う者が現れる。
ジュノスに不正がバレるのではないかと恐れを抱く者が。
彼らはこれまでジュノスにつくことで彼を隠れ蓑にしてきたが、それが叶わぬと知るや、手のひらを返したのだ。
結果、ジュノスの知らぬところで多くの有力貴族は彼を見限り始めていた。
その一人がユリウスに囁いた。
『私達につくのなら、あなたを次期皇帝の座に』
その悪魔の一言に心が揺らがぬ者など皆無であろう。
それが、大帝国の終わりに繋がるとも知らないユリウスなら当然、甘い誘惑に飛びついてしまう。
第二王子ハウスならまだしも、相手は愛情に飢えた子供なのだ。
ユリウスは白黒のチェスボードの上に配置された駒に過ぎない。
そんなこととはつゆ知らず、野心の炎に身を投じたユリウスは希望に満ちている。
(せっかく掴んだチャンス! これでジュノスを引き離すことが可能だ! 僕の後ろ楯にはウルドマン家の令嬢がついている。彼女に如何なる企みがあるかは知らん! が、乗らずにいる者などただの臆病者だ! 僕は臆病者にはならない。皇帝になるのはこの僕だ!)
「あら、ユリウス殿下はやはり笑顔がとてもお似合いですよ。実に愛くるしいですね」
堪えきれず笑みをこぼしたユリウスに、リズベットは口元に手を当ててクスクスと微笑んでいる。
笑われたのが恥ずかしかったのか、ユリウスの頬が紅潮していく。
「だ、黙れ! お前は僕を皇帝の座に導くための駒に過ぎない! ……な、なんだよ! やるのかっ!」
そっと立ち上がったリズベットを見上げるユリウスは、底知れぬ何かを感じ取り、一歩身を引いてしまった。
それは動物的本能。抗うことのできない強者に出会ったとき、人は無意識下で恐れを抱いてしまうもの。
しかし、それを受け入れまいとするのもまた人間。本能の鎖を絶ちきり、ユリウスはグッと一歩身を前に胸を張る。
皇族の意地か虚勢か、或いは選民意識だったのかもしれない。
けれども、目の前の魔女、リズベットにはそのような傲慢は通用しない。
ユリウスを見透かしたように、蠱惑の瞳が夕暮れに煌めきを帯びている。
「な、なんの真似だ!」
「あら……怖いのですか?」
静かに伸ばされたリズベットの左手が、ユリウスの頬に優しく触れる。それはまるで、怯えきった小動物を飼い慣らすように。
そして、そっと唇が重なり合う。
「んぅっ!?」
目を丸くして直立不動のユリウスは、まさに薔薇の妖精の如く、全身を鮮やかな赤で染めてしまった。
「うふふ。お可愛いですね、殿下は」
「ふふふ、不敬だぞ! リズベット! ぼぼ、僕にこんなことをするなんて……」
「あら、しては不味かったですか? こういうのは……そうですね。本来は殿方、殿下の方からしていただくのが普通ですものね」
「だだだ、誰が貴様などと!」
「おや? お取り込み中だったかい?」
あたふたするユリウスと、愉快そうに肩を揺らすリズベットの元に、新たな来客がやって来た。
背まで伸びた髪を靡かせる長身の男。整った顔立ちと、胸に挿した薔薇が気障な人物だと物語っている。
「あらあら、レヴァレリューツィヤ国の第一王子、メビウス殿下。夜会まではもうしばらくありますよ」
「そんなことはわかっているさ! 私から愛しのレイィィラッを奪い取った愚かな帝国の王子など、この私、メビウス・シリアル・アンソージュルが成敗してくれるわっ! わーはっはっはっ!」
「何なんだ……この間抜けは!」
空色の髪をサッと掻き上げて、何故かテラスの手摺に長い足を引っ掻けるメビウス王子。
どこか彼方を見据えながらポーズを決めるメビウスに、ユリウスは訝しげに眉根を寄せた。
「こんな間抜けではジュノスはやれないぞ!」
「ご心配なく。彼はただの当て馬に過ぎませんよ。ユリウス殿下」
メビウスに聞こえぬように、耳元で囁き合う二人に対して、彼は高らかに笑い声を響かせている。
「それにユリウス殿下。貴殿の愚かな兄には我が国の愚か者が一名、匿われておる。あの愚か者を取っ捕まえて、断罪してくれるわ! わーはっはっはっ!」
「愚か者? 何のことだ?」
疑問を口にしたユリウスに、リズベットはレヴァレリューツィヤ国の元貴族、セルバンティーヌ・マッコル・ノイッティシュについて話をした。
話を聞いたユリウスは「なるほど」と頷いた。
「まさか、そんな変なのまで飼っているとはな」
「そうですね。それもまた、予想外です」
「ん? どういうことだ?」
「いえ、こちらの話です。殿下が気にかけられることではありませんよ」
不適な微笑を見せるリズベットに、再び首を曲げるユリウスだか、大したことではないのだろうと気にしないこととした。
しかし、リズベットは違う。
セルバンティーヌが生きてることによって、彼女の計画に少しだけ狂いが生じていたのだ。
何故なら、アメストリア国に喰魔植物の種を植えた、その貴族を差し向けたのは他ならぬ彼女なのだから。
リズベットはてっきり、セルバンティーヌはジュノス殿下によって断罪されると考えていた。
だが、結果は違った。
ジュノスはリズベットが考えるより物事を深く見極めていた。そのことから、協力者の下級貴族――駒を一つ失うこととなる。
幸い、捕らえられた下級貴族が口を開く前に、彼を暗殺することができたことが、彼女のせめてもの救いだった。
しかし、それと同時に、彼女のジュノスに対しての認識が大きく変わりつつある。
リズベットは当初、ジュノス如きいつでも潰せると考えていたが、意外に強敵なのかも知れないと、考えを改めつつあるのだ。
だからこそ、ユリウスを駒にすることを思いついた。
「時期に夜会が始まりますね。今宵はとっても……胸が高鳴りますね。うふふ」




