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人生詩集(3)  作者: 多谷昇太
1/8

ゆっくりの世界

私の歩みは遅い。

一歩、また一歩、やっとの思いで足を進める。まだ三十八でしかなのに、

私の歩みはまるで老人のようだ。

一歩歩くたびに激痛が腰に走る。

痛さのあまり脂汗が顔に浮かぶ。

ため息をついてビルの壁に手を置き、しばらく立ち止まらざるを得ない。


通りでは誰もが皆急がしそうに歩いて行く。

さっき一人の男が舌打ちをして私を追い越して行った。

女子高生の二人連れが「プータロー」と小声で云い、笑いながらすれ違って行った。

しかし考えてみれば私も、ちょっと前までは彼らと同じように歩いていたのだ。

人混みの中さっと身をかわし、人を追い越しては、まるで競争でもするかのように、

早く、早く、とにかく早く歩いていた。

それはたぶん、世の流れに遅れまいとして…いやむしろ、それに流されていたからだろう。

みんな早ければ、気づくもんじゃないさ…。


それがいまでは嘘のよう。

小刻みに、まるでゾンビのように歩いてく。

一歩一歩がたまらない痛みだ。

「なぜこんなことに…?」と神をさえ恨みたくなる。

トラックの運転手の職業病だよと云われればそれまでだが、納得できるものじゃないさ。

「なぜ自分が?」「仕事ができないじゃないか!」「(人生は)不公平だ」等々、

愚痴が尽きることはない。


…この痛みはなんのための痛みなのか?

…この痛みは身ではない。心の痛みだよ。


馴染みの運河の畔へようようの思いで身を運ぶ。欄干に肘をついて眼下の川面に眺め入る。

早春のさわやかな風を受けて、たろやかに水が流れている。

「おーい、川よ。俺はこの先いったいどうなるのかな?たしか俺は大型の免許を取って、あの資格も取って…いい仕事見っけて、金を稼ごうと…」心中で問いかける。

川の水が一瞬笑ったような気がした。

さらに川面を見つめていると、いろいろな人の顔が水に浮かんでは流れて行った。

自由で、とらわれのない、みんないい顔をして流れて行った。

「おい、いつまで‘ねばならぬ’人生を送るつもりなんだ?重い荷物はみんな捨てて、流してしまえよ。その腰にかかえている、重たいやつをさ」と、

そう云って、流れて行った。


…新しい世界を見よ。触れよ。

…主が重荷を担ってくださる。


家路につく私。

駅からアパートまでの距離が途方もなく長い。

だけど、そのいつもの道が、今日は特別。今日は新鮮。

痛みを受け入れたゆっくりの目で見ると、いままで見えなかった、

いや、見なかったものが、よく見えて来る。

足もとの草が、側面のブロック塀の割れ目が、その奥の庭先で植木に水をやっている老婆の姿が、

見える。

夕焼けの空が見える。

通りの銀杏の木に手を触れ、それを等身大で見る。

すると葉っぱ一枚一枚までもが見えて来る。

ああ、なんとゆっくりの世界は豊かだったのだろう!

あせって、生き急いで、その実私はすべてをPASSしていた。

もしこのまま突っ走っていたならば…?

ゆっくりの世界はこうして私を止めてくれた。しかし、はて、

いつかどこかで、私は同じことに気づかなかっただろうか…?


…そう。スイスの白銀の窓辺で。


この先、もしかしてまた、私が道を外したならば、

ゆっくりの世界は、また現れてくれるだろうか? いつでも…?


…然り。しかし重荷となって現れよう。都度現れよう。あなたが重荷を望むからだ。

主が何度でも背負われたのに。あなたに御頭を下げられて、合掌されてまで、託されたことを、

あなたが忘れる度ごとに…。


〔※一九八六年頃、横浜・井土ヶ谷在住時〕

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