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自律―創作の上での「縛り」

作者: 矢積 公樹
掲載日:2015/04/19

 『小説家になろう』での投稿というかたちで小説や詩を発表するまで、私は今まで自作を発表するということはしなかった。働きづめで時間が無かったから小説の同人に参加することもなかった。厳密に言えば数年前に会員制のSNSに『野の仏』を、つい半月前までgoogle+に別名で何作か投稿していたが、どちらも反応は皆無に等しいもので、世に送り出したという感触がまるで無かった。これでは店の棚に展示した商品が誰の眼にも触れず埃をかぶって錆びていくようなものである。せっかく書き上げた自作なのだからもっと多くの読者に読まれる機会が欲しい。そう思っての『小説家になろう』参加だった。

 40年近く生きてきて、年齢相応かそれより少しだけ多めに本を読んできた経験から、自らの名を冠して書く以上は自分なりの「縛り」、規律や制約類があるべきだと感じていた。といってもまだ創作を始めたばかりで自身の経験から導き出すことなど不可能なので、私は影響を受けた作家が同じように自らに課したルールを参考にして、私自身が納得した上でそれを守ることにした。


 私が今まで最も多くの時間を費やして最も多くの作品に触れてきたのは星新一である。氏はエッセイでも幾度か触れているように、創作にあたっていくつかの規律を課している。そのほとんどは作品に時事流行に影響されることのない普遍性を持たせるためだが、その中で

「固有名詞を避ける」

というのは非常に有効である。私は故郷である山陰の寒村の他には神戸と大阪しか知らず、旅行も片手で数えるぐらいしか行ったことがない。だから自作で「街」と言えばそれは大阪市なのであって、その描写には自信があるのだけど、心斎橋、堀江、難波、中崎町、天王寺、天神橋六丁目という地名を使わないのは実はかなり骨の折れることである。大阪に詳しい人には「周防町の雑居ビルの4階にあるバー」といえばたちどころに伝わる様々な要素を文字で書きつづるのは確かに手間がかかる。だが、そのおかげで作品の読者は大阪市ではなく、自身の住む街や訪れたことのある街を思い浮かべてもらえ、自然とその作品に親しみを持ってもらうことにつながるのだから、これはしてもよい苦労だろう。

 むしろ苦労という点では

「具体的な単位を用いずに表現する」

というほうが大きい。100万ドルとか一億円ではなく「金額を聞いた彼の顔から少しずつ血の気がひいていく」という表現を、自然に文中に置くことが出来たらいいのだけど、書けないときは大抵つまずく。キーボードを叩く指がひきつれてしまう。

 加えて、これは自身に対するきつい戒めとしておきたいのだが、星氏が他作家の作品解説や批評で主張していたのが「解説が必要な作品は駄作である」である。そう聞けば誰もが納得することだろう。ところが実際には本文を何度読んでも読者には理解されず、著者の友人の作家や出版社の編集者のOBらによる持ってまわったような物言いの解説を何度読み返しても腑に落ちず、しまいには巻末に詳細な用語集でも付けてもらわなければ頭に入らない、というような小説が多くないだろうか。そうならないための努力は小説が長かろうが短かろうが、小説だろうが詩だろうが惜しんではならないはずだ。しかも言っているのは口先だけの評論家ではない、1000編以上のショートショートを著した作家なのである。


 次に、こうして文章表現の場に出ていこうと決心させた最大の影響土壌である開高健が登場してくる。故郷の実家には、おそらく父が読んでいたのだと思うが『フィッシュ・オン』だけがあり、幼い頃はその中の写真しか眼に止らなかった。22歳の頃だろうか、古本屋を漁るようになってからは小説だろうがエッセイだろうがとにかく古本屋で見つけては買っていた。おかげで氏―本人の言葉を借りれば「小説家」の文体に対する矜持のようなものを強く感じ、憧れを持つようになった。

 『夜と陽炎―耳の物語**』(新潮文庫)という作品がある。ひと言でいえば半生記だが、この作品には「私」という一人称が使われていないのである。原稿用紙約800枚の作品をこれでつらぬくのは大変な苦労があったそうだが、実際に私もその手法を使ったときは驚いた。文体に大変な疾走感が出るのである。加えて、いちいち「私が」「私は」とならず水が流れるように副詞や動詞が次々と連なるので、漢字と仮名のバランスや音韻に少し気を配ってやればとても読みやすくなる。特に散文詩においては効き目が大きいので自作『夜に書いた言葉』はこの手法を恥ずかしげもなく使った。

 壽屋(現サントリー)の宣伝部で傑作コピーを多く輩出した小説家は「言葉は形容詞から朽ちる」という名言を残しているが、物書きにとっては箴言ともいうべき鋭い針である。私も自作においては形容詞を厳選し、可能であれば使わないようにしている。これは詩作においては大変な重荷であり、文字どおり苦吟であるが、その結果として残した作品が自分の色を強く発散するものになれば、安易な形容詞で薄めなくてよかったというものである。

 

 他に心がけていることを思いつくままに挙げていくと、「怪力乱神を語らず」である。有名な『論語』の一節であり、怪力と乱神に分ける解釈もあるそうだが、私は「怪」怪異で不可思議なこと、「力」武勇伝や力自慢、「乱」道理を曲げて世を乱すこと、「神」人知の及ばない精霊や神秘主義、と分ける解釈をとる。これは自らに課しているというより、それ以外のことは実に無関心かつ苦手なため、題材にする気が全くおこらないというのが実情だ。何か素晴らしいアイデアが閃くこともあるのかもしれないし、げんに幽霊や神を題材にした怪談調の物語には興味があるのだけど、今のところは構想段階で寝かせてある。おかげで私の作品はR18指定どころかR15指定すら無縁である。

 それに、俗にいう「搦め手」、あまり歓迎されない変則技も避けたい。夢落ちやデウス・エクス・マキナ(機械の神)、メタフィクション、一人称の主人公が犯人という構図(これもある種のメタフィクションであろう)は最初から禁じ手にしておかないと読者の反感を買うだけで良いこと無しである。それに造語や隠語も使いたくない。使うならばその定義や意味を文中で明確に示すようにする。

 

 再び開高健の話になるが、エッセイにはとにかく書けない、筆が進まない苦しみがよく出てくる。その中で、ある日突然啓示のように閃くのが

「10の駄作を吹き飛ばすような傑作がひとつ書ければそれで良いのだ」

という考えである。他者から見れば開き直り以外のなにものでもないのだろうけど、小説家には『夏の闇』『ロマネ・コンティ・一九三五年』という不朽の傑作があり、いちファンとしては全ての著作があの高みを目指して書かれたものであるなら駄作も許せるという気持ちになる。そしてその後を頼りない足取りで追いかける私のような青二才は、半ば甘えるようにしてその言葉を実践することにしたのだ。これからの作品が傑作を生みだすまでの駄作に過ぎないとしても、私は書き、残し、発表しようと思っている。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 背すじを正すような姿勢のよさがいいですね。星新一と開高健。わたしも好きな作家です。 [一言]  興味深く拝読しました。  わたしはこれといってはっきりとしたことはきめていませんが、なんとな…
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