後編・2009年
二〇〇九年八月二十七日金曜日夕方。渋谷女子高生殺人事件から約十三年。榊原も四十三歳になっていた。相も変わらずグレーのスーツのベージュのネクタイを締め、これ以外の格好をあまりしない。ただ、そのスーツはヨレヨレで、年季が入っていることを嫌でも思い知らせた。
この日、榊原は事務所のデスクで文庫本を読んでいた。先日、広島の方で大きな事件を解決したばかりであり、現時点では資金的に割と余裕がある。
「おい、ちょっといいか?」
と、ドアが開いて一人の男が顔を出した。
「丸野か。どうした」
丸野正一が、相変わらずの白衣姿で立っていた。相変わらずこのビルの一階で開業していて、住所も変わらずこのビルの三階、すなわち榊原の隣室である。ビルでの共同生活も十一年になり、いつしかフランクに話すようになっていた。
「いや、ちょっと緊急の診察が入ったから二日ほど帰れなくなった。荷物か何かあったら、受け取っておいてくれ」
「わかった」
榊原が返事すると、丸野は部屋を出て行った。共同生活とはいえ部屋も違うのでほとんど干渉はない。たまにこうやって留守の際の頼み事をする程度である。
「やれやれ、あっちは繁盛しているようだな」
榊原は首を振ると再び文庫本に目を落とした。
と、電話が鳴った。雇っている秘書はもう帰ってしまっているので、榊原が自分で出る。
「はい、榊原探偵事務所です」
『榊原、私だ』
電話の相手の声を聞いて、榊原は苦笑した。
「橋本か。元気か?」
『おかげさまでな』
橋本は、左遷されたあと必死に出世をしていった。それが辞職した榊原に対するせめてもの償いだと考えたからだ。結果、橋本は警視庁に戻り、この歳で警視正、さらには捜査一課長の地位にまで上り詰めていた。
『さっそくだが、用件から言わせてもらう』
「なんだ?」
そこで、橋本は声を潜めた。
『おい、高杉繁義が死んだぞ』
その言葉に、榊原の表情も厳しくなった。
「あの渋谷女子高生殺人事件の?」
『ああ』
「殺人か?」
『いや、心不全だ。寿命だったらしい。去年、刑期一杯まで勤めて出所した後、杉並区に放っておかれた以前の自宅に戻っていたそうだ』
「仕事は?」
『日雇いの掃除係なんかをやっていたみたいだが、いずれにせよ、さびしい晩年だったようだ。そこで、近所の人から、葬儀に来てくれないかとお誘いがあったんだが、どうだ? なんだったら丸野さんと一緒にでも来てくれ。彼も無関係じゃないだろうし』
榊原はしばらく考えていたが、
「わかった。行こう」
と答え、電話を切った。
「もうそんなになるか」
榊原は窓から夕日を眺め、昔の事件に思いをはせた。そして、こう呟いた。
「全く、何の因果かな。今頃になって蘇ってくるとは……。このままでは終わらせないという何かの意向かな」
榊原の顔に、なぜか苦悩の表情が浮かんでいた。
三日後、八月三十日日曜日。榊原は診察から帰ってきた丸野とともに品川駅で橋本と待ち合わせると、橋本の車で杉並の高杉邸に向かった。
「あれは嫌な事件だった」
捜査一課長になって、すっかり貫禄のついた橋本がそう感想を述べた。
「警察の方はどうだ?」
「変わらんよ。やりきれない事件が多い。お前さんには色々と世話になっているが」
橋本はそのように答えた。
「十三年か……」
「ああ。警察は変わらんが、思えば色々変わったもんだ」
「私は警察を辞め、橋本は捜査一課長。被害者も生きていれば今年で三十歳か」
「当時の私たちの年齢だな。あの頃は若かった」
橋本は苦笑する。
「丸野さんは?」
「変わりませんよ。昔よりは繁盛していますが、生活が変わるほどじゃありませんし」
橋本の問いに、丸野はそう答えた。
「にしても、麻里亜ちゃんがあんなことをしていたなんて、当時は結構ショックでしたよ」
「痴漢詐欺の件ですか」
「ええ。あの後、学校も結構叩かれたそうですね」
「おまけに、あの当時の校長が被害者と男女関係になっていた事まで暴露されて、光蘭女学院は一時期混乱しましたからね」
「今は?」
「元に戻っていますよ。大分校則が厳しくなっているはずですが」
橋本はスラスラ答える。
「お詳しいですな」
「私の姪っ子が今あの学校に行っているものでね」
橋本は照れたような顔をした。
「私も、まさか数年後に捜査一課長と話せるようになるとは思っていませんでした」
丸野も苦笑する。
「……そろそろだな」
榊原が呟いた。やがて、杉並の高杉宅が見えた。家はすっかり荒れ果て、手入れされた気配もない。葬儀といっても近所の住民が融資で行っているもので、葬儀自体も近所の葬儀屋の厚意によるものだった。そのためかどうか、榊原たちには非常に色あせて見えた。
「さびしいな」
「葬式をしてもらえるだけでも奇跡ですね」
「元殺人犯とはいえ、ボランティアなんかにもよく出ていて、近所の住民の評判はよかったらしい。人徳だな」
榊原と丸野の感想に、橋本はそう答えた。車を近くの空き地に止め、三人は家に向かう。入り口で受付が行われていて、先着していた黒スーツの三十歳くらいの女性が今まさに受付している。
「ご記帳を」
受付の中年女性が、無愛想に言う。三人は一人ずつ記帳していたが、先に来ていた女性が何か不思議そうな顔でこちらを見ている。
「あの……何か?」
榊原が訝しげに聞くと、その女性は、
「あの、ひょっとして榊原恵一さんですか?」
と、逆に聞いてきた。
「ええ。そうですが」
榊原が答えると、その女性はホッとしたようにいきなり頭を下げた。
「お久しぶりです。十三年ぶりですね。あの事件ではお世話になりました」
榊原は戸惑った。
「失礼ですが、どちら様でしたか?」
相手は頭を上げると。
「そうですね。あの頃はまだ高校生でしたから覚えていないかもしれませんね」
その一言で、榊原はもしやと思った。
「もしかして、あの当時の光蘭女学院の生徒副会長だった……」
「はい、芦原麗奈です。あの時は尋問で色々ご迷惑をおかけしました」
女性……芦原は再び頭を下げた。十三年前は高校生だった彼女も、すっかり大人の落ちついた女性へと変貌していた。
「いや、あの時は申し訳ありませんでした」
「今も刑事さんを?」
「いいえ、もう刑事は辞めて、私立探偵をやっています。あなたは?」
「私ですか。実は今、光蘭女学院で数学教師をやっています」
意外な職業に、榊原は驚いた。
「そうでしたか。ところで、今日はどうしてこちらに?」
「といいますと?」
「いや、あなたと高杉さんに直接の関係はありませんでしたから」
芦原は少し躊躇していたが、やがて、
「実は、私がここにいるのは、受け持ちの生徒の代わりなんです」
「生徒?」
「はい。私が担任しているクラスの生徒が、高杉さんと深いかかわりを持っている子でして。ただ、その子が絶対に来たくないというので、代理に来た次第です。私にも無関係ではありませんから」
その言葉に、榊原は何か感じたようだった。
「もしや、その生徒というのは……」
「はい」
芦原は告げた。
「あの事件当時、冤罪の痴漢事件のせいで高杉さんの奥さんと一緒に家を出て行った、当時三歳の高杉さんの娘さんです」
榊原は運命的ともいえる因果に、思わず唸った。
新里凛音はアパートの自室にある机に顔を突っ伏していた。凛音は光蘭女学院高等部の一年生。殺人犯・高杉繁義の娘である。
父・高杉繁義が逮捕されたのは彼女が三歳のとき。すでに彼女の母は彼女とともに家を出て旧姓に戻っていたため、回りで不謹慎な噂が出ることはなかった。が、それでも殺人犯の娘であるという事実は、彼女に大きな影を落としていた。
当時三歳だったため、父親の記憶はもちろん、父親が逮捕されるに至った経緯もほとんど覚えていない。というよりも、母がこのことをずっと隠していたため、中学生時代まで彼女はずっと父は病死したものだと思い込んでいた。
彼女がそれを知ったのは、母が亡くなった中学三年生、すなわちわずか一年前である。この時、彼女は何も知らずに光蘭女学院を受験する気でいた。母は反対した。その最中に病に倒れてあっさりと逝ってしまったのだが、死の直前、彼女は自身の娘に全てをぶちまけたのである。
正直なところ、話を聞いた瞬間、彼女は今まであった地面が突然なくなって、地の底まで落ちていくような感覚に襲われた。自身の父親が殺人犯。おまけに、殺されたのはこれから自身が受けようとしている光蘭女学院の生徒。全てが否定された気分だった。同時に、その父が出所して、杉並で一人暮らししていること。そして、毎年のように自分に会わせてくれるように懇願する手紙が母に来ていることも知った。
彼女は、母が自身を養うために苦労しているのを知っていた。その全ての原因が父にあったことに、彼女は怒りを覚えた。そして、そんなことをしながらおめおめ会わせてほしいなどと言ってくる父に対する嫌悪感が一気に強まった。彼女の父親に対する感情はこのとき一気に負の方向へと傾いた。
母の死後、彼女は光蘭女学院への受験を辞退しようかと考えた。しかし、この頃関西に住む彼女の親戚が、彼女を引き取ろうとしていることを知った。その親戚のことをあまりよく思っていなかった彼女は、あえて光蘭を受験した。光蘭に受かれば、少なくとも東京を離れることはなくなる。アパートで一人暮らしをすればいい。それに、それが父の犯したことに対するあてつけになると考えたからだ。実際、受験に成功した彼女は、その親戚から援助は受けながらも、こうして東京で一人暮らししている。
そして、学校に通い始めてから、ちょっとした驚きがあった。担任になった芦原麗奈という教師が、被害者が生徒会長を務めていた事件当時のこの学校の生徒副会長なのだという。彼女は、あえて芦原に自身の素性を明かし、その素性を他人に話さないよう念押しした上で事件に関する情報を求めた。最初は驚いていた芦原だったが、やがて覚悟を決めたように自身の知る事件のすべてを彼女に教えた。無論、自身の証言が彼女の父を追いつめたことも含めてである。そこで、彼女は父の犯した過ちを初めて知ることになる。
父が完全な悪者でなかったこと、どちらかといえば犠牲者に近い立場にいたことは彼女を少なからず安心させた。しかし、父に関する嫌悪は晴れることがなかった。結果的に母にあれだけ苦労をかけさせたこと、また、結果的に自身を殺人者の子にしてしまったことを許すことはできなかった。芦原は、彼女に父に会うよう勧めたが、彼女は断固として拒否した。そんな権利は父にないと考えたからだ。その後も、芦原は何かと彼女に父に会うよう勧めた。彼女自身、自身の発言で父が逮捕されることになったことを負い目に感じているようだが、凛音にとってそんなことはどうでもよかった。ただ、殺人者の父が憎い。それだけだった。同時に、このことがばれたら周囲からどのような目で見られるかがすごく怖かった。
父の死を知らせたのも芦原だった。葬式に一緒に行こうという芦原の誘いを、凛音は断った。誰一人身内に看取ってもらえない最期。殺人者の最後としてはふさわしいとすら彼女は感じていた。これでよかったのだと、彼女は何度も自身を言い聞かせた。
しかし、彼女の心の底で、何か後味の悪いものが残った。本当にこれでよかったのか。彼女はただ、机に突っ伏して頭を抱えているしかなかった。
思えば、父の顔すら知らないのである。このまま父の顔を知らないまま終わっていいのか。葛藤が彼女の心を支配していた。
彼女が立ち上がったのは、それから間もなくのことであった。
榊原は棺桶越しに高杉の亡骸を見ていた。
高杉は逮捕のとき同様、白装束に身を包み、静かに横たわっていた。顔は痩せこけ、髪の毛は白髪が目立つ。逮捕の際の高杉と比べると、間違いなく疲労が体中を支配しているように見えた。
榊原は合掌すると後ろに下がった。先に合掌を済ませた橋本と丸野がすでに座布団に座っている。式はあと一時間もすれば始まるだろう。
「何と言うか……人間なんてはかないものですね」
丸野が突然そう呟いた。
「医者も刑事も人の死とかかわる職業ですけど、生前どんな偉大なことをしても、死んでしまえばそれまでです。みんな平等です。それを考えると……」
丸野の発言に、橋本も榊原も黙り込んだ。
「あの、あちらにお食事をご用意していますので、よろしければどうぞ」
と、葬儀屋の職員が三人の元へやって来た。
「ああ、すみませんね。ご苦労様です」
「いえ、高杉さんには私も少なからずお世話になりましたし、それに……あの事件にも無関係ではありませんし」
榊原はその言葉の意味を少し考えていたが、ふとその胸についている名札を見てアッと声を上げた。
「鳩松……もしかして、あの時の目撃者の……」
「はい。刑事さんたちにはお世話になりました」
職員……鳩松丈男は頭を下げた。
「いや……まさか葬儀社にお勤めとは」
「ええ。あれから色々ありましてね。今はこの葬儀社で課長やっとります」
当時大学生だった鳩松も、すっかり三十代中盤に差し掛かっていた。
「そうなると、当時の関係者が何人も来ることになるかな」
不意に、橋本が呟いた。
「というと?」
「いや、お前と丸野さんだけじゃさびしいかなと思ったんでな。あの時の渋谷署の警部さんも呼んでおいたんだ」
「というと、別所さんか?」
「ああ。と言っても、今は同じ渋谷署の署長さんだが。本人もこの事件は忘れられないということで、参加してくださることになった」
「とか何とか言いつつ、捜査一課長命令で何とかしたんじゃないのか?」
榊原の問いに、橋本は首を振った。
「さすがに、私もそこまでひどくはないよ。あくまで本人がぜひということでだ」
橋本はそう言いつつ、こう付け加えた。
「実は、本人も高杉さんのことは気にかけていたらしい。なんとなく、同情したんじゃないかな」
榊原は黙った。
「では、よろしければあちらでお食事をお取りください」
鳩松はそう言うと、式の打ち合わせに行こうとした。と、榊原がそれを止めた。
「ちなみに、今日は何人くらい参列しそうですか?」
「そうですね。遺族の方とは連絡が取れないので、ほとんどが近所の方ですね。それも五人前後で、読経も近くの寺の住職さんに頼んであります。あとは、あなた方三人と、先ほどおっしゃられた別所さん。それに、芦原という方だけですかね。では」
鳩松が去ると、榊原は橋本に聞いた。
「ちなみに、他のあの時の関係者がどうなっているか知っているか?」
「一応はな。折川常一は、あの事件の後新興暴力団に入って、麻薬の売人になった。何度も警察に捕まっているが、その都度の言い逃れしている、組織犯罪対策課のブラックリストに入っているやつだ。その関連で私も知っているんだがね。今はどこで何をしているか」
「竹澤静雄は?」
橋本は口ごもった。
「榊原、お前が警察を辞めた直後に死んだよ」
「死んだ?」
「あの援助交際のせいで、やつは直後に渋谷区役所を解雇された。その後は酒と女に入りびたりの生活でね。奥さんにも逃げられ、一九九九年一月、自宅マンションのベランダから泥酔状態で転落死した。酔った末の事故と判断されている。殺人の可能性があったから当時一課が関与し、私が一課に戻ったときに部下からこのことを聞いた。正直、やりきれなくなったがな」
「そうか……」
榊原は、その後何事か考え込んでいた。そして、橋本の顔を見やると、
「橋本、実は聞いてほしいことがあるんだ」
「何だ?」
榊原は何か話そうと口を開きかけた。
その時、表が急に騒がしくなった。
「どうした?」
橋本が立ち上がりながら表の方に呼びかけた。と、鳩松が血相を変えて飛び込んできた。
「刑事さん、表で喧嘩です!」
橋本と榊原は顔を見合わせると、部屋を飛び出した。丸野と鳩松も後に続いた。
玄関の前で、三人の人間がもみ合っている。一人は柄の悪そうなチンピラ風の三十代くらいの男で、サングラスをかけている。そいつがセーラー服を着た女子高生に殴りかかっており、もう一人の初老のスーツ姿の男がチンピラを抑えようとしている。
「別所さん!」
橋本がスーツの男に叫んだ。初老の男……別所は振り返ると、
「ああ、一課長さん。ちょうどいいところに。こいつが急に道を歩いていたこの子に殴りかかり始めて」
少女は地面に倒れて、男を睨んでおり、男は血相を変えて少女を叩きのめそうとしている。榊原と橋本も別所に加わり、三人がかりで男を取り押さえた。男は激しく抵抗し、サングラスが外れる。その瞬間、橋本が叫んだ。
「折川!」
折川常一が血走った目で少女を睨んでいた。
「お前のせいだ! お前の親父のせいで、俺は滅茶苦茶になったんだ!」
「何をわけの分からないことを言っている!」
別所は手錠を取り出すと、折川の手にかけた。
「折川、暴行の現行犯だ」
「関係ねぇ! こいつだけは……こいつだけは許せねぇ!」
わめく折川を押さえながら、別所は榊原の方を見た。
「ああ、どうも。お久しぶりですね榊原さん。ご活躍のほどは聞き及んでおります」
「いえ、あなたもお元気そうで。別所署長」
「いやいや、とんだ再会になりましたな。よりによってこいつ絡みで」
別所は折川の手をねじった。折川は呻くと、おとなしくなった。
「そっちの方、大丈夫ですか?」
橋本は少女の方に呼びかけたが、少女はさっさと起き上がると、顔を隠すように立ち去ろうとした。と、家からその様子を見ていた芦原が思わず声を上げた。
「凛音ちゃん!」
その声に、少女はピクリと肩を震わせて、歩みを止めた。
「やっぱり来てくれたのね」
「勘違いしないでよ。胸糞悪いあいつのさびしい最後を笑いに来ただけよ」
少女……新里凛音は怒りに満ちた表情で告げた。
「そんなこと言わないで、一目だけでもお会いして……」
「お断りよ!」
少女は叫び、去ろうとする。
「待って!」
芦原が手をつかむ。が、凛音はその手を無常にも振り切った。
「ここにいる全員、よく考えてみてよ! いくら偽善ぶっていたって、あいつは殺人者よ! 私みたいに、あいつのことを憎んでいる人間だっているの! 葬式なんか開く必要ないわ! あいつには、誰にも看取られない最期がお似合いよ!」
凛音の叫びに、その場にいた全員が沈黙した。が、榊原だけは冷静に彼女を見ていた。
「失礼。もしやあなたは、高杉さんの……」
「その名を言わないでよ! 汚らわしい!」
凛音は吐き捨てた。と、今度は折川が叫んだ。
「ふざけんな! 俺の人生を無茶苦茶にしておいて、関係ありませんで通るかよ! どうせならお前も道連れだ!」
「やめろ!」
別所が折川の手首を握る。が、折川はやめない。
「そいつはなぁ、ここで野垂れ死んだ、殺人野郎のむす……」
次の瞬間、芦原が折川の元に駆け寄ると、彼の頬を叩いた。
「いってぇなぁ!」
「恥を知りなさい! そんな結果になったのはあなたが高杉さんに痴漢の罪を着せたからでしょう! 罪を他人に転嫁して、恥ずかしいとは思わないの!」
「てめぇ! 殺人野郎の娘をかばうのか!」
その言葉に、凛音の体が震え、全員が凍りついた。
「やはり、その子は高杉さんの娘さんでしたか」
「……はい」
榊原の問いに、芦原は観念したように答える。と、凛音は突然大声で笑い始めた。
「そうよ、私はそこで野垂れ死んだ馬鹿な男の娘よ! これでいいの?」
全員がどうすることもできずに硬直する中、榊原だけは厳しい表情で彼女を見ている。
「私が、いいえ、母さんがこの馬鹿男のためにどれだけ苦労したと思っているの! こいつに見送られる資格なんかない! 葬式なんかいらない!」
そうして、泣きながらで憎憎しい笑いを浮かべ、言い放った。
「何しているの! 遺族がやらなくていいって言っているのよ! さっさと葬式を中止してよ! こんなやつ、無縁仏にでもなればいいんだわ!」
「それは違います!」
突然、誰かが大声を上げた。その声に、半狂乱になっていた凛音も言葉を止めた。声を上げたのは榊原だった。
「彼は……高杉さんはそんな方ではありません」
榊原は凛音と対峙すると、まっすぐ凛音を見た。
「あなたは?」
「榊原恵一。当時、高杉さんを逮捕した者です」
「何でそんな人がここに? 自分の過去の栄光に対する自己満足を味わうためかしら?」
凛音が小さく笑いながら言う。その笑いが無理矢理であることを、榊原は最初から気づいていた。
「いいえ、償いのため。そして、決着をつけるためです」
榊原は突然妙なことを言い始めた。関係者はもちろん、橋本さえわけが分からないまま榊原を見ている。
「お名前を聞かせていただけますか?」
榊原は低い声で聞いた。その声には、何か凄みがあった。凛音も、その声に圧倒されたようで、
「……新里凛音」
と名乗った。
「正直、この話は内々で、橋本とある方に話すつもりだけで終わらせるつもりでした。ですが、このまま高杉さんが娘さんに誤解されたまま逝くのは、私が許せません」
「ちょ、誤解って……」
凛音が困惑したように聞く。
「ここにいる中で、十三年前の事件に関係された方。申し訳ありませんが、祭壇の前にお集まりください。ご近所の方、すみませんが、一時間ほど待ってもらえますか。それで全ては終わりますので」
そして、折川のほうを見た。
「折川、お前も聞く必要がある。一緒に聞いてもらうぞ」
折川はふてくされたようにそっぽを向いた。
「おい、何をするつもりだ?」
橋本はわけが分からないと言わんばかりに榊原に聞いた。榊原は、苦渋の表情でこう告げた。
「十三年前の真実を明かすんだよ」
祭壇の前には、十三年前の関係者がそろって、座布団で円を囲んでいた。祭壇には高杉の棺桶が安置されている。その祭壇の前に榊原。そこから時計回りに、橋本、折川、別所、丸野、芦原、凛音、鳩松の順に並んでいる。
「さて、こうして十三年前の関係者が集まったのも何かの縁でしょう。ここで一つ話さなければならないことがあります。十三年前の事件。表に出なかったその真実です」
榊原はそのように切り出した。橋本や別所は固唾を飲んで榊原を見ており、他のメンバーも何が始まるのか分からずに困惑している。
「ハッ、真実も何も、そこの高杉ってやつが麻里亜を殺したってだけだろ! 真実もへったくりもないじゃないか!」
折川が吐き捨てた。が、榊原は厳しい表情を崩さずに、
「そう。それが表の真実です。ですが、それは『真の真実』ではありません。『偽の真実』なんです」
「は?」
折川が蔑むように聞き返す。
「実は、私自身それに気がついたのは、恥ずかしながらつい最近の話なんです。たまたま昔の記録が残っていましてね。それを整理していた私の事務所の事務員が、ある事実に気がついたんです。そう、表の真実とは明らかに食い違う不可解な事実を」
その言葉に、別所と橋本は震撼した。
「警察が見落としをしていたというつもりか?」
「言いにくい話だが……当時警察にいた私も含めて、全員がそれを見落としていたことは疑いようもない事実だ」
この衝撃発言に、全員から戸惑いの声が上がる。
「何ですか? その事実って?」
芦原が硬い表情で聞く。隣で凛音が当惑した表情で榊原を見ている。彼女自身、どうしてこうなったのか分からないでいるのだろう。
「それは……鳩松さん、あなたの証言ですよ」
その瞬間、全員の目が鳩松に集まった。当の鳩松は、一瞬ポカンとした後、
「冗談じゃありませんよ!」
と叫んだ。
「あ、あなたは私の証言を疑うつもりですか?」
「いいえ、あなたの証言は事実でしょう」
そしてこう付け加えた。
「だからこそ不可解なんです」
「もったいぶらずに教えてくれませんか?」
別所が促す。
「鳩松さん、あなたの証言を要約するとこうなる。『トンネルで誰か倒れていた。顔しか見えなかったが、間違いなく被害者である。その遺体を鳩松さんの視線から隠すように男の人が後ろ向きに立っていた。その時その人が振り向いて、顔が見えた。それは間違いなく高杉さんだった。反射的に刺されるんじゃないかと思ったあなたは、怖くなって逃げた』。間違いありませんね?」
「え、ええ」
「では一つ質問しましょう」
榊原は鳩松にこう聞いた。
「どうして、あなたは自分が刺されると思ったんですか?」
沈黙が場を支配した。
「なぜって言われても、十三年も前の話ですから……」
「答えてください」
鳩松は、しばらく考え込んでいたが、
「ああ、そうですよ。高杉さんが右手にナイフを持っていたからです。間違いありません」
「絶対に?」
「ええ」
鳩松は自身を持って言った。その時だった。
「そんな馬鹿な!」
別所が叫んだ。全員の視線が別所に向く。また、橋本の顔も顔面蒼白だった。
「ありえない……そんなことはありえない……」
他の人々は、なぜ彼らがこんなに驚いているのか分からなかった。
「鳩松さんを含む警察関係者以外がこの矛盾に気づかないのも当然です。このデータは一般公表されていませんから。被害者がナイフの一突きで命を奪われ、ナイフがそのまま体に突き刺さったまま発見されたことは」
「それが何か……え?」
言いかけて、丸野もその矛盾に気がついたようだ。
「ちょっと待ってください。じゃあ、高杉さんの持っていたナイフは一体どこから沸いてきたんですか?」
「え? え?」
鳩松が混乱したように辺りを見渡す。
「そうなんです。被害者はナイフの一突きで絶命していました。傷口は一箇所。ナイフはそのまま体に刺さっていた」
榊原は爆弾をぶちまけた。
「すなわち、ナイフが引き抜かれたり、また再び被害者の死体に刺さったりすることなんか絶対にない。そんなことをすれば傷口は二つになってしまいますからね。被害者の死後に、犯人がナイフを持っていることなんか絶対にありえないんです」
「あ!」
全員が声を上げた。
そう、それは二~三ヶ月前、榊原が事務所に残しておいたこの事件の資料を整理していた、二年前から榊原の自称助手として事務所に通いつめている深町瑞穂という少女から発せられた発言から発覚したことだった。
「この鳩松って人、よく死因が刺殺だって分かりましたねぇ」
いつも通り文庫本を読んでいた榊原は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「どういうことだい?」
「だって、死体はこの高杉って人の影で隠れて、顔しか見えなかったんでしょう? 脇腹に刺さったままのナイフは見えないはずですから、『刺されると思った』なんて言うのはおかしいかなぁと思ったんですけど……」
「瑞穂ちゃん! ちょっと貸してくれ!」
榊原は文庫本を放り出して彼女がいた秘書席に駆け寄ると、そのファイルを瑞穂からほとんど強引に奪い、鳩松証言を食い入るように読み返した。
「これはどういうことだ……」
普段あまり動揺しない榊原の表情に、明らかに狼狽の表情が浮かんでいた。
鳩松が犯人でないことはアリバイの点からも明らかだ。当然裏も取ったから、彼が事件と関係ない第三者であることは間違いない。つまり、彼のこの発言は事実なのである。
この状況下で彼が「刺されると思う」場合は、たった一つしかない。すなわち、高杉自身がナイフを持っていた場合である。
「しかし、それでは……」
榊原はすぐに解剖記録のページを開けた。榊原も、即座に解剖記録との矛盾には気がついていた。いくら十数年前とはいえ、刺し傷が一箇所であることくらいは鑑識の捜査で簡単に分かる。たとえ一度刺した傷に刺し直したとしても、その痕跡を鑑識や検視官が見逃すはずがない。すなわち、ナイフが刺されてから一度も抜かれていないことは疑いようのない事実なのだ。
ナイフが抜かれていないのも事実。だが、死体の横で高杉がナイフを持って立っていたことも事実。二つの相反する事実が十数年の時を越えていきなり榊原の前に立ちふさがったのである。
そして、これを解決する手段も、榊原は瞬時に考え出していた。しかし、それは事件の構図を百八十度ひっくり返してしまうようなものだった。
それは……
「ナイフは二本あった。これが私の結論です」
十三年間見過ごされてきた矛盾に呆然としていた事件関係者たちの前で、榊原は自分が一年前に考え付いた事件の構図をひっくり返す推論を公にした。
「高杉さんがナイフを持っていたことは間違いないでしょう。おそらく、彼の供述どおり、被害者の前で自殺するつもりでナイフを持っていて、彼女の会話を聞いて殺意を覚え、彼女の後をつけた。ここまでは間違いないと私も考えます。しかし、この後が違ったんです」
榊原はいったん息を継ぐと、休む間もなく続けた。
「高杉さんが持っていたナイフをAとします。しかし、実際に被害者の脇腹に刺さっていたのはAではなくまったく別のナイフ、すなわちBだとすればどうでしょうか。Bは遺体に刺さりっぱなしなのだから鑑識記録に矛盾も生じない。すなわち、鳩松さんが見た高杉さんの持っていたナイフはAであり、この時高杉さんの体で隠れていた遺体にはしっかりとBが刺さっていた。これなら説明はつきます。逆はありえません。刺したのがAであるなら、Bはどこから湧いてきたのでしょうか? 説明がつかないんです。おまけに現場は低圧ナトリウムランプで変色したトンネル内。高杉さんの持っていたナイフAに血がついているか否かなんて、ちょっと見た程度では分かりません」
「高杉さんが二本のナイフを持っていた可能性は?」
別所が聞く。
「ありえません。なぜ二本もナイフを持つ必要があるんですか? 彼の元々のナイフの購入目的は自殺です。自殺にナイフは二本もいりません」
「最初から殺すつもりだったとか?」
「だったらもう少しスマートな計略を練るでしょう。最終的に自分が逮捕されるような計画を、法学部の教授だった彼が練るとは思えません。何しろ、動機は自分が一番大きいんですからね。そもそも、殺人にナイフを二本使って、何か得がありますか?」
榊原の反証に、別所は何も言えなくなった。
「待ってくれ。じゃあ、そのナイフBはどこから出てきたんだ?」
橋本が聞く。もっとも、橋本自身、その答えはすでに出ているようで、どこか青ざめていた。榊原も重々しく告げる。
「ナイフが自分で飛んでくるはずはない。当然、ナイフBにもそれを使った人間がいたはずです。しかし、それが高杉さんでないことは証明されました。また、背後から脇腹に刺している点から、被害者が自身で刺したという可能性もない」
「それじゃあ……」
「ああ」
榊原はこれまでにないほど重苦しい真相を告げた。
「ナイフAを持っていた高杉さんは被害者を刺していない。ここに、被害者でも高杉さんでもない、ナイフBで被害者を刺し、そしてその命を絶った正体不明の第三者が存在するのです」
それは、榊原が十三年前に自身が下した結論を完全否定し、なおかつ、高杉逮捕が警察の犯した冤罪事件であることを告発するものだった。
「そんな馬鹿な……」
別所が呆然と呟く。しかし、榊原はそのすぐ後に、さらに衝撃的な発言を告げた。
「そして、その『正体不明の第三者』、すなわち、この事件の真犯人は、この中にいるのです!」
榊原の告発に、その場にいた全員が凍りついた。
父は犯人ではない。その事実は、凛音の心に素直に受け入れられないでいた。というよりも、あまりに一度にいろいろなことを言われて混乱していた。そもそも、それを父を殺人犯として逮捕した元刑事が言っていることで、何がなんだか分からなくなっていた。
そして、凛音の心は次の榊原の発言で緊張状態に陥った。犯人がこの中にいる。父を陥れ、十三年間も逃げ延びた殺人者がこの中に……
凛音は榊原の次の発言を待っていた。
榊原の爆弾発言に、数分間、誰も発言しなかった。
「ありえない……」
橋本がかろうじてそう呟いた。
「私だってありえないとは思う。しかし、犯人は間違いなくこの中にいるんだ」
「根拠は? 根拠はなんですか!」
鳩松が叫ぶように聞いた。
「簡単な話です。高杉さんが冤罪であると判明した以上、殺人の動機が痴漢でないことを認めざるを得ないでしょう。となれば、動機は援助交際にあると考えて間違いないと考えられます」
「だが、援助交際に関与していた人間はここにいる人間だけじゃない」
丸野が反証する。
「ええ、現に光蘭女学院の校長などがいましたね。ですがよく考えてみてください。彼女が殺人で死んでしまえば、彼女が援助交際にかかわっていたことは明るみに出ます。そうなってしまえば、殺人者自身が身の破滅です。その点から言えば、この殺人で人生を滅茶苦茶にされた竹澤静雄やあの校長は、真っ先に容疑者から除外されるでしょう。殺人をやるメリットが全くないんですから」
榊原は続けた。
「すなわち、援助交際関連で殺人を実行に移せる人物は、実際に援助交際そのものには関与していないが、別の意味で何らかの関与をしていた人間。援助交際の事実がむしろ公になってほしい人間。援助交際がばれても大して問題にならない人間。この三種に絞られます。中絶手術の医者やそれを捜査していた警察関係者、彼女の裏の仮面を苦々しく思っていた学校関係者、それに大っぴらに付き合っていた折川みたいな人物がこれに該当します。そう、ここにいるにはこの条件に当てはまる方々ばかりなんです」
隙のない論理に、全員は声を失った。もはや、この中に犯人がいることは明白だった。
「一体誰が犯人なんですか?」
凛音が震える声で聞く。榊原は凛音のほうを見やると、しばらくためらった後、一気に推理を開始した。
「ここは消去法で行きましょう。まず、当時三歳だった新里凛音さんは論外です。次に、当時は援助交際に関する法律はなかったので、捜査そのものが不可能。ということで、警察関係者も除外されます。また、先ほどの理論で竹澤静雄も除外。アリバイがあってまったくの第三者と証明されている鳩松さんと、同じくアリバイのある丸野も外れです」
榊原は息つく間もなく続ける。
「折川、お前が犯人だとするとなぜ自身を一度窮地まで追い込んだのかが疑問だ。痴漢が浮かぶ前、第一容疑者はお前だったんだからな。一時不再審を狙ったとも考えられるが、それもおかしい。だったら、お前は何で痴漢のことを話さなかったのか分からない。痴漢に行きつかないと、結局逮捕だ。それを承知で痴漢の件を話さないとは思わない。もしお前が一時不再審狙いでわざと捕まっていたとしたら、少しずつ痴漢の証拠を出していくはずだ。それをしなかったということは、お前は逆に無罪に近いと考えられる」
「ちょ、ちょっと待って!」
不意に、凛音が叫んだ。その顔は青ざめている。部屋の全員が残る人物を見た。
「あなたにはアリバイがない。それに、あなたはあの時の尋問で被害者が友人たちの恋人を奪っているという話題が出たとき、その発言者をたしなめた。言い過ぎを諌めたのかとあの時はそう思ったが、そうじゃない。あのままいけば、自身に動機があることがばれると考えたからじゃないんですか? その発言者もそれを知っていて発言を自重した。そう、恋人を被害者に奪われたのはあなただったんです」
榊原はじっとその人物を見つめ、悲しそうに告げた。
「芦原麗奈さん。当事光蘭女学院高等部生徒副会長だったあなたが、早乙女麻里亜を殺害した真犯人です」
芦原麗奈は目を閉じ、静かにそれを聞いていた。凛音が隣で呆然として彼女を見つめていた。
あの日……あのトンネルで……
早乙女麻里亜は何が起きたのか分からずに自身の脇腹を見た。セーラー服が褐色に染まっている。トンネルのランプで変色しているが、明らかに自分の血だ。その脇腹に、後方から鋭いナイフが差し込まれていた。
その瞬間、彼女の意識は急速に失われていった。彼女はとっさに後ろを見た。そして、その人物の顔を見た。自分と同じセーラー服を返り血で染め、憎憎しげに自分を見つめている、普段から生徒会室でよく出会う顔を。
「なんで……あんたが……」
その言葉を最後に、彼女は何がなんだか分からなくなった。が、その直前に、彼女の脳に、殺人者の言葉が響いた。
「あんたなんか……あんたなんか……あんたなんか!」
それが、かつてその殺人者……芦原麗奈から恋人を奪ったことに対する復讐であると悟ったとき、彼女の意識は奈落の底へ落ちていった。
榊原の告発の後、二、三分間、芦原も榊原も話さなかった。他のメンバーも口を開こうとしない。不気味な沈黙が場を支配した。
が、不意に芦原がため息をついた。そしてゆっくり目を開けると、頭を下げた。
「ありがとうございました」
突然の言葉に、榊原を除く全員が驚いた。
「この十三年間の重荷から開放された気分です。刑事さん……いえ、榊原さん。ありがとうございました」
「先生!」
凛音が半狂乱になりながら芦原にすがりつく。
「嘘でしょ! 嘘って言ってよ!」
芦原は悲しそうに彼女から目をそらせると、
「いいの、私はこの時を待っていたのかもしれない」
そう言って、姿勢を正すと、ゆっくりと、しかし明瞭な声で答えた。
「おっしゃるとおりです。あの女……早乙女麻里亜を殺したのは私です」
その告白に、榊原以外の場にいた全員が体を震わせた。
「動機は、恋人ですね?」
「ええ」
「ちょ、ちょっと待て! 恋人って……」
橋本が榊原に聞く。榊原は答えた。
「橋本、被害者が妊娠したのは三回。そのうち二回の相手は折川だが、残る一回は誰だった?」
「え? 確か……丸野さんの友人の医者……」
丸野がハッとした顔をする。
「安橋のやつが?」
「安橋……それがその医者の名前か」
「ああ。安橋耕平。池袋で内科医をやっていた。事件当時二十八歳」
「池袋か。名前は今初めて知ったが、おそらくこの男が芦原さんの当初の恋人だ」
「そして、早乙女麻里亜が私から奪った人です」
芦原が続けて答える。
「しかし、復讐にしては時間が空きすぎのような……」
「当たり前です。あの女が彼を奪ったのを知ったのは、殺す一週間くらい前だったんですから」
芦原は淡々と答えた。
「あの人とは通学路の途中で出会って恋仲になりました。私にとっては初恋だし、幸せだった。でも、急に彼から連絡が来なくなって、そのうち彼は何も言わずにドイツ研修に行ってしまった。正直、最初は捨てられたと思った。そうじゃなきゃ、彼にとって私は遊びに過ぎなかったのかなって思いました」
詳しくは語ろうとしないため曖昧な部分が多いが、彼女が安橋を愛していたことだけは伝わった。
「でもあの日、あの女、生徒会室で携帯電話を相手に自慢げに語っていた。部屋の外に私がいるのも知らないでね。多分、相手はあなただったんでしょうけど」
芦原の告発に、折川が体を震わせる。
「どんなことを?」
「ひどいものでしたよ。どちらかといえば地味だった私が年上のいい男と付き合っているのが許せなくって、風邪を装って彼の病院を訪れたそうです。その診察中に彼を誘惑して……」
そこで彼女は言葉を区切った。何があったかはその場にいた全員がなんとなく察した。
「その後は泥沼だったみたいです。彼は彼女の言いなりになった。時々渋谷に呼びつけられて、彼女に貢がされた。友達の医者も何人か紹介させられたらしいし、彼も引けなくなったのね。彼女が妊娠して、堕胎したいと言ったのをチャンスと思ったらしく、そのまま海外に逃げてしまいました」
重々しい空気が部屋中を支配する。
「その話を聞いた瞬間、私の中で何かが湧き上がりました。あとは……榊原さんのおっしゃった通りです」
榊原は丸野に尋ねた。
「丸野、その安橋って医者は?」
「死んだ」
丸野は簡単に答えた。
「ドイツに渡った後、あいつは誰にも顔を合わせられなくなったんだろうな。日本に帰らずそのままドイツの製薬会社に入社し、アメリカ支社に派遣された。その支社は、ニューヨークの世界貿易センタービルサウスタワー六十八階にあった」
「……9.11テロか」
二〇〇一年に起きたあのテロのとき、世界貿易センタービルサウスタワーは、飛行機が衝突した場所より上の階の人間がほとんど逃げられないうちに崩壊した。衝突階より上の階の生存者は十名に満たない。六十八階もその一つだった。
「折川、お前はこの話を知っていたのか?」
別所が怒りの形相で聞く。
「い、医者を口説き落としたってことだけだよ! その医者に恋人がいたことなんて知らかった! 本当だ!」
「お前ら、どこまで性根が腐っているんだ!」
別所が一喝する。折川は肩を震わせ、そのままがっくりうなだれた。
「ねえ、だったらどうしてあの男に罪を着せたの?」
凛音が聞く。まだ、高杉のことを父とは呼べないようだ。芦原は黙り込んだ。
と、不意に榊原が発言した。
「そのことですが、一つ仮説があるんです」
再び全員の視線が榊原に向く。
「彼女は……高杉さんに罪を着せるつもりはなかった。いいえ、もっと言えば、誰かに罪を着せようとさえ思わなかった。違いますか?」
思わぬ発言に戸惑いが生まれる。芦原だけは小さく頷くと、
「あなたは本当に何もかもご存知のようですね」
とだけ答えた。
「どういうこと?」
凛音が困惑したように榊原に聞く。榊原にとって、これからが本番であった。
「高杉さんが現場で目撃されていること、また、犯行の状況を詳しく供述していることから、高杉さんが犯行の一部始終をどこかで見ていたことは確実です。ですが、ここで疑問がわく。なぜ高杉さんは逃げずに死体の傍に立っていたのか。なぜ高杉さんは芦原さんが犯人であると告発しなかったのか。なぜ高杉さんは自白をしたのか。全てに説明がつく解答は一つです」
榊原は推理をぶつけた。
「高杉さんは罪を着せられたんじゃない。自ら芦原さんの罪をかぶったんです。そうですね、芦原さん」
その言葉に、凛音は思わず口を押さえた。
榊原の推論に対し、芦原は軽く頷くと、淡々と語り始めた。
「殺人の後、いつばれるかと不安で一杯になりました。痴漢の話をしたのも、別に他意はありません。本当にそんな噂を聞いていたので、少しでも捜査の手から逃れられないかと苦し紛れの時間稼ぎだったんです。だから、次の日の新聞で犯人が逮捕されたと知ったときの私の驚き、分かっていただけますね。正直ゾッとしましたよ。自分が犯人であることは自分自身が知っている。だけど、その人も自分が犯人であると認めているんです。私は、その人が何を考えているのか全く分からなくなりました」
芦原は目を閉じた。
「彼はそのまま裁判になり、刑務所に収容されました。赤の他人である私が面会できるはずもなく、面会したところで看守がいる面会室でそんなことを聞けるはずがありません。私は疑心暗鬼のまま高校を卒業し、大学に入り、そのまま教師になりました。私の罪の意識は消えませんが、高杉さんが認めているのに、今さら私が犯人だと言うわけにもいきません。彼の真意が聞けたのは、彼が出所した一年前。私はすぐに彼に会いました。そう、まさにこの場所で」
場にいる数名がざわめいた。
「高杉さんは、私があの時の少女だと知ると、静かに真意を話してくれました。あの時何が起きたのか。それも全て話してくれたのです」
そう前置きして、芦原は、一年前に高杉本人から聞いたあの日の出来事を、相変わらず淡々とした口調で語り始めた……。
早乙女麻里亜が折川常一との電話を切った瞬間、高杉の死への願望は激しい殺意へと変わった。このまま死んだら私は馬鹿ではないか。あの娘を生かしてはおけない。それに、電話の相手……確か裁判でも証人として出ていた折川という男。今の様子ではトラブルがあったらしい。今彼女を殺せば、容疑は折川に行く。自身を冤罪に突き落とした男を、今度は自分が冤罪に突き落とす。高杉は瞬時にそれだけのことを考えた。
早乙女麻里亜はホテルに消えた。高杉はそのホテルの前に身を潜めながら、彼女が出てくるのを待った。
そして、ホテルを出てきた早乙女麻里亜をつけた。彼女が人通りのないあのトンネルに入ったのを見ると、高杉は自殺用に持ってきたナイフを一瞥し、背後から彼女の方へ歩み始めた。
ところが、その瞬間、思いもよらない出来事が発生した。高杉がトンネルに入るまさに直前、早乙女麻里亜と同じ制服を着た少女が小走りにトンネルに入っていったのだ。人のいる前で殺人はできない。高杉はとっさにそう考えてトンネルの入り口からその少女がトンネルを通り過ぎるのを待とうとした。
が、事態はさらに高杉の想像を超えたものへと変貌する。その少女は、小走りのまま自身のターゲットでもある早乙女麻里亜に背後から体当たりしたのである。何がなんだか分からないまま様子を見ていると、ぶつかられた早乙女麻里亜が操り人形の糸が切れたように突然地面に崩れ落ちた。
「あんたなんか……あんたなんか……あんたなんか……」
ぶつかった少女がそのように言っているのがなんとなく聞こえる。早乙女麻里亜はピクリとも動かない。少女はそのまま振り返ると、トンネルの入り口へと向かってきた。高杉は慌てて姿を隠した。そして、トンネルから出てきた少女を見てギョッとした。少女の制服には細かい返り血が付着していた。そして、少女の目には涙が浮かんでいた。
少女がそのままどこかへ消えるのを見届けると、高杉は恐る恐るトンネルの中に入った。早乙女麻里亜は倒れたままの状態である。高杉は彼女に近づいた。
「うっ!」
思わず呻いた。早乙女麻里亜の脇腹には鋭いナイフが突き刺さっており、血が地面に流れ出している。素人目に見ても死んでいるのは明らかだった。
いくら法学部の教授だった高杉とはいえ、実際の殺人シーンは始めてである。しかも、自分が今まさにやろうとしていた殺人を、全く同じ方法で赤の他人がやってしまったのである。高杉はナイフを持ったまま、しばらく呆然としていた。
「ひぃ!」
不意に、トンネルの出口から悲鳴が上がった。振り返ると、大学生くらいの男がこっちを見て血相を変えている。とっさにそっちに行こうとすると、男は逃げてしまった。
高杉は、これ以上この場にいるのは危険と判断し、トンネルを出るとそのまま自宅に戻ることにした。
その途中で、高杉は色々と考えていた。あの場面を目撃された以上、おそらく警察は自分に疑いの目を向ける。ただでさえ痴漢冤罪による動機があるのだ。自分でも疑いを持つだろう。
それと同時に、高杉はあの少女がなぜ殺人を犯したのか考えていた。あの様子では、金銭など世俗的な動機ではないだろう。早乙女の言動を見るに、自分以外にも恨みを買っていた人間は多かったはずである。彼女もおそらくその一人なのだろう。彼女の涙が、高杉の脳裏にはしっかり残っていた。
そして、ふと思った。彼女を告発するのは簡単である。しかし、それでいいのか? 彼女も自分同様、早乙女麻里亜という女に人生を滅茶苦茶にされた人間なのかもしれない。しかし、未来ある少女が早乙女などのために殺人者になってしまうようなことがあっていいのだろうか。
どうせ自分はすでに早乙女によって人生を滅茶苦茶にされた身。失うものはもう何もないし、この歳では少女のように未来もない。だったら、彼女を告発して未来を奪うよりも、失うものが何もない自分が罪をかぶった方がよいのではないか。幸い、自身が殺人者になる要素はすべてそろっている。目撃者もいるし、犯行の状況も自身が目撃者ゆえに全部わかっている。後は自身が自白さえすれば、警察は何のためらいもなく自分を逮捕するに違いない。それに、そうなった方が自身の痴漢の冤罪も晴れる。
高杉の頭に「罪をかぶる」ということが思い浮かんだのはこのときだった。
その二日後、警察は全てを調べ上げ、逮捕状を持って現れた。高杉はその二日間で全てを覚悟していた。罪を認め、自白し、殺人の裁判を受けた。その裁判によって、早乙女や折川の犯した痴漢冤罪の件は白日の元にさらされ、彼女たちは社会的な制裁を受けた。それが高杉の復讐であり、高杉なりのあの名も知らぬ少女に対する救済だったのである。
「高杉さんは、被害者によって人生を狂わせられるのは自分一人で十分だという気持ちだったのでしょう。だから、あえて自白した。自身の行為が芦原さんに対する救いになると考えて」
芦原の話が終わると、その場は沈黙が支配した。
「榊原さん、私はどうなるんでしょうか」
芦原は黙って榊原の方を見た。榊原は芦原をしっかり見据えて答え始めた。
「私がこの裏の事実に気がつきながら、今まで公にできなかった理由。そして、元々この推理を橋本ともう一人……すなわち芦原さんのみにしようと考えていた理由がそこにあります。この状況では、あなたを公に告発したところで全く無駄だからです」
橋本と別所も同様の意見らしく、顔を伏せる。
「この事件の裁判はすでに結審し、犯人とされた高杉さんはすでに出所しています。刑事訴訟法、さらには憲法の大原則に一時不再審の原則と呼ばれるものがあります。ある事件についての判決が確定した場合、同一事件に関する再公訴の提起を許さないというものです。当然、これはこの事件にも適用されます。判決が確定している以上、同一案件の訴訟を提起することはできないんです」
「しかし、冤罪なら話は別でしょう?」
鳩松が聞く。が、榊原は首を振った。
「確かにそうですが、この事件においては冤罪の対象になるはずの高杉さんが終始一貫して罪を認めています。いくら周りが騒いでも、本人が認めている以上、そもそも冤罪として扱われるとは思えません。おまけに、その高杉さんは既に死亡してしまっているんです。今さら冤罪の主張などできるはずがないんですよ」
榊原は続けた。
「そして、最大の理由が、彼女が犯人であるという決定的な証拠がない。確かに、消去法で当てはまるのは彼女だけですし、この場で自白もしていますが、裁判においては物的証拠が必要です。十三年前の、しかも容疑者が自白を容認しているこの案件に、当時の証拠が残っているとは思えません。状況証拠では間違いなく彼女が犯人なのですが、決定的な証拠はないんです。だったら、全く無駄な告発をするより、高杉さんの生存中は彼の意思を尊重すべきだと私は判断したんです」
そう言った後、榊原は芦原を見た。
「もっとも、これらは芦原さん自身よく分かっていることだと思いますが……」
芦原は目を開いた。その目にうっすら涙が浮かんだ。
「ええ。自分が犯人だと訴えたくても、決定的証拠がない。自分が犯人であると証明できないんです。だから、私は榊原さんにお礼をいったんです。よく、私が犯人だと分かって下さいました。正直、この数年は縁もゆかりもない高杉さんに守られて裁かれることがなかった自身の罪の重さに潰されそうになっていました。私のクラスに凛音ちゃんが入ってきたことによってその罪の意識がさらに大きくなっていました。私のしたことで凛音ちゃんは高杉さんを恨み続けるんです。無実なのに人の罪を自らかぶったような人であることを、私は彼女に伝えることもできない。彼女は偽りの殺人者の血縁に罪を感じていましたが、私は彼女が無実の父親を恨み蔑むことに罪を感じていました。だから、せめて私は彼女に高杉さんと会ってほしかった。会ってもらって、高杉さんの前で本当のことを言いたかった。ただ、それだけだったんです」
芦原はそのまま突っ伏すと、嗚咽を漏らした。それは十三年間、誰にも打ち明けられなかった罪をさらけ出して、ホッとしたことによるものだったのかもしれない。
「さて、これで私の推理は終了です。この後どうしましょうか。無駄を承知で本当のことを公にするもよし。または、高杉さんの意思通り、彼女を逃すことにしてもよし。ここにいる皆さんで決めなければなりません。芦原さんはどうしたいんですか」
榊原の発言に、芦原は顔を上げた。
「私には判断できません。長年重石になっていた罪の意識は、今回の件で少しは拭われました。少なくとも、凛音ちゃんに対する誤解を解くことができただけでも私は満足です。このまま裁かれても文句は言えません。でも、私には高杉さんが生涯を賭けて私を守った行為を無駄にすることもできません。ご判断は、皆様にお任せします」
その答えに、真っ先に答えたのは凛音だった。
「私は、父の意思を尊重したいです!」
榊原は思わず凛音のほうを見た。凛音が高杉を「父」と呼ぶのは初めてだった。
「私……先生が悪い人じゃないってことはよく分かっています。先生が、私の誤解を解きたくても解けないことで苦しんでいたことも、担任と生徒という関係だった私には分かります。だから……遺族として私は父の意思を尊重したいんです」
その発言に、全員は考えていたが、
「私は故人の意思を尊重しますよ。それが葬儀社に勤める私のルールですから」
と、鳩松がいう。
「私は難しいことが嫌いなんでね。榊原の方針に任せるよ」
これは丸野である。
「俺に選択権なんかねぇじゃないか。もしばらしたら、俺の罪状が増えるんだからな」
折川がふてくされたように答える。
「警察としては、立件できない事件に興味はない。それに、今さら冤罪だったと公表できないじゃないか」
橋本はこう答える。が、裏では高杉の意思を尊重したいと考えていることは明白だった。別所も無言で同意する。
「私としては先ほどから申し上げているように、高杉さんが死んでいる以上、もはや立件は不可能であると考えます。無駄な告発をするくらいなら、せめて故人の意思を尊重したいです」
榊原が最後に締めた。
「そういうことです。芦原さん。私のこの推理は、この場にいる人間だけで共有することにしましょう。表には出ない、裏の解決です。表の解決は、高杉さんの意思通り、高杉さんが犯人だったということでいいでしょう。裏の解決は存在しない。それでいいですか?」
榊原の発言に、芦原は深々と頭を下げた。凛音が、そんな担任教師の手を、しっかり握りしめていた。
高杉の葬儀は榊原の事前の通達通りの時間から始まった。参列者は少なかったが、凛音が芦原と一緒に高杉の棺桶の前にずっといたことが榊原にとって印象的だった。
「冤罪の握りつぶし……ばれたらただじゃすまないな。まぁ、これでよかったんだとは思っているから、くいはないが」
帰りの車の中で、橋本はこう呟いた。
「私にとっても、この事件は苦い失敗だよ。けっして表に出ることのない失敗だ。表に出なくても、私はこの事件を忘れないだろうな」
榊原が感傷的に言う。
「芦原と凛音はどうなるのかな?」
丸野が尋ねた。
「さぁ、分からない。それは私たちが口に出す問題じゃない。当人たちの問題だ。ただ、せっかく高杉さんが身を挺して守った人生だ。有効に使ってほしいとは思うね」
榊原はそのように答えた。
品川駅前で榊原と丸野は橋本の車を降り、いつものビルに帰った。空はすっかり暗くなっている。榊原はそのまま事務所に戻ると、自分のデスクの引き出しから「極秘」と銘打たれ、ロープで何重にも縛り付けられた書類の束を出した。書類のトップには「渋谷女子高生殺人事件再捜査記録」と書かれている。そして、榊原は棚から「渋谷女子高生殺人事件」のファイルを取り出すと、中身を取り出し、隣の給湯室に行くと、コンロに火をつけ、それらの書類を次々と燃やしていった。
「これでよかったのか……」
榊原は呟いた。榊原自身、それは分かっていない。それが分かるのはもう少し先の話である。
全てが終わると、榊原は燃えカスをゴミ箱に捨て、事務所を後にし、三階の自室に戻った。真っ暗な事務所には、何も読めなくなった燃えカスのみが残されていた。