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罪と殺人  作者: 奥田光治
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前編・1996年

 一九九六年七月七日午後十時ごろ、東京・渋谷。渋谷駅と青山学院大学の中間辺りにあるビル街を一人の女子高生が歩いていた。セーラー服を着たその女子高生は、この当時利用者が急増していた携帯を片手に、誰かと話していた。

「分かってるって、また会えばいいんでしょ。しつこいわよ。はぁ、何言ってんの? あれでも十分譲ったつもりだからね。もういい? 切るわよ」

 その女子高生はけだるそうに携帯を切った。髪はストレートのロングヘア。着ているセーラー服は都内でも有数の名門校のものである。一見した感じはかなりの美人で、真面目そうな印象を受けなくもない。事実、そう思われることが多々あった。しかし、人は外見で判断できるものではなかった。

「ハッ、かったるいわね」

 彼女は顔に似合わない言葉を吐き捨てると、ぶらぶらと渋谷の界隈を歩いていく。スカートはかなり短い、膝上二〇センチくらいはあるだろうか。無論、通っている名門校はこういう点に厳しいため、普段はちゃんとした長さのものをはいているが、渋谷に出るときは遠慮なく短いスカートをはいているのだった。その短いスカートや半袖のセーラー服から、すらりとした手足がしっかり伸びており、周りの男たちの目線を釘付けにしている。顔つきこそ先に述べたような利発そうなものだったが、その体は高校生にしてはすっかり成熟しており、こう見えてすでに何人もの男と関係がある。学校の教師たちはその顔つきと学校での彼女の勤勉な態度に騙され、まさかこんな裏の顔があるとは気がついていない。

「ねぇ、君。一緒に遊ばない?」

 不意に、一人の中年のサラリーマンがにやけた顔で呼びかけた。彼女はしばらく値踏みするような顔をしていたが、

「いいの? 私は高いわよ」

 と甘えた口調で言い寄ると、そのままその男とホテルに入っていった。


 翌日、七月八日午前三時。先ほどの女子高生は欠伸しながら山手線渋谷駅と恵比寿駅を結ぶ線路の下を通るトンネルと通っていた。深夜のため、さすがの東京とはいえ人通りはなく、トンネル内は彼女一人だった。

「楽な商売だったわ」

 彼女はかったるそうに手の中で何枚かの万札を弄びながら呟いた。先ほどのサラリーマンからせしめたものだ。

 援助交際……彼女がそれを始めたのは高校に入学してしばらくした頃だった。それまでは外見同様非常に真面目だった彼女は、名門校に受かり、気晴らしにこの渋谷に遊びに来ていた。そこで一見紳士のような男性に声をかけられて一緒に食事をしたのだが、そのどさくさに酒を飲まされてホテルに連れ込まれてしまったのである。最初こそ非常にショックを受け、口すら聞けなくなっていたが、その男は別れ際に大金をプレゼントすると「これで君も立派な大人だ」と声をかけて去っていった。その言葉に、彼女は異常に反応した。

子供っぽい。それが中学時代に一貫して言われ続けた言葉だった。実際童顔で背は低く、その言葉にコンプレックスを抱いていた。そんな彼女にかけられたこの何気ない言葉が、彼女の中にあった何かのスイッチを入れた。彼女はもらった金で露出の高い衣服と化粧を買い込み、それで着飾った。そして、その格好で渋谷を歩き回った。完全に化けた彼女は、その夜のうちに他に二人の男に声をかけられていた。

 その後もこうした行動は続いた。幸い、知り合いはほとんど別の高校に行き、親も共働きでほとんど家にいなかったので、彼女のこの変化に感づく者はいなかった。年月がたつにつれ、彼女の体は洗練され、肉体的にも成熟していった。顔も童顔から美人の部類に入り、背も随分高くなった。すっかりコンプレックスを克服した彼女は、以前の真面目さを仮面にし、裏ではすっかり傲慢な女に変貌していた。

「私は変わった」

 彼女は微笑みながら告げた。その表情には自信が満ちていた。

 しかし、彼女は気がつかなかった。彼女がコンプレックスを克服するために犯した行動が、自分自身に刃を向けようとしていることに。

 口笛を吹きながらトンネルの出口付近に近づいたときだった。不意に後ろから足音が聞こえた。小走りのその足音を、彼女は急いでいる人と思って、とっさに脇に避けた。足音の主が彼女のすぐ後方に来る。

 瞬間、彼女の脇腹を鋭い痛みが貫いた。

「え……」

 彼女は何が起きたのか分からずに自身の脇腹を見た。セーラー服が褐色に染まっている。トンネルのランプで変色しているが、明らかに自分の血だ。その脇腹に、後方から鋭いナイフが差し込まれていた。

 その瞬間、彼女の意識は急速に失われていった。彼女はとっさに後ろを見た。そして、その人物の顔を見た。

「なんで……あんたが……」

 その言葉を最後に、彼女は何がなんだか分からなくなった。


『警視庁から各局、警視庁から各局。渋谷区山手線高架下のXトンネルにおいて、女子高生と思われる他殺体発見の通報あり。捜査員は至急現場に急行されたし』

 同日午前八時。警視庁の通信センターから連絡が入り、渋谷駅と恵比寿駅の途中にある高架下のトンネル内は鑑識と刑事たちで一杯になった。そのトンネルの出口付近で、セーラー服を着た女子高生が倒れていた。

「生徒手帳を持っています」

 死体を調べていた鑑識が初動捜査班の刑事に報告する。刑事は黙ってその手帳を開けた。

「早乙女麻里亜、光蘭女学院高等部二年、本籍地は中野区、か」

「光蘭といえば、都内一のお嬢様学校ですね」

 近づいてきた若手の刑事が言う。

「ああ、女子高校としては都内一の偏差値だ。校則も厳しいと聞いている。そんな学校の子が、何でこんな場所で、よりによってミニスカート姿で刺し殺されているんだ?」

 死因は明らかだった。脇腹を刺し貫いているナイフがそのままになっている。

 と、現場が騒がしくなった。

「本庁の刑事さんたちが到着だ」

 トンネルの向こうから、二人の刑事が顔を見せた。

「警視庁捜査一課沖田班警部補・榊原恵一と申します」

「同じく、警部補の橋本隆一です」

 二人の警部補は軽く頭を下げた。

「沖田班の方がお見えとは……」

 沖田班、それは警視庁捜査一課に作られた特別捜査班で、捜査能力が著しく高い捜査員五名によって構成される沖田京三警視を班長とする特殊な班だった。数年前に増加する未解決犯罪に対抗するべく上層部の手によって設立され、彼らが関係した事件で現在まで未解決のものはわずかに二件。それも、諸事情によってやむなく捜査本部からはずされたケースであり、彼らが最後まで関係した事件の解決率はほぼ完璧に解決されていた。ノンキャリアながら三十歳までに警部補に昇進した沖田班所属のこの二人の名も、警察関係者の間では割と有名であった。

「何かあったんですか? 沖田班が動くとなると……」

「いいえ、単純に他に動ける班がなかったので急遽我々が」

 榊原が答える。常に黒っぽいグレーのスーツを着込んでいるため、「喪服刑事」の異名を持っている。品川署管轄の交番から急遽抜擢された人物で、温厚でどこかのんびりした普段の物腰とは対照的に、その推理力の高さは沖田班随一のものとされていた。

 相棒を組む橋本隆一は元々江戸川署の資料編纂室にいた男で、こちらも上層部による急遽抜擢を受け、沖田班に入っていた。榊原と相棒を組んですでに数年になるが、推理力の高さを誇る榊原のサポート役として、また自身も行動力の高さが売りの刑事として、上層部からも期待されていた。なお、両名とも同じ年齢で、今年三十歳になる。

「被害者は光蘭女学院高等部の学生です。死因は腹部の出血による肝臓破損及びショック死。致命傷となった脇腹の傷以外に外傷はないため、背後からいきなり刺されたものと思われます」

「刺し傷は一回だけですか?」

「ええ、一撃で死に至らしめていますね。これが生徒手帳です」

 初動捜査班の刑事が渡した手帳を榊原は受け取ってしばらく見ていたが、やがてそれを自身の手帳に書き写すと、被害者の手帳をビニールに入れて鑑識に渡した。

「あと、彼女の右手からこれが」

 鑑識がビニールに入れたものを渡す。数枚の万札がしわくちゃになって入っている。

「不釣合いな札に、規則の厳しい名門校の生徒にもかかわらずのミニスカート。どうも、援助交際の臭いがあるな」

 榊原はポツリと呟いた。

「とにかく、学校に連絡してみるか」

 橋本が携帯を取り出し、生徒手帳に書かれた番号を押した。しばらくして相手が出たらしく、橋本は被害者の特徴や氏名を述べていたが、やがてため息をついて被害者の方を見た。

「まいったな。この子、なんと光蘭女学院高等部の生徒会長だそうだ」

「生徒会長?」

 榊原は思わず聞き返した。橋本がぼやく。

「名門校の生徒会長が援助交際か。マスコミが嗅ぎつけたら騒ぎになるぞ」


 その二時間後、渋谷署の会議室前に『渋谷女子高生殺人事件』の札が貼られ、正式に捜査本部が設置された。本部長は渋谷署署長で、榊原と橋本も本庁代表として参加している。刑事たちが捜査結果を発言していく。

「その後の聞き込みで分かったことですが、被害者の早乙女麻里亜は高校に入学して少しした頃から渋谷を中心に援助交際を行っていたようで、渋谷の歓楽街ではかなりの有名人だったそうです」

「学校での評判は?」

「それがすこぶるいいんです。成績は優秀。部活は女子バスケットボール部に所属して現在キャプテン。六月には生徒会長に選出されています」

「バスケ部か。確かに背が高かったからな」

「女子高生としては高くて一七五センチありました。ただ、入学当初はそれほどでもなかったようで、背が高くなったのは入学して数ヶ月してからです。その辺りからバスケの才能を開花させ、夏の大会では早くもレギュラー入りしていますね」

「彼女のバスケ経験は?」

「中学まではありませんね。中学時代は美術部です」

「中学時代と高校入学以降の裏の性格が完全に別人だな」

 本部長が感想を漏らした。

「で、容疑者は?」

「被害者の携帯電話を調べたところ、事件前日の午後十時ごろ、被害者と電話していた人物を確認できました。どうも援助交際の常連相手ですね。調べた結果、折川常一というパチンコ店員であることが分かりました。その他、事件直前まで被害者が援助交際をしていた相手がいます。渋谷駅と青山学院大学の中間にあるカンザスホテルというビジネスホテルで彼女が目撃されていて、その際、相手がいました。チェックイン記録はありましたが、調べた結果住所はでたらめで、氏名欄も『山田一郎』になっていました。フロント係が顔を覚えていましたので、似顔絵作成中です。聞いていた感じでは、どうも中年のくたびれたサラリーマンのようです。チェックアウトは午前七時ごろ。被害者がホテルを出た時刻は分かりませんが、現在防犯カメラをチェック中です」

「目下のところこの二人ですが、何しろ、援助交際の相手が半端ではないようなので、全て洗うのには時間がかかるかと」

 本部長は唸った。

「長期戦になるな」

「マスコミ対策も重要です。なにしろ名門校の生徒会長が援助交際ですからね」

「それに関しての対策はわしがやろう。他に何か意見や質問はないかね?」

 そこで、榊原が手を上げた。

「被害者がかなりの数の援助交際をしていたとなると、当然、妊娠の問題が出てきますが、その点はどうでしょうか?」

 刑事の一人が立ち上がった。

「解剖の結果、少なくとも二回の堕胎歴が確認でき、同時に死亡時点で三回目の妊娠をしています」

 捜査本部がどよめいた。

「被害者の家族は?」

「両親共に共働きで、ほとんど子どものことを気にしていないタイプです。死亡確認を頼んだ際も冷めたものでしたよ」

「ですが堕胎しているということは、当然医療関係者が関係しなければなりません。両親は知っていたんですか?」

 刑事は戸惑っていたが、

「両親は堕胎に関して一切関知していなかったようです」

「となると、医療関係者の知り合いがいた可能性が高いですね」

 榊原の指摘に、ざわめきが広がる。

「さすがは沖田班のブレーンだな」

 刑事の一人が呟く。

「よろしい、そのあたりも含めて捜査してみよう」

 本部長が告げた。

「援助交際相手の割り出し、判明している折川への事情聴取、それに当日彼女と寝たと考えられるサラリーマン風の男の特定。その辺を重点的に洗うぞ」

 本部長が宣言し、刑事たちが次々立ち上がっていく。

「君たちはどうするね?」

 本部長が榊原と橋本に聞いた。榊原が答える。

「我々はさっき発言した医療関係者について調べてみたいと思います。堕胎関連で何か知っているかもしれません」

「わかった」

 二人も捜査本部を飛び出して行った。


 榊原と橋本がまず調べたのは、都内にある正式な病院に勤務する医師である。と言っても、二人ともその線は非常に薄いと考えていた。なぜなら病院で堕胎手術をした場合、隠し通すことなどほぼ不可能であるからだ。そこで捜査線上に浮かぶのは、個人の開業医やモグリの医者である。こういう人間は大病院崩れが多いため、それを知っていそうな医師に話を聞くことにしたのである。

 榊原と橋本がまず向かったのは、築地にある国際病院だった。一年前に発生した某宗教団体による地下鉄への毒ガステロの際に何百人もの患者を収容して治療に当たったことで有名になった病院で、時々ドキュメンタリー番組でも紹介されている。

 対応したのはこの辺りの医者事情に詳しいというベテランの外科医だった。二人はさっそく事件の詳細を伝え、該当する開業医やモグリの医者がいないかを聞いた。

「そうですねぇ、開業医やモグリの医者というだけでは漠然としすぎていて私としてもどうしようもありませんね」

 そこで、二人はターゲットを絞ることにした。まず、場所は東京、それも彼女の行動範囲から考えて東京二十三区内と限定した。続いて、条件としてまっとうな医者ではないと考えた。開業医でも、しっかりとした経営がなされている医院なら自然と話が伝わるものである。したがって、ほとんど客のいない個人開業医が狙い目である。最後に、金銭問題がある。援助交際していたとはいえ、一高校生に払える金額などたかが知れている。この時点で、法外な金銭を要求するモグリ医者は候補から外れる。さらに、二回も避妊手術をしているとなると、よほどの顔なじみであろう。したがって、彼女の活動拠点である渋谷へ出入りしていそうな人物である。

「うーん、私が知っているのは三人くらいかな」

 医者は三つの医院を書き記した。全員正式な開業医でモグリではない。場所は三人とも違って、それぞれ中野区、豊島区、品川区である。

 二人は礼を言ってとりあえず病院を出た。

「どこから調べる?」

 橋本が車の運転席に座りながら聞いた。榊原は助手席でなにやら考えていたが、

「まずは品川区から調べてみよう」

 と告げた。

「どうしてだ? 中野区は被害者の自宅のある区だし、豊島区は彼女の通う光蘭女学院が立地する池袋がある。可能性としてはこちらの方が高いと思うがな」

 榊原は首を振った。

「私は逆だと思う。考えてみろ。人に知られたくない手術を自宅や学校の近くでやろうと思うか? 私ならむしろ遠くへ行くね」

「だから一番遠い品川区の医者か」

「ああ」

「わかった、行ってみよう」

 橋本は車をスタートさせた。

「場所、わかるか?」

「この場所だと裏町だな。途中で車を降りなきゃならなさそうだ」

「問題の医者は?」

「ええっと……」

 榊原はメモに書かれた名前を読み上げた。

「丸野正三。元東城大学付属病院外科医。現在は品川区で個人経営の医院を開業中……か」

「東城大学か……榊原、お前の母校だな」

 榊原は黙ったままだ。

「とにかく、話を聞くのが先だな」

 車は品川区へと向かっていた。


 二人は品川駅近くのパーキングに車を止め、その場所に向かった。途中でビル街の路地を折れ、そのまま裏町へと入っていく。

「本当にこんなところに医院があるのかねぇ」

 橋本が疑わしそうに見回す。裏町だけあって、誰も住んでいないような年期の入った建物ばかりだ。路上のあちこちに不良やヤクザめいた人間が目立つ。

「おい、何の用だい?」

 と、若い茶髪の若者がけだるそうに二人の方へ近づいてきた。

「ここはサラリーマンが来る場所じゃねぇんだ。金を出して、さっさと消えな」

「用があるんでね」

「あんたら誰だ?」

 榊原は警察手帳を出した。

「警察だ」

 とたんに相手は青ざめた。

「け、警察が何でこんなところに……」

「お前らに用はない。丸野正三という医師を知っているか?」

 若者は目を白黒させながら、

「ああ、丸野のおっさん何かしたのか?」

「いや、話を聞きたいだけだ」

「あっちにある三階建てのぼろいビルの一階で開業しているよ」

 榊原と橋本は頷き合うとそちらへ向かった。

 問題のビルは相当年期の入ったもので、二階の窓ガラスには「沼岡探偵事務所」と書かれてはいるものの、人のいる気配は全くない。そして、一階の入り口のドアには「丸野医院」としっかり書いてあった。

「ここだな」

 二人はためらうことなくドアを開けた。

 部屋の中は薄暗くはあったものの、とりあえず人は十分生活できる空間であった。ちゃんとカウンターや待合室もあり、奥には一通りの医療道具もそろっている。とはいえ、カウンターに誰もいないのが気にはなった。

「ごめんください」

 橋本が呼びかけると、奥で何か動く音がして榊原たちと同年代程度の白衣の男が出てきた。

「いらっしゃい……。見たところ病人じゃなさそうだね」

 榊原が再び手帳を示す。丸野は肩をすくめた。

「刑事さんですか」

「警視庁捜査一課の者だ」

「刑事さんがこんな医院に何のようですか? ちゃんと医師免許を取って開業しているんです。文句はないはずですよね」

「そっちじゃない。別の一件だ」

 橋本が被害者の写真を見せる。

「この子がここに来たことはあるか?」

 否定するかと思ったのだが、丸野はちらりと見ただけで、

「あれ、麻里亜ちゃんじゃないか。何かやったんですか?」

 と聞き返してきた。二人は思わず顔を見合わせた。どうやらドンピシャだったらしい。

「知らないんですか?」

「私は新聞なんかとっていないのでね」

 丸野はそう言った。榊原は、

「殺されました。今朝のことです」

 と、事務的に告げた。その瞬間、丸野の表情が厳しくなった。

「殺された?」

「渋谷で刺殺体が見つかったんです」

「……そうですか。彼女死んだんですか」

 丸野は覚悟を決めたらしく、どうぞと二人を上げた。

 応接間に案内され、お茶が出される。

「まず、あなたと被害者の関係は? 堕胎手術をしたんじゃないかということは分かっていますが」

「ああ、しましたよ」

 丸野はあっさり認めた。

「断っておきますが、ちゃんと規定の料金はもらっています」

「いくらですか?」

「言わないといけないんですか?」

 丸野はそう言って料金表を出した。それによると、この医院において堕胎は医師法に定められた最低限の料金で行えるようである。

「援助交際していていたら払えない額じゃないな」

 橋本はそう結論付けた。

「彼女とどこで出会いましたか?」

「渋谷です。確か一年ほど前でしたかね。時々渋谷へ医者仲間と飲みに行くんですが、その時に仲間の一人から紹介されました。そのときは別に話もしなかったんですが、その後その友人から堕胎手術をしてくれるように頼まれたんです」

「なぜその友人が行わなかったんですか?」

「どうも、子供を作ったのはそいつらしいんですよ。自分が手術すると問題が起こるかもしれないし、何より自分にはできないからということで、口の堅そうな私に回ってきたんです。まぁ、こんなところに住んでいるので話し相手がほとんどいないから、口が堅いといえば堅いですけどね」

「その友人は?」

「手術が終わった後、慌ててドイツに研修に行きましたよ。どう見ても逃亡ですね。そいつ、実は他に恋人がいたのに麻里亜ちゃんに夢中になったらしくてね。合わせる顔がなくなったのか、その後帰っていませんよ」

 丸野はスラスラ答える。どうも嘘はなさそうだ。

「二回目は?」

「ああ、それも知っているんですか。二回目は彼女が自分からやってきました。急だけど手術できないかってことで、私としては料金をもらえればよかったから、黙ってやりましたよ。その時、結構話をしましてね。彼女の相手らしい人物のことも聞けたんですよ」

「誰ですか?」

「確か、どこかのパチンコ店に勤めている男……だったと思いますよ」

 どうやら、二度目の妊娠は折川常一によるものらしい。

「彼女とは?」

「実は一昨日電話がありましてね。近いうちにもう一度手術してくれないかというものでした。さすがに三回目ですから、私は勧められないといったんですけど、彼女の意志も固そうで。一応考えておくとは言っておいたんですけどね。まさか殺されるとは……」

「相手が誰だかわかりますか?」

「さあ、今回はそこまでは……」

「今日の午前三時ごろのアリバイは?」

「二時ごろにお得意さんが倒れたという電話がきたから、慌てて飛んでいきました。そこから一晩中付きっきりで、さっき帰ったところなんですよ」

「そのお得意さんの住所を教えてください」

 丸野はスラスラと書いた。どうも、このアリバイは真実らしい。

 と、榊原の電話が鳴った。部屋の隅に行って出ると、捜査本部長だった。

「折川常一の身柄を拘束した。任意で事情聴取に応じているが手ごわくてね。すぐに帰って来られるか?」

「わかりました。すぐに戻ります」

 電話を切ると、橋本に用件を伝える。

「どうやら、この人から聞けそうな話もこれくらいだし、引き時だろう」

 榊原が告げ、二人は医院を出ることにした。

「何か困ったことがあったらどうぞおいでください。私にできることならやらせていただきます」

 玄関に見送りに来た丸野が告げ、二人は苦笑しながら医院を出て行った。


 渋谷署の取調室で、必死の形相でなにやらわめき散らしているのが、携帯電話における彼女の最後の通話の相手であり、彼女に二度目の妊娠に関与した疑いの濃厚なパチンコ店員・折川常一だった。年齢は二十代前半だろうか。なんとなく軽薄そうな顔をしているが、今はその顔から汗が噴き出し続けている。

「さっきからこの調子でどうにもならん」

 隣の部屋から様子を見ながら、渋谷署の捜査主任を勤める別所文成警部がぼやく。別所警部の年齢は榊原たちより一回り上の四十代前半。ベテランの域であるが、そんな彼でもこの折川に対する尋問はてこずっているようだった。

「犯行に関しては?」

「完全否認だ。ただし、電話したことに関しては認めた。だが、内容を吐こうとしない」

 榊原はしばらく考えたが、

「私が尋問してみましょう」

 と言うと、橋本と一緒にそのまま取調室に入っていった。それを見て、尋問していた刑事が軽く礼をして部屋から出て行く。部屋には折川の他に、榊原と橋本、それに書記官だけが残った。

「警視庁捜査一課の榊原です。いくつか聞きたいことがあるのですが」

 警視庁と聞いて、折川の顔が引きつる。

「け、警視庁の刑事さんがどうして……」

「今回の事件は売春にかかわりがあるかもしれないということで、警視庁としても関心があるのですよ」

 榊原はそう言ってから、尋問に入った。

「では確認ですが、あなたは昨日被害者の早乙女麻里亜さんに電話をしましたか?」

「ああ、それについてはさっきから認めている。通話記録があるんじゃごまかしても意味がないからな」

「何時ごろですか?」

「通話記録を見れば分かるだろう?」

「確認の意味を込めてです」

「……午後十時ごろだよ。時間を確認したから間違いない」

 榊原はその時刻と記録が一致しているのを確認した。

「では、その通話内容は?」

「言わなきゃならないのかい? これって、プライバシーの侵害って言うんじゃないのかい?」

「どうしても言わないと?」

「まだ逮捕もされていないのに言う義理はないね」

 確かに、任意同行の段階で証言の強要などできない。まして、事件に関係あるからといって通話内容を言う必要もないし、極端な話、途中で帰っても刑事訴訟法一九九条一項の規定によって文句は言えないのである。

「では質問を変えましょう。あなたと被害者の関係は?」

「……」

「黙秘ですか。いいでしょう。では、あなたと被害者はいつごろ出会ったのですか?」

「……一年ほど前だ」

「正確に」

「一年前の八月だよ」

「……ズバリ聞きますが、あなたと被害者は援助交際の関係にあったのでは?」

 その瞬間、折川の顔色が変わった。

「……だったらどうなんだよ」

「援助交際はいわゆる買春行為に当たります。現在これに関する法律はありませんが、あなたが社会的地位を失うには十分すぎる事実ですね。だからあなたはこのことを認めようとしなかったのではないのですか?」

 折川は唇をかみ締める。(作者注:これはこの事件が起きた一九九六年当時の話。三年後の一九九九年に『児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律』、通称児童買春防止法が制定され、同法律の四条の規定によって十八歳以下の少女に対する買春行為は五年以下の懲役、または三百万円以下の罰金に問われることとなった)

 その反応を見て、榊原は一気に畳み掛けた。

「ですが、この際そんなことはどうでもいいのです。私が知りたいのは、今回の事件に関することだけです」

 折川は黙ったままだ。

「もう一度お尋ねいたします。事件当日、あなたと被害者は何を話していたんですか?」

「……」

 全く何も話さない。どうやら黙秘を決め込んだようだ。

「分かりました。では必要最低限のことだけお尋ねいたします。解剖結果では、早乙女麻里亜が殺害されたのは七月八日、すなわち本日の午前三時ごろです。その時間、あなたは何をしていましたか?」

「アリバイか。そんな時間にあるわけないだろう。家で寝ていたよ」

「ご自宅は?」

「杉並区だ」

 渋谷区の隣である。行けない距離ではない。

「では、仮にあなたが犯人ではないとして、心当たりは?」

「知るかよ! 俺は嵌められたんだ! 俺は無実だ! 冤罪なんだ!」

 突然折川は暴れ始めた。橋本が止めにかかる。

「落ち着けよ!」

「うるせぇ!」

 折川は机を蹴り飛ばし、橋本に殴りかかった。不意をつかれた橋本はそれをもろに受け、床にひっくり返る。その折川を書記官と榊原が必死で床に押さえつけた。

「こんなつもりはなかったんだが……折川常一、公務執行妨害で現行犯逮捕する」

 榊原は折川に手錠をかけた。

「畜生! 離せよ!」

 折川は叫び続け、その時点で取り調べは中断した。


 折川をとりあえず拘束すると、二人は後を渋谷署の刑事に任せ、捜査本部に戻った。

「ああ、どうだった?」

 本部長が聞き、二人は顛末を答えた。本部長は頷いていたが、

「だが、長い間は拘束できないぞ」

「ええ、せいぜい一日か二日ですね。その間に何か話してくれればいいんですが」

「しかも、最近は別件逮捕に対する風当たりが強いから、公務執行妨害の件中心の取調べになる。殺人の件はあまり聞けないぞ」

「どうしても必要な事実だけに絞る必要がありますね」

 そこで、本部長が咳払いをした。

「それはそうと、事件当日に被害者と寝た男が判明したぞ」

「本当ですか?」

「ああ、ホテルの防犯カメラの映像から似顔絵を作って渋谷で聞き込んだらヒットした。竹澤静雄。何と渋谷区役所の会計課課長だ」

「公務員でしたか」

 榊原の顔が厳しくなる。

「公務員が買春とはね。また騒ぎになりそうだ」

 本部長は首を振った。と、別所警部が本部に入ってきた。

「折川はとりあえず留置所に入れておきました。あと、問題の竹澤課長にも任意同行で来ていただいています」

 別所が本部長に報告する。

「榊原君、橋本君、何か聞くことはあるかね?」

 榊原はしばらく考えた後、

「被害者がホテルを出た時間は?」

「防犯カメラをチェックしたところ、午前二時四十三分だった。事件現場まではホテルから約十五分だ」

「時間的には合いますね」

「では、竹澤がチェックインしたのは?」

「前日の午後十時二十五分です」

 榊原はピンと来た。

「被害者が折川と電話していた時間とそう変わりませんね」

「ええ」

 榊原が考え込んでしまったのを見て、橋本が本部長に発言した。

「本部長、一度その竹澤という男を取り調べてみたいのですが」

「別所君、いいかね?」

 別所は頷いた。

「構いません。実は、私からもお願いしようと思っていたんです。相手が区役所の人間となると、我々では荷が重くて」

 別所は苦々しい表情で告げた。


 先ほどとは別の取調室に中年のスーツ姿の男が入っていた。渋谷区役所の竹澤静雄である。榊原と橋本が部屋に入り、榊原が正面に座った。

「警視庁捜査一課の榊原といいます。いくつかお聞きしたいことがありますので、こうしてご足労いただきました」

 竹澤は落ち着かない様子を見せながら、

「何の御用ですか?」

 と無理に笑顔を取り繕いながら聞いた。榊原は、このようなタイプは初っ端から畳み掛けるのが得策だと判断した。

「単刀直入にお聞きしましょう。この人をご存知ですか?」

 榊原は被害者の写真を机の上に置いた。それを見た瞬間、竹澤の顔色が変わったのが誰の目にも見て取れた。

「し、知らん! こんな小娘……」

「知らないでは通りませんよ」

 榊原はあえて高飛車に攻めることにした。

「名前は早乙女麻里亜。昨日、あなたが一緒にいた女性です! いや、より正確には援助交際の相手と言ったほうがいいかもしれませんがね!」

「わ、私は……」

 反論しようとする竹澤に対し、榊原はその隙を与えようとはしなかった。

「否定しても無駄ですよ。証拠は挙がっているんです。カンザスホテルの防犯カメラにはあなたの顔が映っていました。その被害者と一緒にいる場面がしっかりとね」

「そ、それは……」

「ホテル側の証言もあります。何なら、チェックインの筆跡を鑑定してもいいんですよ!」

 榊原の強気の姿勢に、竹澤はブルブルと全身を震わせていたが、やがてガクリと肩を落とした。

「ほんの……ほんの出来心だったんだ……まさかこんなことでばれるなんて思わなかった……」

「認めるんですね?」

「これだけ証拠があったら否定できないじゃないですか……」

 竹澤が憔悴しきった表情で告げる。

「ではお聞きいたします。あなたと彼女は以前からの知り合いですか?」

「いや、あのときが初めてですよ。かわいかったから声をかけたんです」

 公務員とは思えない発言に、橋本が顔をしかめる。

「時間は分かりますか?」

「午後十時は過ぎていましたよ。でも正確な時間は……」

「あのホテルを選んだ理由は?」

「別に……ただ、行ったことがないから顔を覚えられにくいかと思いまして……」

「彼女が帰ったのは?」

「午前二時半過ぎくらいに別れました。私はそのまま朝までホテルにいましたが」

「あなた、まさか他にも同じようなことをしているんじゃないでしょうね」

 竹澤はぎくりとした。

「なぜ……」

「なぜって、あまりにも手馴れすぎていますよ。初対面の女の子にこれだけ手際よくできるなんて、常習者としか考えられないじゃないですか」

 竹澤は唇をかみ締めていたが、

「だって……職場でも家でも馬鹿にされて……ストレスがたまっていたんです」

 榊原はあまりに情けない発言に、思わず首を振った。

「まぁ、あなたの行為に関しては後ほどゆっくり聞くとして、彼女に関して変わったことはありませんでしたか?」

「さあ……なにぶん初めての相手でしたから」

「では、出会ったときですが、彼女は携帯電話をかけていませんでしたか?」

 竹澤は少し考えたが、

「そういえばかけていましたね」

「どんな会話をしていたか分かりますか?」

「私が聞いたのは最後だけですが……『分かってるって、また会えばいいんでしょ。しつこいわよ。はぁ、何言ってんの? あれでも十分譲ったつもりだからね。もういい? 切るわよ』。確かこんな感じだったと思います」

「やけにしっかり覚えていますね。大方、その時点から狙っていたんじゃないんですか?」

 橋本が皮肉めいた口調で聞いた。竹澤はうつむいたまま、何も答えようとしなかった。


「どう思う?」

「どうって……」

 取調べを別所警部に引継ぎ、榊原と橋本は廊下を歩いていた。

「分かった発言だけを見ると、どうも被害者が折川に対して何かを要求していたと考えられる。で、おそらくは……」

「金だな。『あれでも十分譲った』という表現があるからには」

「おそらく、いくら渡すかでもめていたんだろう。それで、折川にいくらか譲歩した」

「何の金だろう?」

 橋本が当然の疑問をする。

「真っ先に考えられるのは妊娠だな。さすがに三回目ともなれば、手術代も苦しかったと思うし、丸野医師の話では、どうやらやつが被害者に妊娠させたのは今回が二度目らしいからな」

「折川に聞いてみるか?」

「いや、この程度で吐くとは思えない。質問の回数が制限されている以上、もう少し固める必要がある」

 榊原はあくまで慎重だった。

「やっぱり、現状でのお前の標的は折川か?」

「限りなく怪しいことは間違いない。ただ、現時点での話だ。今のところ、他に容疑者らしい人物もいない」

「竹澤は?」

「私は、やつはシロだと踏んでいる。やつにとって一番避けたいのはスキャンダルだ。援助交際した後にその相手を殺したら、ほぼ間違いなく警察は援助交際相手である竹澤に行きつく。そうなったら、何のための殺人か分かったものじゃない。どちらにしろ、身の破滅なんだからな」

「なるほど、それは一理ある」

 橋本は唸ると、言葉を続けた。

「こうなると、被害者のことがよくわからなくなってくるな」

「確かに」

 榊原はしばらく考えたが、

「行ってみるか」

「ん? どこへだ?」

「彼女の学校だよ。今さらながら、どうも我々は被害者のことについてあまりよく分かっていないようだ」

「学校では優等生の生徒会長。裏では援助交際の常連。確かに、分かっているのはその程度だな。両親は全く関心がなさそうだったし」

「となると、情報を得るのに一番いいのは、学校だと思う。特に同級生の証言だ」

「なるほどな。同級生なら教師の知らない裏の顔を知っている可能性もある。案外、高校生の世界というのは大人には立ち入れない部分というのがあるからな」

「それだけに、何か我々の知らない情報を知っている可能性は高い」

「だが、相手は名門女子校だ。現に所轄の事情聴取でも事なかれ主義で、これ以上のスキャンダルを恐れてたいしたことは何も話さなかったそうだ。おそらく、生徒にも緘口令が敷かれているはずだ」

「確かに、簡単にはいかないだろうな」

 榊原は厳しい顔をした。


 光蘭女学院は豊島区の池袋駅近くにあるお嬢様学校で、その学校の制服は都内の女子たちにとって憧れの的となっていた。母体は光蘭女子大学で、小中高一貫教育を基本とし、中等部・高等部進学時に他校からの編入制度はあるが、小等部から在籍している生徒は高等部まではエスカレータ式で進学できる。大学部へは試験がいるが、学内生は特待制度が設けられているため、ほとんど苦労せずに進学できるという。

 榊原と橋本は、この学校へとやって来た。

「さて、どうやって聞き出すかな」

 橋本が校舎の方を見ながら呟いた。

「正面から攻めたところでたいした話は聞けまい」

「だろうな。とはいえ、下校中の生徒に片っ端から聞いていくというのも良い策とは思えない。お嬢様学校だけあって、そういうトラブルを嫌う生徒は多いだろうし、何より、こんな怖い顔つきの男二人に話しかけられて、まともに相手してくれるとも思えない」

「因果な商売だよ、まったく」

 橋本はぼやいた。

「駄目を承知でとりあえず学校に話を通してみよう」

「大丈夫か?」

「私の予想では、とりあえず生徒に会わせてはくれるとは思う。なんといっても相手は警察で、被害者の身辺捜査のために彼女の友人に話を聞くのはいたって当然だからだ。ここで拒否したら逆に怪しまれかねない」

「もし拒否したら?」

 橋本の問いに、榊原は不敵に笑った。

「そのときは、この学校に何か後ろめたいことがあるか、あるいは彼女に対して何か隠していることの証明になる」

 そう言いつつ、榊原は校門横の守衛所に近づき、身分を明かした上で用件を伝えた。初老の守衛はしばらく電話で話していたが、やがて電話を切った。

「校長がお会いになるそうです。応接室へどうぞ」

 榊原と橋本は礼を言うと、守衛に教えられた応接室へと向かった。途中で何人もの生徒とすれ違ったが、校内では珍しい男性に興味津々の様子である。ただ、二人の鋭い目つきや事件のことが伝わっていることもあってか、この男たちが刑事であることはなんとなく推測で分かっているようであり、それとなく距離をとっているのが分かる。

 二人は校舎に入ると、受付に用件を告げた。受付は守衛所から連絡が来ていたようで、そのまま二人を応接室に案内する。応接室でしばらく待つと、校長と思しき老人がにこやかな顔で現れた。

「これはこれは、わざわざご苦労様です」

 校長は馬鹿丁寧に頭を下げると、二人に名刺を渡した。

「ええと、生徒に話を聞きたいとのことですな」

「ええ。被害者の日常について詳しく聞きたいのです」

「まったく、生徒会長が援助交際などとは、前代未聞の出来事です」

 校長は頭を振った。

「あの子の普段の様子を聞きたいとのことでしたな。それなら生徒会の生徒たちに話を聞くのが一番でしょう」

「お会いできますか?」

「もちろん。ただし、私も同席させていただきますが」

 校長はにこやかな顔で告げた。榊原はしばし考えていたが、

「いいでしょう」

 と言った。校長は一瞬ほっとしたような顔をしたが、すぐにもとのにこやかな顔に戻り、

「ではこちらへ」

 と立ち上がった。

「この様子じゃ、すでにその生徒会メンバーへの緘口令はできているみたいだな」

 生徒会室への道中、橋本が榊原に小声で言った。

「間違いないな。生徒会を指名したのも、学校側の管理が行き届きやすいからだろう」

「となると、学校側に都合のいい証言しか期待できないか」

「少なくとも、このままではそうなる可能性が高い」

「このままでは……か」

 橋本は意味ありげな顔で榊原を見た。

「まぁ、やれるだけはやってみるさ」

 榊原がそう言ったとき、生徒会室に着いた。

「どうぞ」

 校長が言い、二人は部屋に入った。中では三人ほどが忙しそうにしていたが、二人の姿を見て手を止めた。

「失礼します。警視庁捜査一課の榊原です」

「同じく、橋本です。いくつか聞きたいことがあるのですが、よろしいですか?」

 生徒会室にいた三人は顔を見合わせたが、

「分かりました」

 と言って、席を勧めた。二人は来客用のパイプ椅子に腰掛け、反対側に生徒会の三人が座る。校長はドアの横に立ったままだ。

「では、これから形式的な質問をいたします。被害者、すなわち早乙女麻里亜さんについて、いくつかお聞きしたいのです」

「どのようなことでしょうか?」

 中央に座る女生徒が聞いた。

「失礼ですが、お名前を」

「生徒副会長の芦原麗奈です。この二人はそれぞれ会計と書記です」

 その女生徒は淡々と答えた。どうやらこの芦原という生徒副会長が中心となって答えるらしい。

「分かりました。ではお聞きしますが、早乙女さんの生徒会での様子はどのようなものでしたか?」

「生徒会長としては有能な方でした。生徒に人気もあって、仕事も非常に良くしていたと思います」

 芦原はよどみなく答えた。しかし、いささか返答が早すぎるのを榊原は見て取っていた。隣の橋本が目配せする。あらかじめ想定されていた質問なのだろう。そっと校長の方を見ると、満足そうな顔をしている。が、榊原は気づかぬように芦原の方を見ると、あえて彼女や校長が想定していたであろう質問を続けた。

「早乙女さんに対して、あなた方はどのように思っていましたか? 生徒会として方針上の不満等はありましたか?」

「いえ、少なくとも生徒会としては文句のない方でした」

「誰かに恨まれていた様子は?」

「我々の見ている限りはありません」

「あなた方の見ている限りで結構です。彼女はどのような性格でしたか?」

「真面目で、人当たりのいい方でした」

「では今回の事件を受けてどう思われますか?」

「全く驚くべきことだと思います。本当だとしたら、軽蔑すべきことです」

「事件当日の彼女の行動については?」

「さぁ? よく知りません」

 全ての質問がよどみなく返答されてきた。見てみると、校長はほっとしたような表情をしており、生徒会のメンバーも想定されていた質問ばかりで安心しているようだ。それを見て取ると、榊原は少し揺さぶりをかけることにした。

「ところで、生徒会の仕事というのはどのようなものですか?」

「は?」

 いきなり事件と全く関係ない質問を聞かれて、芦原が思わず聞き返した。が、すぐに返答する。

「この学園の生徒たちがより良い学園生活を送れるように尽力して……」

「具体的には?」

 榊原は最後まで言わせずに矢継ぎ早の質問を放った。相手のペースを崩すこと動揺を誘おうという狙いである。

「生徒から回ってくる意見に対する議論とか、書類整理とか……」

「書類整理ですか、あれは結構時間がかかるんですよね。どれくらいの量があるんですか?」

 榊原は質問の対象を次々変えることで相手に考える時間を与えないようにしていた。芦原は明らかに動揺しているようで、時々校長を見ている。校長も思わぬ展開に戸惑っている。

「ええと、多いときには三時間くらいかと……」

「やっぱり、生徒会選挙直後だから、引継ぎなどで忙しいんでしょうね」

「はあ」

「では、事件当日も早乙女さんは書類整理をしていたと考えてよろしいですね」

 榊原はどうでもいい話から、いきなり事件に関する質問を叩き込んだ。相手の隙をつく典型的な方法である。案の定、芦原はこれの質問にあせっていた。

「え? は、はぁ」

「この学校の六時間目が終わるのは十五時四十五分。この日は部活がありませんから、授業後すぐにここに来たとしても、書類整理が終わるのは移動時間や休憩を含めて十九時。違いますか?」

「そ、そうですけど……」

 まだ何か言おうとする芦原をさえぎって、

「つまり、彼女は最低でも十九時までここにいたことになる。そう考えてよろしいですね?」

「ええ、まあ……」

「しかし、この学校の門限は二十時です。となれば、彼女が学校を出た時間はこの一時間に絞られる。では、改めてお聞きしますが、彼女が学校を出たのは?」

「そ、それは……」

「知らないとは言わせませんよ。これだけの書類整理です。会長一人でできるわけがない。となれば、生徒会メンバーの誰かが一緒にやっていたはずです」

 静かではあるが有無を言わさぬ榊原の剣幕に押されて、芦原は完全に混乱していた。

「……十九時十五分ごろです」

 芦原はそう答えた。

「なるほど。つまり、残っていたのはあなたでしたか」

 ハッとした表情で芦原は榊原を見た。

「どうして……」

「じゃあ、なんでそんなに正確な時間を知っているんですか? 私は生徒会メンバーの一人と言っただけです。誰にも相談せずに答えた以上、あなた以外にはありえないんですけどね」

「……」

「さて、そうなると疑問が一つ。あなたは先ほど、『事件当日の被害者の行動については?』という私の質問に対して『よく知りません』と答えました。しかし、少なくとも彼女が学校を出るまでの行動に関しては知っていなければおかしい」

 自身の証言の矛盾に、芦原もようやく気がついたようだ。

「どうしてそのような嘘を?」

「それは……」

「もしや、何か事件に関係しているからじゃないんですか?」

 榊原は思い切って切り札を出した。思わぬ質問に、芦原は驚愕の表情を浮かべた後、そのままうつむいてしまった。沈黙が部屋を支配する。

と、耐え切れなくなったように隣の会計の女子が立ち上がった。

「もういや! こんなことで疑いをかけられるのは嫌です!」

 そう言って、校長を睨んだ。

「そこの校長が言ったんです。『何を聞かれても知らぬ存ぜぬで押し通せ』って」

「き、君」

 校長が慌てふためいた。と、書記も立ち上がった。

「校長先生! 私たちが疑われるなんて聞いていませんよ! 何が『刑事なんて適当に流しておけば諦めて帰っていく』よ!」

「わ、私はそんなことを言っていない……」

「自分だけ逃げるつもりですか!」

 今や、校長の顔はすっかり青ざめていた。

「校長先生、席を外していただけますか?」

 不意に、榊原が言った。

「そ、それは……」

「あなたにも聞きたいことができましたのでね。橋本、頼む」

「分かった」

 橋本は立ち上がった。

「先ほどの応接室に行きましょう。そこであなたの話をしっかり聞かせてもらいますよ」

 校長はうなだれると、部屋を出て行った。橋本もそれに続こうとしたが、不意に榊原を振り返ると、

「じゃあ、榊原。そっちは任せる」

「わかった」

 榊原の返事に、橋本は頷いて部屋を出て行った。後には榊原と生徒会の三人だけが残った。

「さて、では本当のことを話していただけますね? 念のため申し上げますが、警察には守秘義務がありますので、ここで話されたことをあなた方が話したということは決して外部には漏らしません」

 榊原が聞くと、三人は軽く頷いた。

「では改めてお聞きします。早乙女麻里亜さんについてあなた方はどのように感じていましたか? もっと言えば、どのような生徒でしたか?」

「一言で言えば偽善者でしたね」

 会計の子が言った。

「偽善者……ですか」

「そうです。表ではいい子ぶって、先生からの評判も良い優等生。実際、成績そのものは良かったですから、それに関しては誰も文句は言えませんでした。でも、その裏ではどれだけひどいことをやってきたか……」

「例えば?」

「人の恋人を奪われた子がいたという話を聞いたことがあります。もっとも、訴えたところで誰も信じてくれませんから、誰も言いはしませんでしたけど。今までに何人の男があの人によって奪われたかと思うと……」

「ちょっと」

 と、芦原が思わず会計の発言を止めた。会計もさすがに言い過ぎたと思ったのか、

「すみません。言い過ぎました」

 と、謝った。今度は芦原が答えた。

「お聞きの通りです。少なくとも、彼女を恨んでいる人間は多いと思います」

 榊原は黙って聞いていたが、次の質問に移った。

「では、早乙女さんの事件当日の行動を聞かせてください」

「はい。刑事さんのご想像通り、あの日、私たち生徒会役員は授業終了後から全員で書類整理をしていました。引き継いだばかりなので結構量が多くて、終わったのは十九時を過ぎていました」

 芦原が答える。

「彼女が出たのは十九時十五分。間違いありませんね?」

「はい」

「なぜ分かるんですか?」

 これには書記の子が答えた。

「あの人が出て行く直前に、私が時計を忘れていて時間を聞いたんです。それで芦原さんが教えてくれて」

「なるほど。では、あなた方が学校を出たのは?」

「その十五分くらい後だったと思います。その後は、池袋駅まで一緒に帰って、そこから各自の電車に乗りました」

「これは関係者全員に聞いているんですが、殺害された時刻のアリバイは?」

「ええっと、その時間はいつですか?」

「本日の朝三時ごろと思われます」

「そんな時間なら、私は寝ていますよ」

 芦原が答え、他の二人も同調する。

「最後にお聞きしますが、早乙女さんに関して、最近変わったことはありませんでしたか?」

 三人は顔を見合わせていたが、そのうち芦原が話そうかどうか迷っている表情を見せた。

「何かあるんですか?」

「……あの、これはあくまで噂なんですが」

 そう前置きして、芦原は告げた。

「彼女、最近痴漢に遭ったらしいんです」

「痴漢?」

 思わぬ情報に、榊原は思わずペンを止めた。

「詳しくは知りません。噂程度しか知りませんから」

「その噂はいつから?」

「ここ一ヶ月くらいじゃないでしょうか?」

 芦原は他の二人にも同意を求め、他の二人もそれに同調した。

「どんな噂ですか?」

「彼女が帰宅途中の電車の中で痴漢に遭ったってことくらいしか……」

「それほど不確かな噂なんですね」

「はい」

 榊原はしばらく考えていたが、

「分かりました。今日はありがとうございました。この辺で質問を終了させていただきます。何か思い出しましたら、こちらまで」

 と言って手帳を閉じ、名刺を一枚差し出すと、そのまま部屋を出て行った


 榊原は校門を出ると、しばらく守衛所の横で待っていたが、やがて橋本もやって来た。

「どうだった?」

「何とか話は聞けた」

 橋本は疲れたように肩をすくめた。二人は近くの駐車場に止めておいた車に乗ると、橋本の運転でスタートさせた。

「校長の尋問は?」

「あの校長、かなり臭いな」

「臭いというのは?」

「援助交際だよ。どうも、被害者とやっていた可能性がある。まぁ、本人はそんなことを認めなかったんだが、態度や言葉の端々から受ける印象じゃ、多分クロだ」

「だから口止めしたか」

「名門校としてのプライド以前に、個人のスキャンダルになりかねないからな」

「殺人に関しては?」

「それに関してはおそらくシロだな。同窓生と池袋の雀荘で麻雀をやっていたというアリバイがあった」

「いずれにせよ、被害者としても保険をかけていたというところか。万が一、学校にばれても大丈夫なように」

「おそらくは」

 橋本は榊原の方をちらりと見やると、

「だが、さすがの質問だったな。わざと学校に関する時間を告げてあらかじめ調べてあることを強調し、隠しても無駄だと思わせるところなんか、見ているこっちがハラハラした」

「そりゃどうも」

「で、何かわかったか?」

 榊原は質問内容を伝えた。

「痴漢、か」

「ああ、やっぱり気になるか」

「当然だろう。そんな話、今まで出てきていないからな」

 運転しながら、橋本の目も真剣になっている。

「彼女の自宅は中野区だったな」

「中野区の中野駅が最寄り駅だ。芦原って副会長の話では、噂では彼女は電車内で痴漢に遭ったらしい」

「となれば、その場所は限られるな」

 榊原はダッシュボードから都内の地図を出した。

「彼女の通学路は、中央本線中野駅に乗車した後、東中野、大久保を経て新宿駅で下車。その後山手線外回りに乗り換えて、新大久保、高田馬場、目白を経た後、池袋駅で下車するというものだ。帰宅はこの反対になる。ただ、これだけとは考えられない」

「というと?」

「彼女は渋谷で援助交際をしていたんだ。渋谷に行く途中で痴漢に遭ったとしてもおかしくはない」

「なるほど。とすると、どうなる?」

「彼女が援助交際をしていたのは学校からの帰りだ。いったん駅に帰ったかどうかは分からないが……」

「調べによれば、渋谷駅のコインロッカーから彼女の着替えが見つかっている」

「じゃあ、家にわざわざ帰るようなことはしていないな。すなわち、池袋から山手線内回りに乗った後、新宿で降りずに、そのまま代々木、原宿を経て渋谷に至るルートだ。その後、渋谷駅のコインロッカーに預けておいた着替えを取り出し、駅のトイレででも着替えて街に繰り出していたんだろう」

「そして、帰りは山手線外回りで新宿まで戻ってから中央本線で中野へ戻るか」

「この辺が狙い目だな。調べる価値はある」

 榊原の言葉に、橋本も頷いた。助手席の榊原は、捜査に必要ということで最近買ったばかりの携帯で、該当する駅に連絡を取った。


 ヒットしたのは新宿駅であった。ターゲットは噂の出始めた時期から考えて、ここ一ヶ月ほど前に発生し、割り出した駅で処理がなされた、被害者が女子高生である痴漢事件である。それに該当する痴漢事件は計三件で、新宿駅の他に池袋駅と原宿駅で起きていた。

 榊原は、このうち池袋駅の事件を真っ先に排除した。

「学校の最寄り駅で起きた事件なら、噂程度で済むはずがない」

 それが榊原の考えだった。事実、よく聞いてみると被害者の高校生は確かに光蘭女学院の生徒だったが、三年生だったとのことだった。したがって早乙女ではない。さらに、原宿駅の事件は、被害者が光蘭女学院の生徒ではないことが発覚した。

 最後に残った新宿駅のケースは、被害者は光蘭女学院の生徒で、しかも高校二年生であり、電話口ではあるが、身体的特徴や顔つきも一致した。榊原と橋本はすぐに新宿駅に向かった。

「ええ、確かに一ヶ月ほど前にそんな事件がありました。警察にも届けましたよ」

 対応した助役が駅の事務室で答えた。

「具体的には、どんな事件ですか?」

「ええと、確か……六月八日の夕方だったと思いますが、山手線の内回りの電車が当駅に到着した際、光蘭女学院の女学生が痴漢されたと、一人の男の手をつかみながら叫んだんです。で、駅員が事情を聞いて、警察に通報しました」

「被害の状況は?」

「何でも、車内でスカートの下に手を突っ込まれて、下着をなでられたとか何とか」

「男の方は認めたんですか?」

「いいえ、真っ青な顔をして否定していました。でも、その子の話では間違いなくその人だと言いますし、その後は警察に引き継いだので、どうなったかは……」

 二人はその足で、新宿駅を管轄する新宿南署へ向かった。

「ええと、先月の六月八日に新宿駅で発生した痴漢事件……ああ、これですね」

 資料編纂室の課長は、その資料のコピーを差し出した。とはいえ、たいした事件でなかったためか、せいぜい五枚ほどの報告書である。

「この件が何か?」

「いえ、ちょっと」

 榊原は礼を言うと、その資料を読み始めた。

「間違いないな。被害者の名前が『早乙女麻里亜』になっている」

「問題は痴漢をした相手の方だ」

 榊原は頷くと、その資料を見た。

「高杉繁義、五十二歳。早応大学法学部政治学教授。本籍地は杉並区で、最寄り駅は中央本線の高円寺駅だ」

「大学の法学教授か」

 意外な人物に、二人は思わず顔を見合わせた。法学部の教授なら、痴漢したらどうなるかぐらい分からないはずがないのだ。しかも、早応大学はそれなりに全国に名の知れた名門校である。

「早応大学は、確か巣鴨だったな」

「この住所じゃ、被害者同様、中央本線で新宿駅まで出て、そこから山手線外回りで巣鴨まで行く通勤ルートだろう」

「その帰り道に痴漢を起こした」

「記録上はそうなっている」

「裁判はどうなっているんだ?」

 榊原はページをめくった。

「一週間前に結審。罰金刑で済んだらしい」

「つまり、この男が痴漢をやったことは認められたということか」

「……」

 榊原は考え込んだ。

「なぁ、橋本。仮にこの痴漢が冤罪だったらどうなると思う?」

「何?」

 警察関係者としてあるまじき発言に、橋本は驚いた。

「事案そのものはありふれた痴漢事件。自分で言うのもなんだが、警察もそれほど本気で調べたとは思えない」

「ちょ、ちょっと待て。じゃあ、お前はこいつが復讐殺人をしたって考えているのか?」

 さすがに榊原もそこは慎重に、

「いや、あくまで可能性の話だ。だが、折川以外にも怪しい人間が出てきたということだ」

「しかし、ことは痴漢だぞ。それが殺人まで発展するものか?」

 橋本の疑問に、榊原は首を振った。

「それに関しては『発展する可能性がありえないことはない』と言っておこう」

 そして、榊原は電話を借りると、いくつか電話をかけた。


 その夜、捜査会議で榊原は今までわかったことを報告し、さらに痴漢事件に関しても言及した。

「君はこの痴漢事件が怪しいと考えているのかね」

 本部長が聞いた。榊原は頷いた。

「現状、この一件を無視することはできません」

「しかしだね、いくらなんでも痴漢で殺人までいくとは……」

 榊原は首を振った。

「調べた結果、痴漢の被害はこれだけにとどまっていません。高杉はこの一件で大学をクビになり、今まで築いてきた経歴や名誉など全てを失っています。さらに、この直後に妻から一方的に離婚を宣告され、三歳になる娘とともに家を出られてしまっているのです。言ってみれば、この痴漢事件のせいで、高杉は人生を滅茶苦茶にされてしまったのです」

「だが、それは自業自得だろう」

「確かに彼が間違いなくやっていたとするなら、これは自業自得以外の何物でもありません。しかし、これが冤罪だとしたら話は別です」

 捜査本部がざわめいた。

「君は、これが冤罪だと言うのかね?」

「私たちは、この事実が判明した後すぐに裁判記録を閲覧しました。私の見たところ、裁判の証拠は不十分かつ曖昧で、検察側がよくこれで立件できたものだと感心できるほどのものでした。友人の弁護士にも見せましたが、いくつも矛盾点を見つけて呆れていました」

「それでも立件できたのは?」

「検察が若手の熱気ある新人で、弁護側はどちらかと言えばやる気のない国選弁護人だったんです。その結果、若手の検事の主張がほとんど通ることになり、弁護人が今なら罰金刑で済むということを言ったこともあり、裁判費用がなかったこともあって高杉は控訴を断念しています」

「大学教授だというのに金がなかったのか?」

「長年の住宅ローンで、無駄な出費はほとんどできなかったようです。しかし、この裁判で検察側が勝った要因として一番大きかったのは被害者・早乙女麻里亜と、痴漢行為時に彼女が電話で話していたという人物の生々しい証言です」

「帰宅ラッシュの電車の中で電話していたのか……」

 本部長の顔が険しくなる。

「マナー的には問題でしょうが、ここで重要なのはそこではありません。その電話相手、誰だと思いますか?」

 今までそれを聞いていた別所警部がハッと顔を上げた。

「もしや、折川か?」

「その通りです」

 再びざわめきが起こる。

「おそらく、折川が隠していたのはこの痴漢事件に関することではないでしょうか?」

「しかし、なぜ隠す?」

「そこに答えがあるはずです。これはただの痴漢事件じゃないんです」

 榊原の解答に、捜査本部長は呻いた。

「やつを尋問するか?」

「今なら材料があります」

「わかった、やってみよう」

 すぐさま、折川に対する尋問が開始されることとなった。ただし、人権上の問題から夜間の尋問は長時間行えない。一時間が限度である。


 折川は取調室でふてくされていた。尋問は榊原と橋本で行うことになった。榊原は部屋に入ると、折川の正面に座った。

「なんだよ、まだ何かあるのかよ」

 折川が睨みながら言う。今回は、榊原は出鼻を挫いて一気に畳み掛けることにした。

「一ヶ月前の六月八日、早乙女麻里亜は痴漢事件に遭った。知っていますね?」

 その瞬間、折川の表情が凍りついた。

「し、知らねぇよ……」

「知らないじゃすまないんですよ!」

 いきなり榊原は大声を上げた。折川が小さく悲鳴を上げる。

「あなたが裁判で証人に立ったことは裁判所の記録ではっきりしているんです! くだらない嘘をつくのはやめなさい!」

「そ、それは……」

「言いたくないなら私が言いましょうか。一ヶ月前の痴漢事件である男が逮捕され、有罪になった。しかし、この痴漢事件には裏がある。それを仕組んだのは君と早乙女だ。全部分かっているんですよ!」

 榊原は高飛車な態度でハッタリをかけた。案の定、折川は激しく動揺し、体を震わせはじめた。

「我々は、今回の事件の原因がこの痴漢事件にあったと見ている。今釈放したら、君も狙われるぞ!」

「そ、そんな……」

「助かりたかったら知っていることを話しなさい! 少なくとも、我々は君の事を犯人であるとは考えていない!」

 その言葉に、折川はガクリと肩を落とした。

「ほんの……ほんの冗談だったんだ……」

「冗談とは?」

 榊原は声のトーンを戻し、促した。

「あの時……麻里亜が電話していたときに、向こうで何かいざこざがあった。聞いてみたら、知らないおっさんに携帯を注意されたって言うんだ」

「痴漢はされていないのか?」

「ああ」

 この時点で、痴漢事件が冤罪であることが白日の下にさらされた。

「で?」

「あいつが『むかつく、仕返しをしたい』って言うからよ。ちょっと冗談でな……」

「まさか、痴漢の罪を着せてやれとでも言ったのか?」

 榊原の目が険しくなった。

「まさか、こんな大事になるとは思っていなかったんだ。せいぜい駅員室で恥じかかせて終わりくらいにしか。まさか、裁判になって、おまけに有罪になるなんて……」

「ふざけるな! 君たちの行為で、人一人の人生が滅茶苦茶になったんだぞ!」

 後ろで橋本が怒鳴りつけた。榊原は怒りを抑えながら、次の質問に移った。

「ここまで聞けば、あの日の会話がなんだったのか、私には分かるような気がする」

「……」

「あれは中絶費用じゃない。予想以上に大きくなってしまったこの痴漢事件に対する、彼女からの脅迫代だったんじゃないんですか?」

「ああ、そうだよ。あいつ、ことがこんなに大きくなったのは俺が安直な案を出したからだなんてぬかしてな。中絶費を含めて、金を請求してきやがった」

「だが、君からも告発できたのではないのですか? 狂言だったといえば、よりダメージがあるのは名門校に通う彼女の方です」

「駄目だ。彼女には『俺にそそのかされてやった』という言い訳が十分成り立つ。それを出されたら薮蛇にしかならない。彼女は脅されてやっただけ。主犯は俺。そうなったら目も開けていられない」

 榊原はしばらく黙っていたが、

「君の行為は法廷での偽証罪として十分罪になる。もうしばらく拘留が必要のようですね」

 と言って、立ち上がった。折川はうなだれた。


 部屋に戻ると、事態は急変していた。先ほどの捜査本部で榊原が提出した高杉の写真を元に、聞き込みが行われたのである。その結果、目撃者が現れたのだ。

「目撃者は現場近くの居酒屋の店員だ」

 指揮をしていた別所警部が報告する。

「鳩松丈男という大学生でな。犯行時刻付近に職場帰りであの近くを通りかかったらしい」

 鳩松は捜査本部の隅で所轄署の刑事によって事情聴取されていた。

「僕があそこを通りかかったのは、午前三時半くらいです」

「何を見たんですか?」

「トンネルで誰か倒れていていました。顔しか見えなかったけど、間違いなく被害者の方です。その遺体を僕の視線から隠すように男の人が後ろ向きに立っていました」

「この人ですか?」

 刑事が写真を見せる。鳩松はそれを見ていたが、

「間違いありません、この人です」

 と断言した。

「どうして今まで証言しなかったんですか?」

「だって、その人不意にこっちを見て……ええ、その時顔が見えたんです……それで、僕も刺されるんじゃないかと思って、思わず逃げてしまったんです。その人のことが怖くって、なかなか言い出せなかったんですよ」

 この証言が決定的だった。念のために、彼が犯人でないかどうかも検討されたが、彼は死亡推定時刻である三時前後に居酒屋にいたという完璧なアリバイがあった。死亡推定時刻は三時からずれても十五分程度。彼が居酒屋を出たのは証言通り三時半前であり、さらに被害者や高杉と全く接点がなかったため、彼が犯人である可能性は完全に抹消された。同時に、この証言が客観的に見て決定的であることが証明されたのである。

「本部長、高杉繁義に対する逮捕状を請求します」

 別所警部が告げた。本部長は頷いた。


 翌日、七月九日午前八時、榊原、橋本、別所の三人は逮捕状を持って杉並区高円寺の高杉繁義の自宅を訪れた。大学をクビになった後、高杉は仕事らしい仕事につけず、ローンの残るこの家で一人さびしく暮らしているという。

 榊原が代表してインターホンを鳴らした。が、返事はない。

「失礼します」

 三人はそのまま家の敷地に入り、玄関に手をかけた。ドアは簡単に開く。三人は顔を見合わせて中に入った。

「高杉さん、いますか?」

 しばらく中を探し、最後に奥の和室だけが残った。榊原が襖を開ける。

 部屋の中央に着物姿の男性が目を閉じながら正座して座っていた。

「お待ちしておりました」

 その男性は目を開けながらそのように答えた。

「高杉繁義か?」

 榊原が聞く。後ろから残り二人の刑事たちも緊張した面持ちで男を見つめている。

「そうです」

 男……高杉は認めた。

「高杉繁義、早乙女麻里亜殺害容疑で逮捕状が出ています」

 高杉は覚悟を決めたように榊原を見た。

「覚悟はできております」

「あなたは、この逮捕状に記された通りに早乙女麻里亜を殺害しましたか?」

 高杉は一瞬黙った後、

「はい、私がやりました。私が……あの悪魔を殺したんです」

 と、容疑を認めた。それを聞くと、別所が部屋の中に入り、手錠を取り出した。

「午前八時十八分。高杉繁義、殺人容疑で逮捕する」

 高杉の手に手錠がかけられた。高杉は、それを悲しそうな目で見ていた。


 その後、高杉は渋谷署の取調べで犯行事実を全て認めた。その犯行の様子は犯人にしか分からない事実、すなわち秘密の暴露を含むものであり、彼が犯人であることは客観的に見ても疑いのないことであった。

 例えば、一般には公表されていない殺害の正確な時刻、被害者の傷の位置などを正確に答え、また、目撃者の鳩松に見られたことも記憶していた。これは警察ですら数時間に知った事実であり、もはや容疑は決定的であった。

 取調べを受けながら、高杉の脳裏にはあの日のことが思い浮かんでいた。


 身に覚えのない痴漢事件の裁判で負けて以降、高杉の人生は滅茶苦茶に狂っていた。大学はクビになり、最愛の妻子にも見放され、全てを失った高杉は死を意識するようになった。

 あの日、高杉は自殺するつもりで渋谷をうろついていた。せめて、あの事件の原因となったあの女子高生の前で死んでやろう。そう考えていた。裁判後に探偵を雇って調べ、彼女が渋谷では有名な援助交際の常連であることを知り、彼女の前でナイフをのどに突き立てて死んでやろうと思っていた。そうでもしなければやっていられなかったのである。

 そして、高杉はその少女を見つけた。その少女はどこかに電話をしていた。だが、その言葉にとんでもない単語が含まれていた。

「折川、あんたのせいだからね! あんたがあの親父を嵌めて痴漢に仕立てようなんて言い始めなけりゃ、ここまで大事にはならなかったんだから。この代償は高いわよ。ええ、そうよ。前に言った金額を払ってもらうわ。私、中絶費用もいるしね。分かってるって、また会えばいいんでしょ。しつこいわよ。はぁ、何言ってんの? あれでも十分譲ったつもりだからね。もういい? 切るわよ」

 全てが崩れ落ちた気分だった。あれ単純に被害者女性の勘違いではなかった。携帯を注意した自分を陥れるための罠だったのだ。法学部の教授にまでなった高杉にとって、このくらいはすぐに想像できた。

 その瞬間、死への願望は激しい殺意へと変わった。このまま死んだら私は馬鹿ではないか。あの娘を生かしてはおけない。それに、電話の相手……確か裁判でも証人として出ていた折川という男。今の様子ではトラブルがあったらしい。今彼女を殺せば、容疑は折川に行く。自身を冤罪に突き落とした男を、今度は自分が冤罪に突き落とす。高杉は瞬時にそれだけのことを考えた。

 少女はホテルに消えた。高杉はそのホテルの前に身を潜めながら、彼女が出てくるのを待った。

 そして、ホテルを出てきた彼女をつけた。彼女が人通りのないあのトンネルに入ったのを見ると、高杉は自殺用に持ってきたナイフを一瞥し、背後から彼女の方へ歩み始めた……。


 高杉は起訴され、裁判の結果懲役十二年の刑に落ちついた。痴漢で騙されたことが減刑の要因になったのは間違いないが、高杉は控訴することなく、一審で刑は確定した。

 しかし、榊原と橋本がこのことを知ったのはかなり後になってからのことだった。高杉が逮捕された直後、二人は捜査本部を離れ、別の事件に導入されたからである。

 そして、事件から二年が過ぎた。


 一九九八年十二月十日。品川の居酒屋で一人の男が飲んでいた。榊原恵一、当時三十二歳である。榊原はどこか疲れたような表情をして、ちびちび酒を飲んでいた。

「やあ、刑事さん。久しぶりです」

 と、隣に白衣の男性が座った。

「ええと、どちらさまでしたっけ?」

「丸野です。丸野正一。ほら、二年前の女子高生殺人事件で……」

「ああ、あの時の」

 榊原は軽く微笑んだが、その顔には疲れがたまっていた。

「どうしたんですか? 仕事は大丈夫なんですか?」

「刑事ならもう辞めましたよ」

 その言葉に丸野は驚いた。

「辞めた?」

「二日前です。辞表を提出しました」

 丸野は顔をゆがめた。

「あの事件ですか?」

「ええ」

 この年、東京を中心とする連続殺人が起きており、警察はこの事件で無実の人間を逮捕した挙句、その間に真犯人に刑事を殺され、さらにその無実の人間に自殺されるという失態を犯していた。その結果、捜査関係者の大規模処分が行われていたのである。

「あの事件で、私が全ての責任を取って辞任したんです」

「そんな……」

「二年前に一緒にいた橋本も所轄の資料編纂室に逆戻りです。私のミスでした」

 榊原は苦笑した。

「何をなさるおつもりなんですか?」

「なに、せっかくだから私立探偵でもやってみようかと思っています」

「私立探偵?」

「ええ。ただ、官舎を追い出されてしまったので、どこか住む所を探さないと……」

 丸野はそれを聞いてしばらく考えていたが、

「そういうことでしたら、一つ心当たりが」

「なんでしょうか?」

「私の医院が入っているビルの二階に探偵事務所があったのを覚えていますか? あそこは、以前は有能な私立探偵がいたんですが、その探偵が何かやらかして刑務所にぶち込まれてから無人なんです。元探偵事務所なので機能はそろっています。あと、住居に関しては同じビルの三階に空きがあります。私も同じ階の一室を使っていますが、住む分には問題ないと思いますよ」

 榊原は考え込んだ。

「私が入ってもよろしいのでしたら、お願いしましょうか」

「歓迎ですよ。実は、物件が物件なので買い手がいなくて、ずっと放っておかれていたんです。だから、値段は安いと思いますよ」

 榊原と丸野はそこで簡単に打ち合わせすると、そのまま居酒屋を出て行った。


 その後、榊原はその品川裏町の古びたビルの二階で探偵事務所を開業した。最初こそ立地条件なども重なって客はいなかったが、さすがに元々警視庁で一位二位を争う推理の持ち主と言われただけあって、その実力から数々の難事件を依頼されるようになってきた。その中には日本犯罪史に残る有名な事件も少なくない。いつしか、榊原は名探偵として日本中にその名を知られるようになった。

 しかし、それでいながら榊原は事務所を移ることもなく、品川の古びたビルの二階でまるで世捨て人のように細々と探偵活動を続けていた。

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