向日葵の丘で見たのは、いつかの君で。
昔、見たことがあった。
それは果たして夢なのか現実なのか、よく分からない。
私はとても小さく、たぶん五歳にも満たない年齢だったと思う。夏のことですごく暑くて、蝉が五月蝿く鳴いていた。私の頭には麦藁帽子が乗っていたけれど、そんなものじゃとても防ぎきれない暑さだった。
そこは田舎道なのか、道の両端には小さな私の背よりもずっと大きな向日葵が咲いていて、自分が踏みしめている地面はどこまでもまっすぐに続いていた。
周りに人はいなくて、私は一人だった。そんな状況に五歳にも満たない私が心細くないはずもなく、たぶん、どうしようもなく突っ立っていたのだ。それこそ、泣いてはいなかったと思うが、泣きたい気持ちでいっぱいだったはずだ。
――そんな私の前に、一人の人が現れたのだ。
背は幼い私よりうんと高いが、顔どころか男性か女性かすら覚えていない。
その人は私の手を引き、幼い私がどこまでも続いているように思えた道を一緒に歩き出した。夏の暑さのせいでその人と私の手は汗でべたついていた。手を繋げばより暑いし、汗でべたべたになるけれど、私とその人のどっちにも嫌だといった様子は無かった。
しばらく歩いてからのことだった。
『君の願いはちゃんと叶うよ。もし叶わなくても、私が叶えてあげる』
と隣を歩いていた人が言った。
もちろん私にはさっぱり意味が分からず、幼心ながら、心の端にその言葉を留めておくことしかできなかった。
今の私には、その時私が何か言ったのか、そのあとどうしたのかということが分からない。
その人がその言葉を発したところで私の記憶は終わっている。いや、記憶というのは正しくないかもしれない。自分でも、現実で起きたことだったのか夢だったのか分からないから、確かにあった『記憶』と言っていいものではないかもしれない。
もしかしたら本当にあったことで、私は迷子にでもなってその人に助けられたのかもしれない。
でも、それにしては私の中のそのことはとても曖昧で、夢だったのではないかという思いのが強かった。
五歳にもなっていないであろうから、もしまったく覚えていなくても無理がないのかもしれないけど、さすがに覚えていないことが多かった。
私が今現在から過去生まれてから一度も引っ越したことのない、私が住んでいる場所は今も昔もそんな田舎道があるような所はまったく無い。
祖母や親戚の家も、ほど遠くない距離に位置しており、私が見た向日葵だらけの道がありそうな所など無い。
……つまりは、たぶん、というかほぼ確実にそれは夢なのだ。
という結論に今まで何度も辿り着いた。
けれど、私はなぜかそれに納得がいかなかった。自分で考えて、自分で出した結論なはずなのに、だ。
どうしても負に落ちない。夢にしてはリアリティがありすぎる気がするし、なにより、その人の顔を私はどこかで見たような気がするのだ。
随分と可笑しな話だと自分でも思う。顔どころか性別すら分からないのに、どうして私は、見たことがある――会ったことがあると感じるのか、自分でも不思議だと思う。
私は必ず、蝉が忙しなく鳴く夏の季節になるとその人のことを思い出した。
そして幾度も、現実なのか夢なのか、どうして自分はこんなにもしつこくその人のことを考えるのかと思った。
今はもう、高校三年生の夏だ。あと少しで学校に行く日々も終わる。
高校を卒業したら、就職しようと思っていた。家が裕福どころか貧乏で、そもそも進学するお金が無いということもあって。
家は片親で、母親しかいない。母だけが家で唯一働いていて、私一人でも大変なところに下にもう一人まだ小さな子供がいる。母は毎日忙しそうで、いつでも疲れた顔をしていた。その顔を胸に焼き付けながら、私は日々の学校を、勉学を頑張った。
そんな母親自身は、お金のことは心配いらないから大学へ行きなさいと言った。
けれど私は、『はい、分かりました』と言ってその言葉を甘んじて受ける気は無く、小中高共に全ての学費とその他諸々を必死で働いて払ってくれていたことに深く感謝している。
高校さえ出ていればなんとかなる。だから次は私が、母を助けなければならない。
私が就職する気しかないことを母は知らない。私は母の言葉に対して『ありがとう。じゃあもし受かったら大学に行くよ』と言っている。なので、私は家以外のところで就職先のことを探したりして、家では勉強をしているフリをしている。
私が就職する気満々なのを知ったら母がなんと言うか分からない。ほぼ確実にお金のことを気にしているのだと思ってもっと無理をしかねない。だから母には、『受験したけど落ちた。だから就職する』というシナリオなので、家で就職がどうのこうのといったことは一切触れていない。
皆が暑い中さらに熱い思いをしながら受験勉強をしている中、私は就職先を探していた。もちろんそんな簡単に見つかる筈も無く、皆の受験勉強と同じくらい苦戦していた。
――私にも、夢はある。
厳密に言えば、「あった」が正しいのだろう。もうその道に進むことはない。
幼い頃から動物が好きで、獣医とかトリマーとか、動物に関係する仕事に就きたかった。けれど、どれもが専門の大学に行く必要がある。
だから、その夢は諦めるしかない。どんなに小さな頃から描いている夢でも、無理なものは無理なのだ。
『――君の願いはちゃんと叶うよ』
あの人が言った言葉が過ぎった。
そんなことあるはずがない。私の夢は小さい頃から動物関係の仕事だけど、無理だ。叶うはずがない。
――叶えたいけど……っ、……無理、なんだよ……。
『もし叶わなくても、私が叶えてあげる』
じゃあ、叶えてよ。私の願いを……。
気付くと、私は自分の部屋で寝ていた。ノートの下に隠して見ていたはずの求人情報誌を上に広げながら。
うわ、やばっ。お母さん部屋入ってないよね? 急いで起き上がると自分の背から何かが落ちた。
「毛……布……?」
音も無く床に落ちたソレは毛布だった。そんなもの自分でかけた覚えはない。つまりお母さんだ。
まずい! まずい! きっと求人情報誌を見られた。どうしよう……っ。
時計を見ると深夜を回っていた。私は部屋の扉をそっと開け、お母さんがいるであろう居間へ向かった。案の定明かりがまだついていて、母は起きていた。
私は小さく深呼吸をして、部屋へ入った。
「……お母さん」
「なあに?」
優しい、いつもの母の声だ。
「私の机の上……見た?」
「……うん」
やっぱり。
「就職する気なの?」
「うん……」
「動物関係の仕事、じゃないわよね……」
「うん。普通に就職しようかと思って」
「そう……」
母の声は小さく、遠くなった。
「あなたはあなたがやりたいことをやるのが一番だと思う。けど、あなたが獣医とかになりたいのは知ってるから、できれば私は、そういう大学に行って、そういう道に進んで欲しいと思ってるわ」
「うん」
「やっぱり、お金のことを心配してるのよね。お金のことなら心配しなくてもいいって……」
「そうじゃないの。私は私のしたいようにしようとしてる。お金のこととか関係無く、私は就職しようと思ってるよ」
そんなのもちろん、嘘だけれど。
「……そう。でもね、あなたが昔あんな目にあってからお母さんは思ったの。あなたの人生、後悔が無いよう、あなたがしたいことをお母さんはさせてあげよう、って」
「……あんな目? なんかあったっけ?」
私は別に死にそうな目にあった覚えはないのだけれど……。
「覚えてない? あなたが四歳くらいの時だったかしら。ああ、そうね。四歳くらいじゃ覚えてないわよね。あなた迷子になったのよ。お母さんとあなたで旅行に行ったときにね。それで、あなた川で溺れたのよ」
四歳くらい? 迷子……?
「それで、若い女の人が助けてくれたの。二十歳ちょっととかそんなものかしらね。私は直接助けたところを見たわけじゃないんだけど、あなたがずぶ濡れだったからその人に訳を聞いたら、川であなたが溺れてたんですって」
もしかして……。
「もしかして、向日葵がいっぱい咲いてた道……?」
「あら、覚えてるの? そうそう。あなたとその女の人が、向日葵が道の両端にいっぱい咲いた道を手を繋ぎながら歩いてきたの。お母さんもう吃驚よ。あなたからちょっと目を離したときにどっか行っちゃって、何時間もずっと探して走り回ってたら、見知らぬ女の人と笑顔で歩いてきたんですもの」
「……え……うそ……」
夢だと思っていたのに……。私の記憶と多少の違いはあるけど、確かにあったことだったんだ……!
「本当よ。あなたも少し覚えているみたいじゃない」
「う、うん、そう……なんだけど……。ねえ、どんな人だった? その人」
「んー……。そういえば、あなたに少し、似ていたかしらね。顔とか雰囲気が」
「……私に?」
「うん。あなたが小さいときは気付かなかったけど、今こうして見てみるとそうね、少しっていうかあなたによく似ているわ」
母は目を細めて、優しく微笑んだ。
その笑っている顔が、なんとなく、昔見たその人と似ている気がした。
「不思議よね。あなたによく似た人が、あなたを助けてくれたんですもの。溺れたとき私はいなかったから、その人が助けてくれなきゃきっとあなたは助からなかったわね。だから、そう思ったときに、お母さんはあなたの人生だからあなたのしたいことをさせようって思ったの」
『君の願いはちゃんと叶うよ。もし叶わなくても、私が叶えてあげる』
そうだ――。確か、彼女はそのとき私を見て微笑んだ……。
その顔は……私がよく知った――。
――そうか、そういうことだったんだね。
じゃあ、叶えなくちゃ、ね。
あなたが救ってくれた命だもんね。あなたが言ったことだから、それは絶対なんだ。私の願いは叶う。
あなたが叶えてくれる。
「……お母さん」
「ん、なあに?」
「――私、頑張ってもいいかな。入れるか分からないけど、勉強、してもいいかな……」
「何言ってるの。当たり前じゃない。あなたは頭良いんだから今からでも勉強間に合うわよ。頑張りなさい」
母はそう言うと、とっくにぬるくなったお茶を啜った。
私はその母の後ろで立ったまま、泣いた。
お母さん、私は頭がいいんじゃないよ。
お母さんが一生懸命働いて、出してくれてる学費だもん。私も勉強頑張ろうと思って、毎日いっぱい勉強したんだよ。
だからテストだってあんなにいつもいい点だったんだよ。
でもおかげで、本当に少しは頭が良くなったかもしれない。ありがとう。
だから、また、頑張ってみるね。
ありがとう。