十九歳の仮面は二度ほどける
一 白瀬澪、十九歳
三津橋玲司は、自分の顔を嫌ってはいなかった。
嫌っていたのは、その顔が何の役にも立たないことだった。
二十七歳。舞台用のメイクを請け負う小さな会社に勤め、イベント会場では裏方として照明の熱と汗にまみれる。腕は悪くない。骨格の線を読んで陰影を置き、表情の癖を消し、別人らしい印象を組み上げることにかけては、先輩からも認められていた。
だが、褒められるのはいつも技術だけだった。
「三津橋くん、仕事は丁寧だよね」
その言葉の後ろに、「人としては信用できないけど」が続いているように聞こえる。
実際、信用されていなかった。玲司は約束の時間に遅れ、立て替えてもらった金を返す日を延ばし、相手が断りにくい状況を作って頼み事を通した。仕事仲間から距離を置かれるようになると、彼は反省する代わりに、もっと簡単に人の懐へ入る方法を考えた。
その答えが、白瀬澪だった。
十九歳。地方から上京したばかりの服飾系専門学生。物静かで、少し世間知らず。笑うと左の頬だけに浅いえくぼができる。好きな食べ物はミルクティー味の菓子。苦手なのは大きな犬。将来の夢は衣装デザイナー。
すべて、玲司が作った。
鏡の前に座ると、彼はまず三津橋玲司の表情を消した。目を細める癖、片方だけ上がる口角、他人を品定めするときの乾いた視線。顔立ちそのものを変えるより、そうした癖を封じるほうが重要だった。
次に、白瀬澪の輪郭を重ねた。
長い黒髪のウィッグ。肌を明るく見せる舞台用の下地。清楚な印象を作る淡い色のアイメイク。高い声ではなく、息を多く含ませた柔らかな女声。衣装の上から固定できるコルセットと、外付けの補整パッド。白いブラウスと灰色のロングスカートを着れば、鏡の中には玲司の代わりに、落ち着いた雰囲気の若い女性が立っていた。
極端に誇張された輪郭は、玲司の趣味ではない。
目立つためだった。
目立てば声をかけられる。声をかけられれば、相手の警戒を解く手間が省ける。しかも、彼が参加しようとしているのは、十八歳以上限定の創作衣装交流イベント《ミラージュ・ジャンクション》。参加者は本名ではなく、創作した人物名で交流する。運営には成人確認を済ませているが、参加者同士が互いの本名や年齢を確かめる仕組みはない。
玲司は規約上、参加できる。
ただし、目的は交流ではなかった。
女性参加者に十九歳の女性だと思わせて近づき、連絡先を集め、後から「実は特別な事情がある」と同情を引く。拒まれれば、秘密を共有した仲なのに冷たい、と責める。これまで小規模な撮影会で何度か使い、成功したやり方だった。
「こんばんは。白瀬澪です」
鏡の中の澪が、小さく微笑む。
玲司はその完成度に満足し、口元を指で整えた。
「今夜も、うまくいく」
鏡の中の少女は、何も答えなかった。
二 迷宮にいる女たち
《ミラージュ・ジャンクション》の会場は、閉鎖された地下商店街を改装した巨大なイベント空間だった。
使われなくなった通路に鏡面パネルが立ち、天井から青紫の光が落ちている。昔の洋品店は更衣室に、書店跡は撮影ブースに、噴水広場はステージに作り替えられていた。参加者はそれぞれ創作した人物になりきり、写真を撮り、短い寸劇を演じ、設定カードを交換する。
高校でも、文化祭でも、酒を出す店でもない。
ここにいるのは全員、成人だった。
玲司は受付で本人確認を済ませた後、更衣室で白瀬澪になった。運営は本名と年齢を把握しているが、それを他の参加者に公開しない。だから彼は堂々と「十九歳の澪」と名乗れた。
「衣装、すごくきれいですね」
最初に声をかけたのは、二十二歳の会社員だという女性だった。青いマントを羽織り、星占い師の役を演じている。
「ありがとうございます。自分で少し直したんです」
澪は照れたように目を伏せる。玲司は、相手が褒めた直後に自分の話をしすぎないよう気をつけていた。質問を返し、相手に多く話させる。そのほうが、「気が合う」と錯覚させやすい。
「その髪飾り、星座がモチーフですか?」
「気づきました? 実は十二種類あって」
「見たいです。よかったら、あとで写真も送ってください」
連絡先を交換するまで、七分。
二人目は十一分。三人目は少し警戒心が強く、二十分かかった。
玲司は焦らなかった。白瀬澪は急がない。自信のなさそうな笑顔で一歩引き、相手が安心して近づく余白を作る。
その様子を、噴水広場の柱にもたれて見ている人物がいた。
明るい金髪を高い位置でまとめ、銀色のジャケットに短いスカートを合わせた派手な女性。名札には《桃瀬ララ・十九歳》とある。目元には鮮やかな色が置かれ、笑うと八重歯が見えた。
ララは、玲司が三人目と別れたところで近づいてきた。
「澪ちゃん、人気じゃん」
軽い声だった。
「そんなことないです。みなさん、優しいだけで」
「それ、清楚系の定型文?」
玲司は笑顔を崩さなかった。
「定型文って?」
「ううん。こっちの話」
ララは澪の周りを半歩だけ回った。無遠慮な視線ではない。それでも玲司は、衣装の縫い目まで観察されているような感覚を覚えた。
「桃瀬ララ。設定上は十九歳。中の人は、ちゃんと成人」
「私もです」
「そりゃそうでしょ。ここ、十八歳未満は入れないし」
笑いながら言われ、玲司は一瞬だけ呼吸を止めた。
ララは気づいているのか。
だが、次の瞬間には大きく手を振り、通りかかった撮影仲間へ駆けていった。
「ララ、こっち向いて!」
「はいはい、盛れてる角度でお願いしまーす!」
周囲に笑いが起きる。
玲司はその背中を見送り、胸の奥に生じた小さなざらつきを押し込めた。
ただの目立ちたがりだ。
そう判断し、四人目の標的を探した。
三 桃瀬ララの質問
ララは、しつこく付きまとってくるわけではなかった。
むしろ、会場のどこにでもいるのに、澪のすぐそばには来ない。その距離の取り方が、玲司を落ち着かなくさせた。
写真ブースでは、ララは初対面の参加者を笑わせていた。鏡の通路では迷った人を出口まで案内していた。衣装の留め具が外れた人には、小さな裁縫道具を差し出した。
派手な見た目に反して、周囲をよく見ている。
玲司は、そういう人間が嫌いだった。
他人の変化に気づく人間は、嘘の継ぎ目にも気づく。
五人目の女性と設定カードを交換した直後、ララが紙コップを二つ持って現れた。
「ノンカフェインのハーブティー。飲む?」
「ありがとうございます」
「喉、大事でしょ」
玲司の指が止まる。
「どうして?」
「声、作ってる人って乾きやすいから」
ララは自分の声を、低い地声へ一瞬だけ落とした。
「俺もそう」
ほんの二文字だった。
すぐに明るい女声へ戻る。
「びっくりした?」
玲司はララを見つめた。
女装コスプレイヤー。
しかも、自分と同じく声まで作っている。
「すごいですね」
「澪ちゃんもね。かなり練習したでしょ」
「何のことですか?」
「別に。設定の話」
ララは紙コップに口をつけ、わざとらしく目を細めた。
「白瀬澪ちゃん、地方から来たんだっけ。どこ?」
「北のほうです」
「広いなあ。好きな駅弁は?」
「駅弁は、あまり」
「専門学校は服飾系?」
「はい」
「じゃあ、服のパターン引ける?」
「まだ勉強中で」
「大きな犬が苦手なんだよね。小さい犬は?」
「好きです」
「将来は衣装デザイナー?」
「そうです」
設定カードに書かれた情報をなぞっているだけなのに、尋問のように感じた。
玲司は微笑んだまま、話題を変える。
「ララさんは、どうしてこのイベントに?」
「人を見るため」
「人?」
「衣装じゃなくて、その人が何をしたいのかを見るのが好き。かわいくなりたい、怖くなりたい、普段と違う声で話したい。そういうのって、だいたい目に出るから」
ララの視線が澪の目をまっすぐに射抜いた。
「澪ちゃんは、何がしたいの?」
「友達を作りたいです」
「女の人だけ?」
「たまたまです」
「連絡先、五人分?」
玲司の笑顔が、わずかに固まった。
「数えてたんですか」
「三人目の子、困ってたよ。断ったのに、もう一回聞かれたって」
「誤解です」
「なら、同じことしないほうがいい」
ララは声を低くしなかった。明るい女声のまま、表情だけが消えた。
「女装することも、別の年齢を演じることも、ここでは珍しくない。問題は、それを使って相手の断り方を奪うこと。そこ、勘違いしないで」
玲司は紙コップを近くの台に置いた。
「説教ですか?」
「警告」
「運営でもないのに?」
「今はね」
ララは笑顔を戻した。
「次やったら、運営に相談する」
玲司は黙って立ち去った。
背中に視線を感じたが、振り返らなかった。
四 白瀬澪のほころび
警告を受けた後も、玲司はやめなかった。
やめれば、ララに負けたことになる。
彼は標的を変えた。ひとりで歩いている参加者ではなく、撮影待ちの列で会話が自然に始まりそうな相手を選ぶ。連絡先を直接求めず、作品用の共有アカウントを教えるふりをする。そこから個別のメッセージへ移ればいい。
慎重にやれば、ララにも口を出せない。
そう考えた。
しかし、白瀬澪の設定は、慎重になるほど不自然になった。
十九歳らしく見せようとして、流行の話題にうなずく。だが、玲司が知っているのは仕事で接した若い出演者の話し方だけだった。質問を重ねられると、澪の好きな音楽も、学校生活も、上京後の暮らしも曖昧になる。
「澪ちゃんって、学生証の写真もその髪?」
冗談めかして聞かれ、玲司は笑ってごまかした。
「写真、苦手なんです」
「わかる。免許証とか最悪だよね」
「私、まだ持ってなくて」
「地方なら車ないと大変じゃない?」
「家の近くは電車が多かったので」
言った直後、設定が北の小さな町だったことを思い出す。
相手は気にしていないようだったが、少し離れた鏡の前にララが立っていた。
鏡越しに目が合う。
ララは何も言わず、指を一本立てた。
一度目。
次に玲司が接触した女性は、二十三歳の映像編集者だった。彼女は最初から会話に乗り気で、澪の衣装を何枚も撮影してくれた。
「今度、個人撮影もお願いしたいな」
玲司は好機だと思った。
「私でよければ。二人きりのほうが、緊張しなくて済みます」
「スタジオ借りる?」
「最初は、静かなところで話したいです。私、人に言えない悩みがあって」
相手の表情が変わる。
「悩み?」
「ここでは言えないんですけど……あなたなら、わかってくれそうで」
玲司は声をさらに弱くした。秘密を予告し、相手に自分だけが選ばれたと思わせる。何度も使ってきた誘導だった。
「連絡先、交換してもらえますか」
女性が端末を出しかけたところで、横からララの手が伸びた。
「ごめん、その前に運営から確認」
「何?」
「このイベント、個人間の撮影誘導でトラブルが出てるから、初対面同士で密室になる約束は推奨されてないよ」
ララは女性に運営の注意事項を見せた。
玲司は低い声が漏れそうになるのをこらえた。
「割り込まないでください」
「二度目」
ララは指を二本立てる。
「次は相談するって言ったよね」
「何の証拠があるんですか。私は友達になりたいだけです」
「じゃあ、相手が今ここで断っても、追いかけない?」
女性は戸惑いながら端末をしまった。
「ごめん。今日はイベントの中だけにしておく」
玲司は笑顔でうなずいた。
「もちろんです」
だが、女性が離れた瞬間、澪の笑みは消えた。
「満足ですか」
「まだ。三回目があると思ってるから」
「あなた、自分も同じでしょう。十九歳の女の子のふりをしてる」
「設定としてね。俺の交流カードには、成人男性が演じていますって閲覧用コードを付けてる。聞かれたら答えるし、個人的な関係を作るときは先に伝える」
ララは自分のカードを示した。確かに裏面に小さなコードがある。
「女装を暴きたいわけじゃない。嘘を利用して相手を追い込む人を止めたいだけ」
玲司は鼻で笑った。
「正義の味方ですか」
「違う。昔、友達が同じやり方でしつこく迫られた。だから、見覚えがあるだけ」
「私がその人と同じだと?」
「今のところは、かなり似てる」
玲司は答えず、人混みへ紛れた。
しかし、白瀬澪の歩幅が崩れていた。
いつもなら小さく運ぶ足が、三津橋玲司の苛立った歩き方に戻っている。
五 最初の包囲
午後九時、会場中央の噴水広場で《ペルソナ・パレード》が始まった。
参加者が一人ずつステージを歩き、創作人物の短い台詞を披露する。演技の技術を競うものではなく、設定を見せ合う交流企画だ。
玲司は参加予定ではなかった。
だが、司会者が「白瀬澪さん」と呼んだ。
登録した覚えはない。
ステージ脇を見ると、ララが腕を組んで立っている。
はめられた。
逃げれば目立つ。出れば声や設定を試される。
玲司は一瞬で計算し、舞台へ上がった。
青紫の照明が黒髪を照らす。客席には、先ほど連絡先を交換した女性たちがいる。玲司は白瀬澪として一礼した。
「はじめまして。白瀬澪、十九歳です。服を作るのが好きで、いつか、誰かが新しい自分に出会える衣装を作りたいと思っています」
拍手が起きた。
玲司は内心で笑った。
この程度なら、いくらでも乗り切れる。
司会者が設定カードを読み上げる。
「澪さんに質問です。あなたがいちばん大切にしているものは?」
事前項目にはなかった質問だった。
玲司は一拍置く。
「祖母にもらった、古い裁縫箱です」
「その裁縫箱で最初に作ったものは?」
「小さな巾着です」
「何色?」
「白です」
「誰にあげましたか?」
「祖母に」
客席は微笑ましい話として聞いている。
だが、舞台脇のララだけは笑っていなかった。
司会者が次の質問へ移ろうとしたとき、ララが手を挙げた。
「設定質問、参加者から一個いい?」
「どうぞ」
「澪ちゃん、その裁縫箱、右利き用? 左利き用?」
意味のわからない質問だった。
「普通の裁縫箱です」
「じゃあ、さっき衣装のほつれ直してたとき、なんで右手で針を持ったの?」
玲司は左利きの設定にしていた。
設定カードの端に、本人が書いた。
小さな矛盾。誰も気にしないはずの矛盾。
客席がざわめく。
玲司は笑った。
「細かい作業は右手でもできるんです」
「そっか。器用だね」
ララは追及しなかった。
それが余計に不気味だった。
パレードが終わると、運営スタッフの佐伯奈央が玲司を呼び止めた。三十一歳。黒いスタッフコートを着た、落ち着いた声の女性だった。
「白瀬さん、少し確認させてください」
「何でしょう」
「複数の参加者から、個別撮影への誘導と、断った後の再勧誘について相談がありました」
玲司は驚いた表情を作った。
「誤解です。私はそんなつもりでは」
「意図ではなく、相手が断った後に接触を続けたかを確認しています」
ララが少し離れて立っている。
玲司は悟った。
包囲が始まっている。
「体調が悪いので、今日は帰ります」
「事情を聞いてからにしてください」
「強制ですか?」
「強制ではありません。ただし、確認を拒否して退場した場合、今後の参加を停止する可能性があります」
玲司は目を伏せた。
「少しだけ、休ませてください」
佐伯はスタッフ用の休憩室を案内しようとした。
玲司は従うふりをし、途中の鏡の通路で人波が交差した瞬間、脇の扉へ滑り込んだ。
扉の向こうは、旧店舗をつなぐ搬入路だった。
白瀬澪は走った。
六 二人目の女
搬入路の先には、予備更衣室がある。
玲司は会場図で確認していた。緊急時に衣装を直すための簡易スペースで、使用中でなければ誰でも入れる。
鍵を閉め、息を整える。
白瀬澪のまま出口へ向かえば見つかる。ならば、別人になればいい。
玲司はバッグを開いた。
こういう事態を予想して、第二の衣装を用意していた。
黒髪のロングウィッグを外し、ネットに押し込む。代わりに、暗い赤色の短いウィッグをかぶる。頬の印象を柔らかく見せていたメイクを落とし、目元の線を変える。外付けの補整パッドを一部外し、シルエットを控えめにする。灰色のスカートを脱ぐのではなく、上から長いコートを重ね、前を閉じる。白瀬澪の清楚な印象は消え、そこには二十代前半に見える、無口な衣装スタッフ風の女性がいた。
名前は赤城ユナ。
設定は作っていない。
必要なのは、出口までの十分間だけだった。
玲司は澪の衣装と外した補整具をバッグへ詰めた。コルセットはシャツの上から装着する衣装用だったため、留め具を緩めて薄いものへ交換する。動きやすくなった。
鏡を見る。
赤城ユナは、白瀬澪より少し年上に見える。目つきは鋭く、声も低めでいい。玲司の地声に近づけられる分、長く話しても崩れにくい。
「大丈夫」
短くつぶやく。
ドアの外に人の気配はない。
玲司は更衣室を出た。
搬入路を戻らず、別の階段から撮影ブースの裏へ出る。会場はパレード後の移動で混雑していた。スタッフコートに似た黒い上着は、照明の暗い通路でよくなじむ。
佐伯が無線で誰かと話している。
「白瀬さんを見かけたら、本部へ案内してください。追いかけたり、取り囲んだりはしないでください」
玲司は顔を伏せ、その横を通り過ぎた。
気づかれない。
出口まで、あと二つの通路。
鏡面パネルに赤城ユナの姿が何度も映る。
一人、二人、三人。
その中の一つに、銀色のジャケットが混じった。
「お姉さん、落とし物」
背後からララの声。
玲司は振り返らなかった。
「人違いです」
低い女声で答える。
「じゃあ、これ、いらない?」
鏡越しに、ララが小さな銀色の留め具を掲げた。
白瀬澪のコルセットに使っていた予備金具だった。更衣室で落としたらしい。
「知りません」
「そっか。赤城ユナさん」
玲司の足が止まる。
名乗っていない。
ララは笑った。
「今、そういう顔した」
玲司は振り返り、まっすぐララを見た。
「どうしてわかった」
「歩き方。あと、バッグの持ち手。澪ちゃんのとき、左肩にかけてた。ユナさんも同じ」
「それだけで?」
「それだけじゃない。短いウィッグの襟足から、さっきのウィッグネットの端が見えてる」
玲司は反射的に首元へ手をやった。
ララの笑みが深くなる。
「今ので確定」
「性格が悪いな」
地声が混じった。
「そっちに言われたくない」
ララは距離を詰めなかった。
「本部に戻ろう。変装を責める話じゃない。誘い方の確認だけ」
「戻ると思うか?」
「思ってない。だから、選択肢を増やす」
ララは端末を見せた。
「十分後、噴水広場で《アンマスク・セッション》がある。変装前後を見せる公式企画。俺と勝負しない?」
「勝負?」
「二人とも、今の姿から別の人物に変わる。観客投票で完成度を競う。勝ったほうの要求を一つ聞く」
「くだらない」
「俺が負けたら、今日の件から手を引く。運営に追加の証言もしない」
「勝ったら?」
「本部で話す。集めた連絡先は、相手の意思を確認するまで使わない。あと、自分が何者かを相手に伝える」
玲司はララの顔を見た。
「正体を公開しろと?」
「違う。公開範囲は運営と、連絡先を交換した本人だけ。女装してることを見世物にする気はない」
「信用できると思うか」
「録音していいよ。運営立ち会いでもいい」
ララは端末の時刻を示した。
「逃げれば参加停止。ここで勝てば、少なくとも俺は黙る。技術に自信があるなら、悪くない条件でしょ」
玲司は考えた。
ララがどれほど上手くても、派手なギャルの印象から別人へ変わるには時間がかかる。対して、自分はすでに第二形態へ変わっている。道具も残っている。勝てる。
「いいだろう」
玲司は言った。
「ただし、公開するのは変装の技術だけだ。余計な説明はするな」
「了解」
ララは手を差し出した。
玲司は握らなかった。
七 アンマスク・セッション
《アンマスク・セッション》は、変装技術を楽しむための企画だった。
参加者は舞台上の二つの簡易ブースに入り、十分間で別の人物へ変わる。外す工程を見せる必要はなく、開始前と終了後の姿だけがスクリーンに映る。性別や本名を公開する義務もない。
玲司にとって、都合のいい舞台だった。
観客は、赤城ユナを白瀬澪と結びつけていない。彼は「ユナ」という現在の姿から、第三の人物へ変わればいい。
ララは銀色のジャケット姿で舞台へ上がった。
「桃瀬ララでーす。今日は本気で別人になります!」
歓声が上がる。
玲司も赤城ユナとして紹介された。
「飛び入りの赤城ユナさん。クールな衣装スタッフ風の人物から、どこまで変わるのか注目です」
司会の言葉に、玲司は軽く頭を下げた。
舞台脇には佐伯がいる。ララから事情を聞いているはずだが、企画を止めない。おそらく、玲司が自発的に本部へ戻る機会を作ったのだろう。
愚かだ。
勝てば、ララは黙る。
十分の変身が始まった。
玲司はブースへ入ると、赤い短髪ウィッグを外した。最後に残していた茶色のボブウィッグを装着し、前髪の位置を変える。目元の線を丸くし、口元の印象を弱める。外していた補整具の一部を別の位置に固定し直し、コートを裏返して淡い色の上着に変える。
白瀬澪とは違う。
赤城ユナとも違う。
名前をつけるなら、森川チカ。人懐こい二十四歳。玲司は声を少し高くし、早口で話す人物を組み立てた。
時間は七分。
残り三分で、細部を整える。
ブースの向こうから、ララの道具を置く音が聞こえる。彼も急いでいる。
玲司は鏡を見た。
勝った。
そう確信した。
終了の合図とともに、二人は舞台へ出た。
観客から大きなどよめきが起こる。
玲司は、赤城ユナから柔らかな印象の女性へ変わっていた。輪郭、髪形、姿勢、声。短時間の変化としては十分に強い。
一方、ララがいた場所には、地味な灰色のパーカーを着た青年が立っていた。
派手な金髪は消え、短い黒髪。メイクもほとんど残っていない。背を低く見せていた姿勢を伸ばしただけで、印象が大きく変わっている。
「九条蓮、二十四歳。衣装制作をしています」
落ち着いた男性の声。
観客はさらに驚いた。
玲司は、わずかに眉を寄せた。
ララ――九条蓮は、変装後の完成度ではなく、変化の幅を見せた。派手な十九歳のギャルから、無愛想な青年へ。わかりやすい。
だが、技術なら自分のほうが上だ。
投票が始まった。
結果は、赤城ユナ四十八票、九条蓮五十二票。
四票差。
玲司はスクリーンを見つめた。
負けた。
「約束、覚えてる?」
蓮が言う。
「観客は事情を知らない」
「投票は技術だけ。俺も何も説明してない」
「こんなもの、人気投票だ」
「それでも、条件に同意した」
玲司は笑った。
森川チカの人懐こい笑顔ではない。三津橋玲司の、相手を見下す笑いだった。
「同意したのは赤城ユナだ」
「言うと思った」
蓮は舞台脇の佐伯を見る。
佐伯が端末を操作し、舞台上のマイクを切った。客席には音が届かなくなる。司会者が「機材確認のため少々お待ちください」と案内し、スクリーンもイベントロゴへ切り替わった。
公開の見世物にはしない。
その対応に、玲司は一瞬だけ迷った。
佐伯が近づく。
「三津橋玲司さん。受付時の本人確認情報と照合しています。ここからは本部で話します」
本名を呼ばれた。
玲司の背中に冷たいものが走る。
「個人情報を勝手に」
「運営上の本人確認です。客席には聞こえていません」
佐伯は静かに続けた。
「あなたが誰の姿を演じるかは問題にしていません。問題は、複数の参加者が断った後も個別接触を続けたことと、年齢・属性について事実と異なる説明を用いて、密室での撮影へ誘導した疑いです」
「疑いだけだ」
「だから確認します」
「断る」
玲司は踵を返した。
舞台裏への階段を下りれば、搬入口へ出られる。
蓮が進路に立った。
「どけ」
「本部に行けば終わる」
「お前に関係ない」
「ある。俺の友達が、同じことをされた」
「知らない」
「そうだろうね。やった側は、たいてい覚えてない」
玲司は蓮の肩を押した。
蓮はよろめいたが、道を空けなかった。
「触るな」
「先に退け」
玲司はもう一度押し、蓮が持っていた端末へ手を伸ばした。録音を消そうとしたのか、自分でもわからなかった。
蓮が腕を払う。
その拍子に、玲司の茶色いボブウィッグへ指がかかった。
固定ピンが外れた。
ウィッグが斜めにずれ、片側の生え際とウィッグネットが露出する。
玲司は反射的に押さえた。
蓮は手を離した。
「今のは事故だ。もう触らない」
だが玲司は、蓮が後退した隙に走ろうとした。
佐伯が「止まってください」と声を上げる。
玲司のコートの裾が舞台装置の角に引っかかった。裏返して着ていた留め具が外れ、前が開く。上着の内側に固定していた外付けの補整パッドが一つ、床へ落ちた。
柔らかな布製の衣装部品。
客席からは見えない。スクリーンも切れている。
それでも玲司には、会場中に見られたように感じられた。
彼は落ちたパッドを蹴るようにして隠そうとした。
蓮が拾う。
「返せ」
「本部で返す」
「返せ!」
玲司が飛びかかる。
蓮は身を引き、玲司の手首ではなく、コートの袖をつかんだ。玲司は振りほどこうと体をひねる。ずれたウィッグが完全に外れ、床へ落ちた。
茶色い髪の下から、黒いネットと短い地毛が現れる。
玲司は蓮を突き飛ばした。
蓮の手には、ウィッグだけが残った。
「返せと言ってるだろ!」
女声は消えていた。
三津橋玲司の声が、舞台裏に響いた。
八 仮面を外す部屋
佐伯は警備スタッフを呼んだ。
玲司は逃げようとしたが、搬入口の扉はすでに閉鎖されていた。暴力的に押さえつけられたわけではない。ただ、出口の前に二人のスタッフが立ち、これ以上走れば退場処分だけでは済まないと告げた。
玲司は本部横の確認室へ移された。
室内には佐伯、蓮、女性スタッフ一人が同席した。扉は閉まっている。録音の可否が確認され、玲司は拒否した。運営は記録用のメモだけを取ることにした。
テーブルの上には、外れた茶色のウィッグと補整パッドが置かれている。
玲司は黒いウィッグネットのまま椅子に座っていた。
「まず、残っている衣装部品を外してください」
佐伯が言う。
「嫌だ」
「本人確認済みの三津橋さんとして話すためです。衣装そのものを問題にしているわけではありません。ですが、現在も別人の外見と声を使い続け、参加者とのやり取りについて説明を拒んでいます」
「化粧をしていたら話ができないんですか」
「できます。ただし、あなたは先ほどまで赤城ユナと森川チカを別人だと主張し、約束の主体まで否定しました。そのため、今回は演技を解除した状態で確認します」
「横暴だ」
「退場して警察への相談を含む対応に移すこともできます。ここで事実確認を行うか、どちらかです」
玲司は黙った。
蓮が壁際に立っている。桃瀬ララの派手な姿ではない。九条蓮として、無表情にこちらを見ていた。
「お前は出ていけ」
「俺の同席は拒否できる」
蓮は佐伯を見る。
「必要なら外に出ます」
玲司は一瞬迷った。
蓮を出せば、逃げたと思われる。
「そこにいろ」
「了解」
玲司は、シャツの上から着けていた衣装用コルセットの留め具に手をかけた。外から外せる舞台衣装で、肌を見せる必要はない。だが指が震え、うまく外れない。
蓮が一歩動いた。
「触るな」
「触らない。留め具、逆向きになってる」
「黙れ」
玲司は力任せに引き、金具を外した。コルセットをテーブルへ投げる。残っていた外付けの補整パッドも、上着の内ポケットから取り外した。
白瀬澪の輪郭が消える。
赤城ユナも、森川チカも消える。
それでも顔にはメイクが残っていた。眉の形、目元の陰影、輪郭を変える色。玲司はそれだけは守ろうとした。
佐伯がクレンジングシートを差し出す。
「顔も、です」
「必要ない」
「演技を解除した状態で確認します」
「化粧は俺の顔だ」
玲司の声が低くなる。
「勝手に奪う権利はない」
その言葉に、蓮の表情が初めて動いた。
「それは本当」
玲司は意外そうに彼を見る。
蓮は続けた。
「メイクも女装も、あんたのものだ。運営が罰として剥がすのは違う」
「九条さん」
佐伯が制止しようとする。
「でも」と蓮は言った。「今のまま別人だと言い張るなら、話が進まない。自分で落とすか、三津橋玲司として話すと明言するか、どっちかにしろ」
玲司はクレンジングシートを見た。
自分で落とせば、負けを認める気がした。
「俺は三津橋玲司だ」
「では、その声と名前で話してください」
佐伯が言う。
「メイクは強制しません」
玲司は息を吐いた。
だが、その直後、テーブルの端にある端末へ手を伸ばした。連絡先の交換記録を確認するため、スタッフが一時的に預かっていた彼の端末だった。
女性スタッフが止めるより早く、玲司はつかんだ。
「返せ!」
「確認が終わるまで預かることに同意しました」
「してない!」
玲司は立ち上がり、扉へ向かう。
蓮が前へ回った。
「また逃げるのか」
「どけ!」
玲司は端末を胸元へ抱え、蓮の脇を抜けようとした。
蓮は袖をつかむ。
玲司が振り向きざまに腕を振ると、蓮の手にあったクレンジングシートが玲司の頬へ当たった。強くこすったわけではない。だが、汗で浮いていた下地と輪郭の色が一筋、白いシートへ移った。
玲司は頬を押さえた。
「触るなと言っただろ!」
「悪かった。今のはわざとじゃない」
「嘘だ!」
玲司は蓮の手からシートを奪い、床へ投げた。その動きで、頬の片側だけメイクが崩れた。作り込んだ輪郭と本来の輪郭が、鏡の中で半分ずつ並ぶ。
蓮はもう近づかなかった。
「自分で続けるか、そのまま話すか。選べ」
玲司は鏡を見た。
片側だけ残すほうが、よほど惨めだった。
彼は新しいシートを取り、乱暴に目元を拭いた。色が落ちる。眉の線が消える。頬の陰影が薄れ、白瀬澪の柔らかさも、森川チカの親しみやすさも崩れていく。
一枚、二枚、三枚。
最後にウィッグネットを外す。
三津橋玲司が、鏡の中に戻った。
誰も笑わなかった。
そのことが、彼にはいちばん苦しかった。
九 暴かれたもの
確認は一時間近く続いた。
運営は、連絡先を交換した参加者へ個別に事情を聞いた。玲司が女性だと思っていた人、十九歳だと思っていた人、設定上の演技だと理解していた人。受け取り方はそれぞれ違った。
問題になったのは、性別そのものではない。
断った後にも接触されたこと。
「二人きりなら悩みを話せる」と誘われたこと。
身元を尋ねると話題をそらされたこと。
後で個別に連絡するよう促されたこと。
玲司は最初、すべて誤解だと言った。
次に、相手も楽しんでいたと言った。
その次には、連絡先を渡したのは相手の意思だと言った。
佐伯は一つずつ分けて確認した。
「連絡先を渡したことは、以後の誘いをすべて受け入れたことにはなりません」
「俺は脅してない」
「明確な脅迫の有無とは別です。断った後も誘いを繰り返したという申告があります」
「若い女に見えたから、みんな優しくしただけだ。それの何が悪い」
言ってから、玲司は口を閉じた。
佐伯がペンを止める。
「今の発言を確認します。若い女性に見える外見を利用した、という認識はありますか」
「違う。言葉のあやだ」
「白瀬澪を十九歳に設定した理由は?」
「創作だ」
「二十四歳や二十七歳ではなく、十九歳にした理由は?」
玲司は答えなかった。
蓮が壁際で腕を組んでいる。
「若いほうが警戒されにくいと思ったからだろ」
「黙ってろ」
「俺も十九歳設定だ。でも、交流カードに演者情報を出してる。あんたは隠した。違いはそこだ」
「正直に言ったら、誰も相手にしない」
室内が静かになった。
玲司は自分の言葉を取り戻せなかった。
「男だとわかったら警戒される。二十七だと言ったら、十九や二十の女は距離を取る。だから先に仲良くなってから説明しようとした。それだけだ」
蓮の目が細くなる。
「それだけ、じゃない。相手が最初に判断する材料を奪ってる」
「どうせ見た目で決めるくせに」
「決める権利は相手にある」
「お前は何でも正しいのか」
「正しくない。俺だってララの姿なら、普段より親切にされる。でも、その親切を利用して、断れないところまで押さない」
玲司はテーブルを見た。
黒髪のウィッグ、茶色のウィッグ、補整パッド、コルセット。道具はどれも壊れていない。並べられているだけだ。
罪の証拠ではない。
悪いのは道具ではない。
だからこそ、逃げ道がなかった。
佐伯が処分を伝えた。
「本日の参加資格を取り消し、今後一年間、当団体主催イベントへの参加を停止します。連絡先を交換した参加者には、三津橋さんの実年齢と、運営が把握している範囲の事情を通知します。連絡を継続するかは、各本人に決めてもらいます。継続を望まない人への接触は禁止します」
「俺の個人情報をばらすのか」
「あなたが個人的な関係を求めて交換した連絡先に限り、判断に必要な情報を伝えます。一般公開はしません」
「断ったら?」
「運営から警察や法律相談窓口への相談を検討します。現時点で、端末内の情報を無断で閲覧することはしません。ただし、本人たちの意思に反して連絡を続ければ、別の問題になります」
玲司は歯を食いしばった。
「わかった」
端末が返される。
彼は受け取ったが、すぐには画面を見なかった。
白瀬澪として交換した連絡先が並んでいる。
それは成功の数だと思っていた。
今は、相手から奪った判断の数に見えた。
十 九条蓮の敗北
退場の準備をしていると、蓮が確認室へ戻ってきた。
桃瀬ララの衣装は透明なケースに収められている。金髪のウィッグも、銀色のジャケットも、丁寧に畳まれていた。
「何しに来た」
「ウィッグ、返しに」
「そこにある」
「ピンが一本曲がってた。直した」
蓮は茶色のボブウィッグを差し出した。
玲司は受け取らない。
「捨てればいい」
「道具に罪はないって顔してたじゃん」
「知ったようなことを言うな」
「知ってるから言ってる」
蓮はケースを床へ置いた。
「俺も昔、女装で人を試したことがある」
玲司は顔を上げた。
「ララで話しかけたときと、蓮で話しかけたとき、人の態度がどれだけ変わるか。面白くて、わざと同じ人に別人として近づいた。秘密を聞き出して、後から正体を明かして笑った」
「お前も同じじゃないか」
「同じだった。だから、友達に切られた」
蓮は淡々と話した。
「その友達は、俺が女装してたことに怒ったんじゃない。自分の本音を実験材料にされたことに怒った。俺はしばらく、理解できなかった。騙されるほうが悪いって思ってた」
「今は善人になったと?」
「なってない。今日も、あんたを挑発した。勝負に乗るよう誘導した。ウィッグも事故とはいえ外した。メイクだって、結果的に落とす流れを作った。やり方が全部正しかったとは思ってない」
玲司は初めて、蓮の顔をまともに見た。
勝者の顔ではなかった。
「じゃあ、何がしたかった」
「止めたかった。あと、あんたの技術を、悪事そのものみたいに扱いたくなかった」
蓮はウィッグをテーブルに置く。
「白瀬澪、完成度は高かった。歩き方と視線が崩れなければ、俺も確信できなかった。二回目の変装も速かった」
「慰めか」
「評価。技術はすごい。使い方は最悪」
「結局、それを言いに来たのか」
「もう一つ」
蓮は少し迷い、続けた。
「アンマスクの投票、俺は勝ったけど、技術では負けてた」
「四票差で勝っただろ」
「俺はララの常連票を持ってた。あんたは飛び入り。純粋な比較じゃない」
玲司は笑いそうになった。
「なら、約束は無効か」
「それは別。条件は投票結果だったから」
「都合がいいな」
「うん」
蓮は認めた。
「でも、あんたが本気で作った第三の顔、良かったよ。誰かを騙すためじゃなく、舞台で見せるなら、ちゃんと見たい」
「二度と来るなと言われた」
「一年後なら参加できる。運営が許せば」
「来ると思うか」
「思わない。でも、捨てる必要もない」
蓮はケースを持ち上げ、扉へ向かった。
「九条」
「何」
「お前の友達に、俺が何かしたのか」
「違う人。少なくとも、名前も顔も一致しない」
「そうか」
「ただ、やり方は似てた」
蓮は扉を開ける。
「次に同じことをしたら、今度は止めるだけじゃ済まない。本人たちが正式に訴えるなら、俺も証言する」
「脅しか」
「警告」
最初に会ったときと同じ言葉だった。
扉が閉まる。
玲司は一人で、三つのウィッグを見つめた。
十一 連絡先の向こう側
会場を出ると、地上では雨が降っていた。
玲司は素顔のまま、黒いコートのフードをかぶった。メイクを落とした肌に夜気が刺さる。バッグは重い。ウィッグも補整具も、使った道具をすべて詰めている。
駅へ向かう途中、端末が振動した。
一件目。
《運営から説明を受けました。今後、個人的な連絡はしないでください》
二件目。
《女装していたこと自体は気にしていません。でも、十九歳だと思って話していたし、断った後も誘われて怖かったです。連絡先を削除してください》
三件目。
《私はイベント内だけの交流だと思っていました。今後の撮影はありません》
玲司は歩きながら読み、すぐに画面を消した。
腹が立った。
ララが余計なことをしなければ、うまくいっていた。
運営が大げさにしなければ、誰も傷つかなかった。
相手だって、その場では笑っていた。
そう考えた直後、三人目の女性が端末を出しかけ、ララに規約を見せられてしまった場面を思い出した。
彼女は、端末をしまった。
自分で断った。
その後、玲司は笑顔で「もちろんです」と言った。
だが、本当は別の機会を探すつもりだった。
断られた事実を、受け入れていなかった。
雨が強くなる。
玲司は駅の屋根の下へ入り、端末を開いた。
一人ずつ、連絡先を削除する。
削除したことを運営へ報告する義務はない。それでも、残しておけば、いつか酔った夜に連絡するかもしれないと思った。
五人目を消したところで、手が止まる。
一人だけ、メッセージが違った。
《今日の澪さんの衣装は本当にきれいでした。でも、私はあなたの事情を知らないまま、個人的に会う約束をするところでした。それが怖いです。技術と、したことは別だと思います》
玲司はその文を何度も読んだ。
責めるだけの文章ではない。
許す文章でもない。
技術と、したことは別。
蓮と同じことを言っている。
玲司は返信欄を開いた。
《誤解させたならすみません》
打って、消した。
《そんなつもりではありませんでした》
また消した。
どちらも、自分の意図を守る文章だった。
相手が何を感じたかではなく、自分が悪く見えないようにする言葉だった。
長い時間をかけて、短い文を打つ。
《年齢と立場を偽ったまま個人的に誘い、断られた後も接触しました。怖い思いをさせて申し訳ありません。連絡先は削除し、今後こちらから連絡しません》
送信する。
返事は来なかった。
当然だった。
十二 白瀬澪をしまう日
それから三か月、玲司は白瀬澪の衣装に触れなかった。
ウィッグも、ブラウスも、補整具も、箱の中に押し込んだままだった。捨てれば過去と切れる気がしたが、捨てる行為さえ、自分を被害者の位置へ置くための芝居に思えた。
ある日、臨時で入った撮影スタジオに、若い舞台俳優が来た。二十一歳の男性で、次の公演では年配の女性を演じるという。
「女に見せたいわけじゃないんです」
衣装合わせの席で、俳優は言った。
「その人が生きてきた時間を出したい。でも、監督からは、もっと女性らしくしろって言われて」
玲司は返答に困った。
以前なら、顔と体の線をどう変えれば観客が女性と認識するか、それだけを考えただろう。
「その役は、どう歩く」
「膝が悪い設定です。でも、人前では弱って見られたくないから、最初の三歩だけ背筋を伸ばします」
「好きなものは」
「古いラジオ。亡くなった夫の声が一度だけ録音されてる」
「なら、そこから作ったほうがいい」
玲司は鏡の前で俳優の姿勢を調整した。輪郭を大きく変えず、目元に疲れを置き、口元には意地を残す。衣装の厚みも、性別を誇張するためではなく、長年同じ服を着ている人物の生活感が出るよう整えた。
完成した姿を見て、俳優はしばらく黙った。
「この人、強そうですね」
「弱いところを隠すのが上手いだけだ」
「三津橋さんみたいですね」
玲司は睨んだ。
「初対面だろ」
「すみません。でも、メイクしてるとき、ずっと鏡じゃなくて、俺の手を見てたから」
他人の癖を読むのは、自分だけの特技ではない。
玲司はその夜、帰宅して白瀬澪の箱を開けた。
衣装を一つずつ点検する。曲がったピンを交換し、ウィッグをとかし、ほつれたブラウスの袖を縫う。補整具も洗い、乾かした。もう使わないと決めたわけではない。
ただ、白瀬澪を「若い女性だから近づきやすい人物」ではなく、一人の創作人物として作り直せる日が来るまで、表へ出さないことにした。
設定カードも書き直した。
《白瀬澪。二十七歳。舞台衣装の修繕師。人の服は直せるが、自分の間違いを直すのは遅い》
最後の一文を見て、玲司は紙を破りかけた。
気取りすぎている。
それでも捨てず、箱の底へ入れた。
十三 一年後の入口
一年後。
《ミラージュ・ジャンクション》の入口に、三津橋玲司は立っていた。
参加停止期間は終わっている。
だが、申し込めば参加できるわけではなかった。運営へ事前に連絡し、前年の件について再発防止の確認を受けた。個人的な接触を目的にしないこと。演者情報を求められた場合は虚偽を述べないこと。断られた相手へ再度迫らないこと。
玲司はすべてに同意した。
この一年で、彼は会社を辞めていた。
正確には、別件の勤務態度も重なり、契約を更新されなかった。その後、撮影スタジオの補助スタッフとして働きながら、舞台衣装の修繕を請け負った。
白瀬澪のウィッグは捨てなかった。
だが、今日は持ってきていない。
バッグに入っているのは、三津橋玲司として作った一着の衣装だった。性別を曖昧にした、鏡の案内人。年齢設定は二十七歳。演者情報にも、三津橋玲司、二十八歳、男性、と書いてある。
受付に佐伯がいた。
「お久しぶりです」
「どうも」
「確認事項は読まれましたか」
「はい」
「何か問題があれば、今回は即時退場になります」
「わかっています」
佐伯は玲司の顔を見た。
「参加を認めたのは、去年の行為が軽かったからではありません。相手方への接触をやめ、謝罪文を送り、その後の違反が確認されなかったからです」
「わかっています」
「では、楽しんでください」
受付を通る。
地下商店街には、去年と同じ青紫の光が落ちていた。
噴水広場で、派手な金髪が揺れる。
「え、マジで来たの?」
桃瀬ララが走ってきた。
十九歳設定のまま。銀色のジャケットも同じ。ただし、交流カードの裏には演者情報が明記されている。
「悪いか」
「悪くない。驚いただけ」
ララは玲司のバッグを見る。
「澪ちゃんは?」
「いない」
「ユナさんは?」
「いない」
「チカちゃんは?」
「名前まで覚えてたのか」
「俺が勝った相手だからね」
「人気票でな」
「まだ言う?」
ララは笑った。
玲司は周囲を見た。
女性参加者が何人もいる。目が合えば会釈する。以前なら、誰が警戒心を解きやすいかを考えていた。
今も、その癖が完全に消えたわけではない。
人の反応を読み、使える隙を探す。
だから玲司は、交流カードを首から下げ直した。
隠さないためではない。
自分が隠そうとしたとき、すぐ見える場所に置くためだった。
「今年は何になるの?」
ララが聞く。
「鏡の案内人」
「設定は?」
「二十八歳。仕事は、嘘を映す鏡の管理」
「自虐、重くない?」
「うるさい」
「見せてよ」
「完成してから」
玲司は更衣室へ向かう。
扉の前で、ララが呼び止めた。
「三津橋」
「何だ」
「去年の勝負、再戦する?」
「条件は」
「負けたほうが、勝ったほうの衣装修繕を一件、無料で引き受ける」
「安いな」
「じゃあ二件」
「受けてやる」
ララが手を差し出す。
去年、玲司はその手を握らなかった。
今回は握る。
強くも、親しげにもせず、ただ条件を確認するための握手だった。
「逃げるなよ」
ララが言う。
「お前こそ」
更衣室へ入る。
鏡の前に立つ。
箱の底には、去年書き直した白瀬澪の設定カードも入っていた。玲司は一度だけ取り出し、裏面に自分の本名と年齢を書き足す。澪を再び演じる日が来るかは分からない。ただ、次に彼女を外へ出すときは、誰かの判断を奪うためではなく、観客に一つの人生を見せるためだと決めた。
玲司は自分の顔を嫌ってはいない。
役に立たないとも、もう思わなかった。
顔は道具ではない。衣装も、声も、メイクも、人を支配するための鍵ではない。
それでも、別人になる技術を手放すつもりはなかった。
白瀬澪を作った手で、今度は嘘を暴く鏡の案内人を作る。
矛盾している。
だが、人間は一度仮面を剥がされたからといって、急に正しくなるわけではない。悪い癖も、卑怯な考えも、簡単には消えない。
消えないまま、使わないことを選ぶ。
それが、今の玲司にできることだった。
鏡の中で、三津橋玲司が目を開く。
その上に、新しい人物の輪郭が重なり始める。
鏡は以前よりほんの少しだけ、逃げずに見られるものになっていた。それで十分だった。
今度の仮面には、逃げ道ではなく、名前があった。




