おじさん、悪役令嬢として爆散を誓う
はじめまして。
妻想いの真面目なおじさんが、なぜか異世界の悪役令嬢に!?
不慣れな点もあるかと思いますが、楽しんでいただければ幸いです。
その夜、おじさんは、病気の妻と一緒にタクシーへ乗り込んだ。
まだ会場に向かうには少し早い時間だったが、おじさんにとっては「少し早い」ではなく「これでも遅いくらい」だった。学生時代、運動部で叩き込まれた習性というものは恐ろしい。集合時刻の三十分前に着いていなければ、どうにも落ち着かないのだ。
「まだ開場まで余裕あるのに」
隣で妻が、呆れたように笑う。
「途中で何があるかわからんだろう」
「タクシーに乗ってて?」
「それでもだ」
「ほんと、変わらないわねえ」
妻はそう言って、膝の上に乗せた小さなバッグを抱き直した。
その仕草ひとつが、おじさんには嬉しくもあり、怖くもある。
今夜は、彼の姪のコンサートだった。
姪は、今やテレビで見ない日はないほどの人気歌手である。昔は人見知りの、引っ込み思案な子だったのに、いったいどこであんな大舞台に立つ度胸を身につけたのか。おじさんにはよくわからない。ただ、退院祝いにぜひ来てほしい、と招待席を用意してくれたその気持ちは、ありがたかった。
「楽しみねえ」
妻は、窓の外に流れるネオンを見ながら言った。
「あの子、小さいころは私の後ろに隠れてばっかりだったのに。まさか、あんなふうになるなんて」
「ああ」
「泣かないでよ?」
「泣かん」
「絶対うるっとする顔してる」
「してない」
即答すると、妻はくすくす笑った。
その笑い声を聞いている間だけ、おじさんは胸の重石が少し軽くなる。
――再発の可能性があります。元気なうちに、いい思い出を作ってあげてください。
医者にそう告げられたのは、退院の少し前だった。
言葉は柔らかかった。だが、おじさんには遠回しに「もう助からない」と宣告されたようにしか思えなかった。
それ以来、おじさんには、街を歩く誰も彼もが幸せそうに見えた。家族連れも、恋人同士も、仕事帰りのサラリーマンも、騒いでいる学生たちも。みんな、当たり前のように明日が来ると思っている顔をしている。
自分だけが、そこから取り残されたような気がしていた。
「ねえ」
妻の声に、おじさんは我に返る。
「今日は楽しい日にしようって、決めたでしょう?」
妻はそう言って、おじさんの手の甲を軽く叩いた。
「病院でもなくて、検査でもなくて、お薬の話でもないのよ。せっかく二人で出かけるんだから、怖い顔は禁止」
「……わかった」
「よろしい」
妻は満足そうにうなずいた。
おじさんは、窓に映る自分の顔から目を逸らした。
笑っているつもりでも、きっとちゃんと笑えてはいない。
タクシーが滑るように止まる。
到着したコンサートホールは、夜の街の中でひときわ明るく輝いていた。壁面の巨大モニターには妻の姪が映し出され、眩しい照明が建物を彩っている。開演前の高揚感に満ちた人の波が、エントランスへ吸い込まれていく。
「わあ……」
妻が、子供のように目を輝かせた。
その横顔を見て、おじさんは思う。
病人なんかじゃない。ただ、今夜を楽しみにしている、いつもの妻だと。
「ゆっくり降りろ」
先に降りたおじさんは料金を支払い、妻の側に回って手を差し出した。妻はそれを取って慎重に足を下ろす。少しだけふらついたが、すぐに体勢を立て直し、照れくさそうに笑った。
「そんなに心配しなくても、ちゃんと歩けるわ」
「歩けるのと、無理していいのは別だ」
「はいはい」
係員が近づいてきて、招待客用の入口へと案内してくれる。
妻は「先にロビーで待ってるわ」と言い、おじさんはその肩にずり落ちかけたストールを掛け直した。
そのときだった。
不意に、音が消えた。
まるで誰かが、世界そのもののスイッチを切ったみたいに。
人のざわめきも、車の音も、遠くの信号機の電子音も、ホールの外に流れていた宣伝音楽も、何もかも一瞬で消え失せた。
「……え?」
自分の声だけが、やけにはっきり聞こえた。
おじさんは周囲を見回す。
係員は妻を案内する姿勢のまま止まり、
前を歩いていたカップルは笑顔のまま固まり、
風に揺れていたはずのコートの裾さえ、ぴたりと空中で静止していた。
巨大モニターの中で歌っていた姪も、マイクを握ったまま止まっている。
そしてガラス越しに見える妻もまた、こちらを振り返ろうとした格好のまま、時を止められていた。
「おい、おじさん」
女の声がした。
頭上からだ。
見上げると、ホール前のスポットライトが一本だけ、夜空に向かって白く伸びていた。止まったはずの世界で、その光だけが生きている。いや、違う。その中を何かが降りてきていた。
大きな翼。白いドレス。
そして、妙に中途半端な角度。
若い女が、頭をやや下にした四十五度くらいの姿勢で、するすると降下してくる。神々しいのに変だ。美人なのに出方がどうかしている。
「……」
「おじさん、今『変な降り方だな』と思っただろう」
女は、おじさんの目の前まで来ると、したり顔で言った。
「真上からまっすぐ頭を下にして降りると怖いからな。かといって足から降りると、見せてはならぬものまで見える危険がある。ゆえに、この斜め四十五度が最適解なのだ。重力も足裏に設定してあるので、スカートも乱れぬ」
すとん、と女は地面に降り立った。
「……何か期待したか?」
「あのう、失礼ですがどちら様でしょうか」
「女神だ」
胸を張って言った。
「ふふふ。口説こうとしても無駄だぞ。連絡先は教えぬ」
「女神様……連絡先をお持ちで」
「今どき神も連絡手段なしではやっていけぬ」
話が妙な方向へ逸れている気がした。だが、夢ではないらしい。石畳の冷たさも、止まった妻の姿も、あまりに生々しい。
「それで、女神様が私に何の御用でしょうか」
「取引をしに来た」
女神は、コンサート帰りに食事でも誘うみたいな気軽さで言った。
「無限にある異世界の一つが今、かなり面倒なことになっていてな。そこの悪役令嬢に生まれ変わって、悪役らしく破滅して爆散してほしい」
「……はい?」
「呪いだの恨みだの負の感情だの、そういうのが一箇所に溜まりすぎておる。そこで、おじさんには派手に散ってもらう。どかーんと」
「まったく意味がわかりませんが……」
「うむ、わからぬよな。なので条件を先に言おう」
女神は、ガラス越しの妻を指さした。
「おじさんのカミさんを、完璧な健康体にする」
おじさんは息を呑んだ。
「再発の心配もなし。後遺症もなし。痛いのも苦しいのも終わりだ。年相応に元気で、食べたいものを食べ、行きたいところへ行き、笑って生きていける身体にしてやる」
世界が急に近くなった。
止まっている景色の中で、妻だけがやけに鮮明に見える。
病室の白い天井。
点滴の管。
痩せた指先。
眠っているときさえ消えなかった苦しそうな皺。
あれが全部終わるのなら。
「……本当に、助かるんですか」
「女神を名乗っておいて、そこを嘘はつかぬ」
「この先も、普通に暮らせるんですか」
「暮らせる」
「また、二人で出かけたり」
「できる」
「笑ったり」
「する」
迷う理由はなかった。
おじさんは深く頭を下げた。
「わかりました。引き受けます」
「即決だな」
「私がどうなっても構いません。妻が助かるなら、それでいい」
女神は少しだけ目を丸くし、それからにやりと笑った。
「そう気負うな、おじさん。爆散すると言っても痛くもかゆくもない。異世界ライフを満喫したら、ちゃんと今のこの時に戻してやる。おじさんの知識と経験を活かして好きに立ち回れ」
「今の、この時に……戻れるんですか」
「戻れる。だから安心して散ってこい」
安心して散ってこい、という日本語はなかなかどうかと思う。
だが、妻が助かるならそんなことはどうでもよかった。
女神が指を鳴らす。
止まっていた光が、一斉にほどけた。ホールの照明、街のネオン、巨大モニターの色彩――そのすべてが細かな粒になって浮かび上がり、おじさんの周囲を渦のように巡る。
「それでは契約成立!」
視界が白く弾けた。
おじさんは、その場で意識を失った。
◇
暗い部屋で、おじさんは目を覚ました。
そこは広い寝室で、自分は天蓋付きのベッドに横たわっていた。重たいカーテン、豪奢な調度品、見たこともない意匠の家具。どう見ても日本ではない。そもそも、おじさんの知るどのホテルよりも貴族趣味だった。
身を起こすと、窓際に赤い炎のようなものが浮かんでいる。その傍らには、豪華なドレスをまとった黒髪黒目の美少女が立っていた。暗闇の中でも、不自然なくらいはっきり見える。
少女がこちらへ歩み寄ると、炎もそれに従うようについてきた。
「グッドモーニング、おじさん」
「は、はい、おはようございます」
反射で挨拶を返してから、おじさんは窓の外の暗さを見た。
「……夜中のようですが」
「女神様がおっしゃいましたの。あなたが目覚めたら、そうお伝えするようにと」
少女は、とても上品に微笑んだ。
「失礼ですが、貴女様は?」
「私はあなた自身――いえ、正確には、あなたが今入っておられるこの体の、元の持ち主ですわ」
おじさんは固まった。
「では、私は本当に……」
「ええ。異世界にいらっしゃいましたの」
少女は、赤い炎をそっと手で示した。
「そして、この浮遊する炎は、あなたの世界で言うところの『人魂』でございます」
「ひ、人魂……」
「安心なさって。まだ死んでいるわけではありませんわ。魂が抜けているだけですもの」
その安心の仕方は初めて聞いた。
おじさんが言葉を失っていると、少女は柔らかな声で続けた。
「申し遅れました。私はルビー。この体の、本来の持ち主ですわ」
「申し訳ありません。私のせいで、あなたがそんな姿に……」
「いいえ。私も納得の上で契約いたしましたの。このままでは世界が滅び、私も死んでしまう定めだったそうですもの。でしたら、せめて次は、もう少し自由に生きてみたいと思いましたの」
「自由に……」
「ええ。仕事ですとか、恋愛ですとか。貴族の娘としてではなく、自分で選んで生きられる世界へ行ってみたいと、そう思いましたの」
黒髪の少女は、少し照れたように微笑んだ。
その笑みは年相応に可愛らしく、こんな子の人生を背負うのかと、おじさんは急に責任の重さを感じた。
そのとき、どこかで鐘の音が鳴った。
少女の体が、七色の光をまとって輝き始める。星屑のようなきらめきが、ふわりと周囲に舞った。
「そろそろ、お時間のようですわ」
「え……」
「どんな世界に生まれ変わるのかしら。少し怖いけれど、楽しみです」
少女は、おじさんをまっすぐに見た。
「今までの私の体にも、『ありがとう』と言わせていただきます」
そして、ふと思い出したように言い添える。
「――それから、おじさん。ピンキーという名のメイドを、大事にしてあげてくださいね」
「ピンキー?」
「とても優しい子ですから」
鐘の音が強まる。
光が弾け、少女の姿は消えた。
あとには、しんとした静寂だけが残る。
「ああ……本当に、来てしまったんだな……」
おじさんは、自分の手を見下ろした。
白く細い。どう考えても、おじさんの手ではない。美しい令嬢の手だった。
「悪役令嬢に生まれ変わって、最後は爆散しろ……だったか」
とんでもない話である。
妻のためとはいえ、引き受けてしまったのだから仕方がない。
だが、それにしても。
「ピンキーって、誰だ……?」
その名を口にした瞬間。
屋敷のどこか遠くで、眩い光と鐘の音に気づき、ピンキーと言う名のメイドが顔を上げていたことを――このときのおじさんは、まだ知らなかった。
屋敷のホールには明かりが灯り、ドルドア公爵家の使用人たちが舞踏会の準備に忙しく追われていた。
「ピンキー、交代しましょう。朝からずっと休んでいないじゃない。部屋で仮眠してきなよ」
まだあどけなさが残る顔をしたメイドのルーが言った。
「そうね、正直疲れたわ。少し部屋に戻って休むわね。30分経っても戻らなかったら、悪いけれど起こしに来て」
ピンキーがそう答えた瞬間だった。窓越しに見える公爵令嬢・ルビー様の部屋から、鐘の音が響き、眩い光が溢れ出した。
「お嬢様の部屋から聞こえるわよね、鐘の音。光も……ねえ、ルー?」
「え? 何も聞こえないわよ。光って何のこと?」
ピンキーはルーの返事を待たず、弾かれたように駆け出した。
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