おじさん、悪役令嬢として爆散を誓う
はじめまして。
妻想いの真面目なおじさんが、なぜか異世界の悪役令嬢に!?
不慣れな点もあるかと思いますが、楽しんでいただければ幸いです。
おじさんは走っていた。仕事帰りに妻へのプレゼントを買い、鞄に入れて猛烈な勢いで走っていた。退院祝いに久しぶりのデートをしようと計画していたのだ。歩いても十分に間に合う時間ではあるが、学生時代の運動部の習性で「30分前には集合していないと不安」なのだ。
すれ違う人々は皆、幸せそうに見えた。おじさんは妻のことばかり考えている。医者にこう言われたのだ。
「再発の可能性があります。元気なうちに、いい思い出を作ってあげてください」
それは遠回しに「もう助からない」と言われているようだった。おじさんは、世界中で自分だけが不幸のどん底にいるような気がしていた。
待ち合わせ場所に指定した喫茶店のドアの前まで来た。全く息は上がっていない。おじさんは健康そのもので、トレーニングも欠かしたことがない。妻と出会った学生時代から病気ひとつせず、「この人を守らねば」という強い意識が体を丈夫に保っているのだろう。
自動ドアのタッチセンサーに触れようとした時、異変に気付いた。
音がしない。耳が聞こえなくなったのかと思ったが、違った。驚きの声を上げた自分の声は、はっきりと聞こえたからだ。周りを見渡すと、すべての動きが止まっていた。
ガラス越しに見える店内に、妻の姿はなかった。いつも遅れてくる彼女のことだ、当然かとおじさんは思った。この異変に妻が巻き込まれていないことを祈りつつ、周囲を見渡す。
「おい、おじさん。さっきから何をキョロキョロしているんだ」
頭上から声がした。見上げると、大きな翼の生えた白いドレスの若い女性が、45度ほどの角度で頭からゆっくりとおじさんの顔面に迫ってきていた。
「おじさん、変な登場の仕方だと思っただろう? 頭を下に90度、真上から降りるのも変だし、足からだと見せてはいけないものまで見えてしまうからな。重力を足の裏に設定しているから、服がめくれることもないのだ。……何か期待したか?」
その女性は、おじさんの目の前にすとんと降り立った。
ドラマのように大げさに狼狽えたりはしないものだな、と自分に起きた異変についておじさんは思った。
「あのう、失礼ですがどちら様でしょうか」
「女神だ。ふふふ、口説こうとしても無駄だぞ。アドレスも教えぬ」
「女神様……アドレスをお持ちで。……それで、どのようなご用件で私のところへおいでになったのでしょうか」
「おお、おじさんと取引をしようと思ってな。無限にある異世界の一つが今、大変なことになっていてな。手短に言うと、そこに住む悪役令嬢に生まれ変わって、悪役らしく破滅して爆散してほしいのだ。その世界の呪いとか恨みとか、そんなのを引き連れてドカーンと派手にな」
「おっしゃる意味がわかりませんが……取引というのはどういうことですか」
「そう、それな。おじさんのカミさんを完璧な健康体にする。……どうかな、と思ってな」
「カミさんが完璧な健康体に」と女神様は言った。
ならば、迷うことなどない。引き受けようじゃないか。安いものだ、とおじさんは思った。
「わかりました、引き受けましょう。たとえわが身がどうなろうと、妻が助かるのでしたら」
「おじさん、そう気負わずともよいのだ。爆散しても痛くもかゆくもない。異世界ライフを満喫したら、今のこの時に戻してやる。おじさんの知識と経験を活かして立ち回ればよい。……それでは、契約成立!」
おじさんは、突然意識を失った。
暗い部屋で気がついた。そこは広い部屋で、自分は天蓋付きのベッドに横たわっていた。身を起こしてみると、窓際に赤い炎のようなものが浮遊している。その傍らには、豪華なドレスを纏った黒髪黒目の美少女が立っているのが、暗闇の中でも不自然なほどはっきりと見えた。
少女が歩み寄ってくると、炎もそれに従うように付いてくる。彼女はおじさんのすぐ傍まで来ると、静かに口を開いた。
「『グッドモーニング』、おじさん。……女神様がおっしゃいましたの。あなたが目覚めたら、そうお伝えするようにと」
「は、はい、おはようございます。……今は夜中のようですが、あの、失礼ですが貴女様は?」
「私はあなた自身……あなたが今入っておられる、この体の元の持ち主ですわ。そして、この浮遊する炎は、あなたの世界で言うところの『人魂』でございます」
おじさんは少し慌てた様子で応答した。
「申し訳ありません。私のせいで、あなたがそのような姿になってしまったのですか? だとしたら……」
「いいえ。私も納得した上でのことですわ。このままおじさんの助けがなければ、この世界は滅び、私も死んでしまう定めにありましたから。結局、結果は同じですの」
「ですが、世界が滅びるより先に、幽霊になってしまっていますが……」
「いいえ、まだ死んでいるわけではありませんわ。魂が抜けているだけです。私は女神様と契約いたしましたの。貴族としての生活に不満があったわけではなく、政略結婚も当たり前のことだと思っておりました。けれど、女神様とお話ししたとき、もう少し自由な生き方ができたら素敵だな……と思いましてね。仕事ですとか、恋愛ですとか。ですから、私が望む生き方ができる世界へ生まれ変わらせていただくこと。それを条件に、契約いたしましたの」
鐘の音が響いてきた。すると突然、魂の少女が輝きだした。七色のキラキラとした、星のような光が周囲に舞っている。
「そろそろ、お時間のようですわ。どんな世界の、どんな人に生まれ変わるのかしら……楽しみです。今までの私の体にも『ありがとう』と言わせていただきます。……それから、おじさん。ピンキーという名のメイドを大事にしてあげてくださいね」
鐘の音も、光も、少女も消えた。
「ああ、生まれ変わったんだな……。ピンキーと言っていたが、メイドさんを大事にとは、一体……」
屋敷のホールには明かりが灯り、ドルドア公爵家の使用人たちが舞踏会の準備に忙しく追われていた。
「ピンキー、交代しましょう。朝からずっと休んでいないじゃない。部屋で仮眠してきなよ」
まだあどけなさが残る顔をしたメイドのルーが言った。
「そうね、正直疲れたわ。少し部屋に戻って休むわね。30分経っても戻らなかったら、悪いけれど起こしに来て」
ピンキーがそう答えた瞬間だった。窓越しに見える公爵令嬢・ルビー様の部屋から、鐘の音が響き、眩い光が溢れ出した。
「お嬢様の部屋から聞こえるわよね、鐘の音。光も……ねえ、ルー?」
「え? 何も聞こえないわよ。光って何のこと?」
ピンキーはルーの返事を待たず、弾かれたように駆け出した。
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