2話 1限の前に屋上へ
朝の空気は、やけに澄んでいた。
瞬は目を開ける。
見慣れた天井。
カーテンの隙間から差し込む光。
スマホのアラーム。
――夢か。
心臓が速い。
何か、とても大事なことがあった気がする。
でも掴めない。
制服に袖を通しながら、瞬は妙な疲労感に気づく。
寝たはずなのに、眠い。
脳の奥が重い。
教室。
「今日から転校生が来ます」
昨日と同じ声。
同じ間。
同じ教室のざわめき。
瞬の指先が、わずかに冷える。
ドアが開く。
黒髪。ぱっつん。
少し濃いアイライン。
首元の細いチョーカー。
「ミナトです」
昨日と同じ声。
だが。
彼女の視線は、まっすぐ瞬を捉えていた。
一瞬。
ほんの一瞬だけ。
“やっぱり”という表情をした。
席につく前。
ミナトは担任に何かを耳打ちし、
一度だけ教室の後ろを振り返る。
瞬と目が合う。
そして。
唇だけが動く。
――屋上。
瞬は息を飲む。
次の瞬間、彼女は何事もなかったように前を向いた。
一限目開始五分前。
瞬は立ち上がる。
理由はわからない。
でも、行かなければいけない気がした。
階段を上る。
足音が、やけに響く。
屋上の扉の前。
深呼吸。
ドアを開ける。
灰色の空。
そして。
「遅い」
ミナトが立っていた。
腕を組んでいる。
少し不機嫌そう。
でもその目は、ほっとしていた。
「なんで呼び出した」
「確認」
「何を」
ミナトは近づく。
距離が近い。
昨日と同じ距離。
違うのは――
今日はまだ朝だということ。
「今日、何か覚えてる?」
瞬は眉をひそめる。
「何が」
ミナトの瞳が、ほんの少し揺れる。
「……そう」
彼女は視線を逸らした。
ツンとした顔。
でも拳は震えている。
「今日、18時まで生きて」
唐突だった。
瞬は笑う。
「当たり前だろ」
ミナトの目が、一瞬だけ潤む。
「……うん。今回は、まだ普通だから」
まただ。
“今回は”。
瞬の胸の奥が、ざわつく。
「何回目なんだよ」
冗談半分で言った。
ミナトの呼吸が止まる。
そして。
小さく、呟く。
「99回目」
瞬は笑う。
「中二病?」
ミナトは近づく。
胸元を掴まれる。
距離、ゼロ。
「ふざけてない」
その目は本気だった。
瞬の心臓が跳ねる。
なぜか怖い。
なぜか懐かしい。
チャイムが鳴る。
ミナトは手を離す。
一歩下がる。
「今日は、落ちない」
「落ちるって何」
「……夕方になればわかる」
彼女は踵を返す。
扉に手をかける直前。
振り返らずに言う。
「瞬。私のこと、嫌い?」
突然すぎる。
「は?」
「答えて」
風が強い。
瞬は戸惑う。
「別に……嫌いじゃない」
沈黙。
ミナトの肩が、わずかに震える。
「それだけで、今日は足りる」
扉が閉まる。
瞬は一人、屋上に残される。
腕時計を見る。
8時27分。
針は正常に動いている。
でも。
秒針の音が、やけに大きい。
カチ。
カチ。
カチ。
まるで――
カウントダウン。
放課後。
17時40分。
昨日と同じ時間。
瞬は無意識に屋上へ向かう。
そこに、ミナトはいない。
17時47分。
扉が開く。
息を切らしたミナト。
「よかった……」
安堵。
それは本物だった。
「何が」
「今日は、まだ普通」
彼女は瞬の腕を掴む。
強く。
必死に。
「18時を越えれば、今日は勝ち」
「何に」
「私たちの負けに」
意味がわからない。
でも。
心臓が速い。
17時59分。
世界が静まる。
瞬の視界が、わずかに歪む。
昨日と同じ感覚。
ノイズ。
落下のイメージ。
空。
ニュース。
白い光。
「瞬」
ミナトが言う。
「今日は、生きて」
18時00分。
世界は――
何も起きない。
静かだった。
風が吹く。
街は普通。
空は灰色。
瞬は瞬きをする。
「……越えた?」
ミナトの目から、涙がこぼれる。
でも。
その涙は、安堵ではなかった。
恐怖だった。
彼女は震える声で言う。
「違う」
瞬の背後。
屋上の時計。
秒針が止まっている。
18時00分のまま。
動かない。
瞬の心臓が強く鳴る。
世界は進んでいるのに、
時間だけが、止まっている。
ミナトが囁く。
「まだ、始まってないだけ」
空の色が、ゆっくりと濃くなる。
夜にならない。
夕方のまま。
永遠の18時。
瞬はまだ知らない。
今日、死ななかった代わりに。
世界が“待機状態”に入ったことを。
そして本当のカウントダウンは、
ここから始まることを。




