1話 僕の名前は瞬
光はいつも薄かった。
春なのに、校舎の廊下はどこか冬の匂いがする。
ワックスの匂い、湿ったロッカー、窓の外の曇天。
瞬は、ただ歩いていた。
誰とも目を合わせず、
誰にも呼ばれず、
教科書を抱えたまま、ただ前を向いて。
世界は均一だった。
友達の笑い声も、
教師の注意も、
昼休みのざわめきも、
すべて遠い。
まるで水の中にいるみたいに。
時計を見る。
17時12分。
理由はわからないのに、
この時間帯になると胸がざわつく。
夕方が嫌いだった。
終わる感じがするから。
チャイムが鳴る。
放課後。
瞬は自然に階段へ向かった。
上へ。
誰もいない場所へ。
屋上の扉の前に立つと、
一瞬だけ、息が浅くなる。
――ここで、何かを忘れている気がする。
でも思い出せない。
ドアを開ける。
灰色の空。
低く垂れ込めた雲。
街の音が遠い。
瞬は柵に近づき、空を見上げた。
17時48分。
あと12分。
何があるわけでもないのに、
心臓が妙に速い。
そのとき。
「やっぱり来た」
声がした。
振り向く。
知らないはずの少女が立っている。
黒髪。ぱっつん。
少し濃いめのアイライン。
首元に細いチョーカー。
地雷系、という言葉が浮かぶ。
でも彼女の目は、妙に落ち着いていた。
「……誰?」
「転校生。今日からこのクラス」
ああ、そういえば朝、自己紹介があった。
ミナト。
確か、そんな名前だった。
彼女はゆっくり近づく。
距離が近い。
「瞬」
なぜか名前を呼ばれる。
「なんで俺の名前」
「知ってるから」
即答。
瞬は眉をひそめる。
「初対面だろ」
ミナトは小さく笑った。
「そうだね。今回は」
一瞬だけ、違和感。
“今回は”?
聞き返そうとした瞬間、
彼女の視線が腕時計に落ちる。
17時52分。
わずかに、彼女の指が震えた。
「ねぇ」
ミナトが言う。
「今日、落ちないで」
瞬の背筋が冷える。
「……何の話だよ」
「別に」
彼女は視線を逸らす。
でもその目は、
泣きそうだった。
風が強くなる。
柵の向こうに広がる街。
遠くのクラクション。
空は、重い。
17時56分。
なぜだろう。
足元が、吸い寄せられるような感覚。
ここから一歩踏み出したら、
何かが終わる。
何かが楽になる。
そんな錯覚。
「やめて」
ミナトの声が低くなる。
本気の声。
瞬は彼女を見る。
初対面のはずなのに、
なぜか懐かしい。
胸が痛い。
「俺さ」
自分でも驚くほど自然に言葉が出る。
「最近、何も感じないんだよね」
空っぽ。
笑っても、
食べても、
寝ても。
「だから?」
ミナトの声が震える。
「だから……」
続きが出ない。
何を言おうとしたのか、自分でもわからない。
17時58分。
ミナトが一歩踏み出す。
瞬の腕を掴む。
その手は冷たい。
でも必死だった。
「今回は、絶対にダメ」
また“今回は”。
「何回目なんだよ」
無意識に口から出た。
ミナトが凍る。
17時59分。
世界がやけに静かになる。
瞬の視界が一瞬だけ歪む。
ノイズ。
頭の奥で何かが軋む。
――落ちる。
そんなイメージがフラッシュする。
自分の背中。
空。
遠ざかる屋上。
ニュースのテロップ。
知らない声。
知らない涙。
知らない少女。
「瞬!!」
名前を叫ばれる。
18時00分。
世界が白く弾けた。
次の瞬間。
教室だった。
朝の光。
教師の声。
「今日から転校生が来ます」
心臓が跳ねる。
ドアが開く。
黒髪の少女。
「ミナトです」
低い声。
教室の空気が揺れる。
瞬の胸の奥がざわつく。
知らないはずなのに。
なぜか、安心する。
彼女と目が合う。
一瞬だけ、
悲しそうに微笑んだ。
口が動く。
小さく。
誰にも聞こえない声で。
「99回目」
瞬は理由もなく、
腕時計を見る。
朝なのに。
針は正常に動いている。
なのに、
胸の奥で何かが削れる感覚。
何か大切なものが、
最初からなかったことにされるような。
ミナトが席につく。
窓際。
視線が絡む。
彼女はすぐ逸らす。
ツンとした表情。
でも机の下で、拳を強く握っていた。
チャイムが鳴る。
世界は普通に進んでいる。
でも、
どこかが歪んでいる。
瞬はまだ知らない。
今日の18時が、
本当の最後だということを。




