第5話「透明な英雄」
「腹減ったー……」
森の中、小さな泉のそばでごろりと寝転びながら、悠斗は声にならない声を漏らした。
朝の空気はひんやりと澄んでいる。
鳥の声、木々のざわめき、どこか心地よい静けさ――
だが、そんな自然の恵みだけでは、空腹は満たされない。
「ていうか……風呂入りたい。マジで」
水面に映った自分の姿は、あまりにも野生的だった。
髪は跳ね放題、服には土と草の染み。
高校の友人に見せたら、全員が泣いて笑うレベル。
「……文明が恋しい。コンビニ、シャワー、ふかふかの布団……」
肩に乗っていたクロノが「にゃ」と一声鳴く。
「お前はいいよな。毛づくろいで完結してて……」
気づけば、そんな他愛ない言葉をかけるのも自然になっていた。
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◆
村は静かだった。
盗賊団の襲撃騒動が収まり、ようやく人々に日常が戻ってきている。
「……って言ってたんだよ、本当に。誰もいなかったんだってさ」
「でも鍵が外れてたって……不思議すぎるよな」
「“透明な神さま”って話、うちの爺さんもしてた」
聞こえてくるのは、あちこちで囁かれる噂話。
子どもたちが目を輝かせ、大人たちは半信半疑ながらも、
“何者かが村を守ってくれた”という物語を、どこか嬉しそうに語っていた。
(なんか……照れるな)
姿を見せないまま村を歩く。
もちろん誰にも気づかれない。
けれど、かすかに自分の存在が“残っている”気がして――
そのことが、少しだけ心をあたためてくれる。
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日陰の畑で、年老いた農夫が道具を落とした。
何度も腰をかがめて拾おうとするが、うまくいかない。
(よっと)
悠斗は無言で道具を拾い、農夫の手元に置いた。
気づかれないまま。
「……ん? あれ? わし、いつ拾ったっけ?」
農夫は不思議そうにしながらも、軽く笑って作業に戻った。
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物陰からその様子を見ていたクロノが、悠斗の足元でくるりと回ってしっぽを巻いた。
「これで今日も、誰かひとり助けたな」
声は届かない。名も呼ばれない。
でも、確かに“誰かの一日”が少しだけ明るくなった。
それでいいと思えた。
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村のはずれ、小さな祠の前。
「この辺りには、“いない者”が守ってくれているらしい」
祠を見守る神職の男が、ぽつりとつぶやいた。
「その姿は誰にも見えず、声も聞こえず、ただ困っている人のそばに現れる。……まるで風のようにな」
噂は、少しずつ“伝説”になろうとしていた。
(俺のことなんて、ほんとは誰も知らないのに……)
でも、悠斗はそれを止めようとは思わなかった。
むしろ、**“誰にも見えないからこそできること”**があると、ようやく気づき始めていた。
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その夜。森の中。
焚き火もない。声も光もない。
静かな夜を、悠斗とクロノは寄り添って過ごしていた。
「不思議だよな。誰にも認識されないなんて、最初は地獄かと思ったのに……」
クロノが膝の上で喉を鳴らす。
「……今は、ちょっとだけ、ありがたいって思えるよ」
世界から消えかけたはずの存在が、
誰かの役に立てている。
見えなくても、そこにいる。
――そんな実感が、悠斗の胸の奥に、静かに灯っていた。




