第1話「転移先で、誰にも気づかれなかった」
「――ここ、どこだ……?」
湿った草の感触。
差し込む木漏れ日。
虫や鳥の気配すらない、静かな森の中。
さっきまで、駅前の横断歩道で信号を待っていた。
スマホを見ていたその一瞬、視界が真っ白になり――
気づけば、ここに立っていた。
(夢……? いや、これは――)
脳の奥に、何かが流れ込むような感覚が走る。
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《異世界転移を確認》
適応スキル【存在薄弱】を付与します。
このスキルにより、対象は他者から認知されにくくなります。
生物・魔物・知的存在からの注意・記憶への定着率が大幅に低下します。
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「……は?」
どこかで見たような“システムメッセージ”に目を疑う。
チートスキルとか、戦闘能力じゃない。
よりによって、“存在感ゼロ”系。
(いやいや、転移して最初にこれって……)
ためしに道らしき方向へ歩く。
森を抜け、小さな村の入り口が見えたころ、数人の旅人が近づいてきた。
「すみません! 道を――」
……誰も、立ち止まらない。
声は届いているはずの距離なのに、完全な無視。
いや、“無視”じゃない。存在そのものが、見られていない。
(……マジか)
道をふさぐように立っても、自然に避けられる。
反応はある。でも、意識には入らない。
まるで“そこに何かある”ことは分かるけど、“それが人間だと認識されない”ような、異様な感覚。
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村に入っても、状況は同じだった。
人混みの中を歩いても、誰もこちらに目を向けない。
挨拶しても、肩に触れても、誰一人として反応しない。
「本当に……誰にも、見えてないのか……」
喉が渇いても、井戸で水を汲む姿を誰も気に留めない。
ベンチに座れば、隣の人が不思議そうな顔で空間を見つめてから立ち去った。
(このスキル……生活すらできないじゃん)
日が落ち、食堂にも宿にも入れず、
とうとう馬小屋の干し草に腰を下ろす羽目になった。
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風が冷たい。
草の匂いが服に染み込んでいく。
誰にも見られず、話しかけられず、ただただ「存在しない」ように扱われるこの世界。
その静けさが、少しずつ心を削っていく。
そのときだった。
「……え?」
足元に、小さな気配を感じた。
藁の陰から現れたのは、一匹の黒猫。
つややかな毛並みを揺らしながら、ぴたりと悠斗の目の前に立ち止まる。
じっと、こちらを見ていた。
はっきりと、明確に、“目が合った”。
「……見えてる、のか?」
おそるおそる声をかけると、
猫はにゃあと短く鳴いて、
悠斗の膝にぴょんと飛び乗った。
(……本当に、見えてる)
柔らかな毛の感触。
あたたかい重み。
どこにも居場所がなかったこの世界で、
ようやく、誰かが自分を見つけてくれた。
「ありがとう……」
目を細める猫の頭を、そっと撫でる。
猫は心地よさそうに目を閉じて、
悠斗の膝の上で、静かに丸くなった。
その温もりに包まれながら、
悠斗はようやく少しだけ、前を向ける気がした。