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9.俺の妻

 冬の陽を受けるガラス張りの温室は、外の雪が嘘のように暖かかった。小さな噴水の音。銀のティーセットが光を返し、香り高い茶葉の蒸気がゆるやかに立つ。


 「まあ、海の国の姫さまだこと」


 飴色の髪を結い上げた若い伯爵令嬢が、唇だけ笑って声をかけてきた。従う侍女は一人もいない。フィリアは、いつもの笑顔をきちんと顔にのせる。


「ごきげんよう。お招きありがとうございます」

「お噂はかねがね。──太陽姫、でしたかしら」


 太陽、の音にだけ、わずかな毒が混ざった。隣の令嬢が扇で口元を隠して笑う。


「ほんとうに眩しい笑顔。ねえ、わたくし、ああいう作り物って努力が必要で羨ましいですわ」

「まあ、意地悪。言い過ぎよ、リーネ。……でも、王子妃ともなると、笑ってさえいれば何とかなるのね」


 笑ってさえいれば。フィリアは微笑の角度を半分だけ下げた。笑えば、誰も刃を向けない。笑えば、誰にも見破られない。幼い日の光のない部屋で覚えた、生き延びる術。


「銀月の寒さは、お辛くなくて?」

「ええ、冷たさも心地よいです。雪はとてもきれいですし」

「それにしても、第二王女とは便利な肩書き。生まれも育ちも関係なくてよくって」

「ねえ、王子はご存知なのかしら。──出自のこと」


 出自。


 扇の影で視線が絡む。噴水が一度だけ高く水を弾いた。フィリアは、笑顔に薄い膜をかけ直す。

 遠い遠い懐かしい風景が浮かんだ。裸足で駆けまわった大地、花を摘んだ庭園、緑の国。

 ──大丈夫。

 まだ、本当のことはバレていない。

 彼女たちは海の国の第二王女であるフィリアを馬鹿にしているのだ。決して、緑の国の王女・オフィーリアのことではない。


「王子は、とても聡明なお方です」

「聡明だからこそ、ね。……わたくしたち、王家の血筋を大切に思っていますの。城の権威は純度で保たれるもの。誰彼かまわず“姫”とお呼びしていては」

「礼儀が廃れますわよねぇ」

「……」


 ここで怒っても、傷だけが増える。笑えば、嵐はやり過ごせる。そう、ずっとやってきた。フィリアは呼吸を整える。薄い茶の香り。雪解けの光。胸の奥で、別の香りがかすかに蘇る──焼けた土の匂い、焦げた木の匂い、父の腕の温もり。揺れた視界を、瞬きで押し戻す。


「私は……海の国の王女として相応しくあろうと努めるだけですわ」


 こてんと首を傾げてそう微笑む。

 しかし、令嬢たちはひるまない。すうっとまあるい瞳を細めて、つんとした鼻を空に向けた。

 

「努力は、出自を飾るためにあるのよ」


 飾る。飾り。飾り物。言葉の棘が、静かに皮膚を裂いたそのときだった。


 温室の扉が音もなく開いた。冷たい空気が一筋だけ流れ込み、硝子と金具が微かに鳴る。

 

 カツン、カツン、カツン……。

 彼が、来る。


 ──王家に嫁いだものがこんなに侮られているなんて、彼はなんて言うのかしら?

 そう思いながらフィリアは音に合わせて振り向いた。銀の髪が光を跳ね返している。

 一瞬、目が合った、気のせいかもしれないけれど。

 

 「──誰が、飾りだと?」


 低い声が、真綿のような空気を裂く。

 セヴィ。氷の王子。

 いつもの能面のような顔。けれど、眼だけが冷たく光っていて。


 ──怒っている、のかしら。

 フィリアは呆けたようにセヴィの顔を見た。

 ──私ではなく、私を馬鹿にした令嬢たちに。


「セ、セヴィ殿下……!」


 令嬢たちの体から、扇がするすると落ちた。侍従長が後ろに控える。彼は一礼して、一歩退く。


 セヴィは卓に近づいた。カップの縁がかすかに震えるほどの距離に立ち、視線だけで場を制した。


「今の言葉、もう一度言ってみろ」


 伯爵令嬢の喉がつっと鳴る。扇を持ち直そうとして手がもつれ、骨がぱきりと割れた。

 フィリアはその一部始終を呆然と見つめていた。

 声など、出そうにない。


「わ、わたくしはその……王家の、純度を──」


「純度。よくも軽々しく口にする」


 氷の刃のような声。温室の暖気が瞬時に薄らいだ気がした。

 セヴィは短く息を吐く。


「いいか。ここに立っているのは、お前たちの噂話の飾りではない」


 セヴィはそう言って、ぐるりと令嬢の顔を見回した。

 そうして、ゆっくりと事実を告げる。

 

「──俺の妻だ」


 俺の、妻。

 温室に低い響きが波紋のように広がって、硝子の天窓まで届いた。

 誰かが小さく息を呑む音。

 その間に、セヴィはゆっくりと言葉を重ねる。


「王子の妻を侮る言は、王家を侮ることと同義だ。城の権威に関わる。……名を」


 最後の二音で、侍従長の姿勢がわずかに変わる。職務の顔だ。呼吸するように滑らかに、侍従長が小さな帳面とペンを取り出した。


「レ、レ―ネ伯爵家の──」


「家名だけでいい」


 震える口から吐き出された家名が、ひとつ、ふたつ。侍従長のペン先がからりと走る。セヴィはそれを確認もせず、令嬢たちを一瞥した。


「今日の非礼は、家を通して詫び状として受け取る。書式はわかるな。二度はない」


 凍てついた宣言に、三人の令嬢が同時に裾をつまんで礼をした。形式ばって、でも、必死だった。彼女らは慌てて退室口へと後じさり、扉の影に消える。残ったのは温室の静けさと、噴水の細い音だけ。


 セヴィはフィリアのカップの前に視線を落とした。


「立て」


 フィリアは素直に立ち上がった。裾が椅子脚に触れて、微かな布の鳴る音。セヴィの肩越し、硝子の外の雪がゆっくりと舞っているのが見えた。


「……ありがとうございます、セヴィ様」


 声に出す。小さく、けれど確かに。セヴィの睫毛が一瞬だけ揺れた。次いで、眉間にほんの僅かな皺。


「別にお前のためではない」


 冷たい調子。いつもの盾。だが、その直後に続いた言葉が、まっすぐ胸に落ちた。


「王子の妻が軽んじられるのは、城の権威にも関わる。……それから」


 セヴィは、彼女の顔を正面から見た。氷の色の眼差しが、ほんの少しだけ柔らぐ。


「お前も、笑ってないで怒れ」


 フィリアの喉の奥で、何かが小さく砕けた。笑っていれば嵐は過ぎる。笑っていれば、誰も近づかない。そう覚えたはずの鎧が、ふっと軽くなる。怒ることは、弱さではないのだろうか。


「……怒って、いいのですか」

「当然だ」


 即答。間も迷いもない。セヴィは視線を逸らし、ほんのわずかに鼻で息を吐いた。


「怒り方がわからないなら、覚えろ。必要なことだ」


 言い切って歩き出す。歩幅は大きい。フィリアは二歩分小走りで追いついて、彼の隣に並んだ。硝子の扉を出た瞬間、冬の冷気が頬に触れた。温室に比べて刺すような寒さ。不思議と、胸の奥は温かい。


 廊下をしばらく無言で進む。足音が石に吸われていく。角を曲がる手前で、セヴィが立ち止まった。振り返らないまま、低く問う。


「……先ほどの言葉、聞いていた」

「どの言葉でしょう」

「出自だの純度だの。あれに、怒りはなかったのか」


 あった。

 痛みも、悔しさも。

 けれど、声にならなかった。フィリアは指先を重ねる。白い息がふう、と上に流れる。


「……ありました。けれど、怖くて。怒ったら、全部が壊れる気がして」


 セヴィは短く頷いた。

 肯定とも、理解ともつかない、けれど拒絶ではない頷き。


「壊していいものもある」


 それだけ告げて、また歩き出す。今度は、さっきより僅かに歩幅が小さい。並んだ距離は、手を伸ばせば届くほどの近さではない。けれど、孤独に凍えるほどの遠さでもなかった。


 ──ありがとう。


 言葉にしなかった言葉が、胸の中に静かに沈む。助けてくれて、ありがとう。見ていてくれて、ありがとう。口にすれば軽くなる気がして、でも今は、重さのまま持っていたかった。

 フィリアは唇を噛み締めて笑った。

 そうしなければ、泣き出しそうなのかもしれなかった。


 窓の外、雪はやむ気配を見せない。けれど、降り続く白は不思議なくらい静かで、優しい。フィリアは一度だけ目を閉じ、それから、微笑をほどいた。


 笑顔ではなく、息を吸うために。怒ることを覚えるために。もう一度、歩き出すために。


 隣で、セヴィの横顔が淡い光を受けていた。冷たく見える線の奥に、確かな温度があることを、もう知っている。


 温室の扉は閉じ、噴水の音も遠ざかった。白い廊下を、二つの影が静かに伸びていく。

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