8.二人の距離は舞台よりも近くて
「新婚なのだから、せめて表向きは仲睦まじくなさい」
そう言ったのは侍女頭のルイゼ・モンテクレア。きっちりとしたお団子髪に黒いドレスをまとった彼女は針のように真っ直ぐ立ちながらフィリアを見た。
そばにいた侍女たちはちらりと顔を見合わせて、くすくすと笑っていた。どうやら、フィリアとセヴィがちっとも会話を交わしていないことは丸分かりらしい。
王族同士の政略結婚。中身はどうであれ、国民に夢を見せることもまた王族の役目──そう続けられて、フィリアは断る理由を失ってしまった。
そして今──フィリアは銀月の国の由緒正しき劇場の、赤い絨毯を歩いていた。
どこか落ち着かないのは、セヴィが隣にいるからか。
フィリアは、男性と二人で出掛けたことがなかった。
そんなことが許される環境では、なかった。
だから、どこか浮ついたような気分になっている。隣にいるのが形だけの婚約者のセヴィだとしても。
「……こんなものに付き合わされるとはな」
眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言うセヴィに、フィリアはかすかに微笑んだ。
「劇はお好きではありませんか?」
「作り物の笑顔や涙を見る趣味はない」
それは皮肉か、それともただの本音か。
フィリアはどちらともつかぬ笑みを浮かべて、歩幅を彼に合わせた。
劇場の中は華やかだった。
観客は着飾った貴族ばかりで、シャンデリアが煌めき、舞台には深紅の緞帳が垂れている。
席に案内されると、フィリアは深く腰を下ろした。隣にはセヴィが無言で座る。会話はないが、なぜか妙な緊張感があった。
やがて幕が上がる。
──それは悲恋の物語だった。
愛し合いながらも立場の違いに引き裂かれる青年と姫君。
言葉のすれ違い、すれ違い、最後の最後にようやく抱きしめた時には、どちらかがもう手遅れで──。
涙をこらえる観客たち。
フィリアも思わず目頭を押さえた。
「……こんな物語に感動するのか?」
セヴィがぼそりと呟いた。
「ええ。お互いを思いあう気持ちが、切なくて、美しくて……」
「嘘くさい」
セヴィはそう一蹴する。
その一言に、フィリアの微笑がすっと薄れた。
「……嘘くさい?」
「その笑顔だ。……おまえのその顔を見ていると、どうにもイライラする」
思わず息を呑む。
「そうですか」
小さく呟くフィリアの声は、舞台の音楽にかき消された。
けれど彼女の心には、しっかりとその言葉が刺さっていた。
──この人は、本当に何も知らない。
笑顔しか、自分を守る術を持たなかった少女のことを。
笑うことすら戦いだった日々を。
心を隠して、光のふりをして生きるしかなかった“偽りの姫”を──。
────こう生きるしか、なかったの!
◇
劇場を出る頃には、夜の帳が降りていた。
出口の階段が少し濡れていたのに気づかず、フィリアは裾を踏んでバランスを崩した。
「あっ──」
倒れかけた瞬間、がしっと腕を引かれる。
「危ない」
短い声とともに、冷たい手が彼女の腕を掴んでいた。
驚いて顔を上げると、目の前にはセヴィの顔。
いつものように能面のような表情をしている。けれどその目の奥に、かすかに――ほんのかすかに揺れるものがあった。
「……ありがとうございます」
「別に」
そっけない返事。けれど、掴んでいた手はすぐには離されなかった。
数秒の間──ふたりの距離は、劇の舞台よりもずっと近かった。
やがて手が離れると、フィリアはそっとドレスの裾を整えた。
そして、小さな声で呟いた。
本音をほろりと零してみる。
「本当に……あの劇は好きなんです」
セヴィが片眉を上げた。
その様子を見ないふりをして、フィリアは続けた。
「悲しいけれど、でも、美しい。……たぶん、誰も悪くないのに、壊れていくものって……あるから」
「……わからないな」
「そうですよね。王子は……何も壊れたことなんてないのかもしれませんね」
セヴィは何も言わなかった。
ただ、いつものように氷のような瞳をしていた。
その奥に何が隠れているか、まだフィリアは分からない。
そのまま、二人は言葉少なに城へと戻った。
◇
その夜──。
フィリアの部屋の窓辺には、また雪が降っていた。
けれど、その光景を見つめる彼女の横顔には、昼のような微笑はなかった。
「……偽りの笑顔、か」
その言葉が、胸の奥に残って離れない。
けれど、あの一言には、ほんの少しだけ――ほんのわずかに、“見抜かれてしまった”ような恐れもあった。
──あの人に、バレたらどうしよう。
本当の自分が、偽りの姫であることが。
本当は、海の国の第二王女なんかじゃないことを。
けれど──その恐れと同じくらい、ふと感じた温もりもあった。
手を引かれた時の、あの冷たくて確かな温度。
あの冷たい王子の手が、自分を守ってくれたという、ただそれだけの事実が。
胸を、じんわりと熱くした。
──どうして、あんなに冷たいのに、少しだけ優しく見えたのかしら。
本当の、あなたはどちらなの?
自分でも理由はわからない。
けれど、それでも──もう少しだけ、彼と話してみたいと、そう思ってしまった。
彼の本音を聞きたいと、そう思ってしまった。
本当のことを話していないのはお互い様なのに、ね。
微笑むフィリアは知らなかった。
劇場の階段で、二人を見る瞳があったことを。
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