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6.侍女長ルイゼ・モンテクレア

 銀の器に水が注がれ、朝の冷たい光が鏡の縁に反射する。

 扉が静かに開き、フィリアが一歩踏み入れると、そこにいた侍女たちの動きがぴたりと止まった。


 その中に、背筋をすっと伸ばした年配の女性がいた。

 ──ルイゼ・モンテクレア。銀月王国の侍女頭にして、王宮の秩序を守る氷の番人。


「おはようございます、ルイゼ様」


 フィリアが柔らかな笑みと共に挨拶をすると、ルイゼは一歩進み出て、かすかに会釈した。

 ただ礼儀の範囲内。決して、深々と頭を下げることはない。


「……これはこれは、海の国の姫君さま」


 硬い声。ぴくりとも動かない口角。

 ルイゼは『氷の番人』という名に恥じない態度──つまり、冷徹な態度を取ってくる。


「ずいぶんと早起きでいらっしゃるのですね。お国の習わしでは、遅くまで寝ているのが普通だと伺いましたが」


 その声は丁寧で、どこにも乱れがない。

 けれど、部屋の空気が一気に張り詰める。


 フィリアは一瞬だけまばたきし、それでも微笑を崩さなかった。


「銀月では日の出と共に動くのが習わしと伺いましたので、合わせたまでですわ。美しい国に来たのですもの、習わしを尊重するのは当然でしょう?」


 言葉の刃を、笑顔で打ち返す。

 侍女の一人が目を見開いたのを、ルイゼは横目で見た。


「まあ……さすがは姫君。ご立派な教育を受けられているようで。どのようなお師匠についてお育ちになったのかしら? あなたのお母上は海の国のどことも知れぬ遊女……でしたっけ?」


 ルイゼの右端の口角がくいと上がった。

 そうすると、とても意地悪な印象になる。

 

 フィリアは目を閉じた。

 ──どうやら、ここでは海の国の遊女の娘ということになっているらしい。

 誰が噂を流したのかしら?

 

 本当は、私は正式な王女なのだ──緑の国の第一王女なのだ、と声高に叫んでしまいたくなる。

 けれど、そんなことはできまい。


 一瞬後、フィリアは美しく微笑んだ。

  

「海の国の遊女でも──誇りと礼節だけは貴族以上に厳しく教え込まれましたわ」


 ぱちり、と鏡の前に腰を下ろしたフィリアは、髪を撫でつけながら、鏡越しにルイゼを見やった。


「それとも、ルイゼ様。ご自分の作法と比べてみますか?」


 その瞬間、ルイゼの笑みがぴくりと揺れた。

 だがすぐに口元を整える。


「冗談が過ぎましたわね。……姫様もどうか、王子の面目を汚さぬように」


「もちろんです。セヴィ王子の隣に立つにふさわしい姫であるよう、これからも努力いたしますわ」


 そのやりとりのあと、ルイゼは侍女たちを引き連れて一礼し、部屋を去っていった。


 フィリアは鏡の前で小さくため息をつく。

 足元に残る冷たい空気。だけど、心の奥には少しだけ、勝ったような自信が芽生えていた。



 書類に目を通していたセヴィのもとに、ひとりの若い従者が静かに入ってきた。


「本日、姫様と侍女頭のルイゼ様との間で少々……やりとりがあったようでして」


「……やりとり?」


 セヴィは手を止め、わずかに眉を上げた。


 従者は気まずそうに言葉を選びながらも、丁寧に説明する。

 ルイゼがフィリアに対して、海の国の出自を皮肉り、侮辱に近い言葉を投げかけたこと。

 だが、姫は完璧な作法と気品で、それを一切崩さずに受け流し、逆に堂々とした態度で打ち返したこと。


 静かに聞いていたセヴィは、やがてふ、と息を吐いた。


「……そうか」


 そして、ほんのわずかに、唇の端を緩める。

 その微笑は冷たいものではなく、どこかあたたかく、心の底に沈んでいた感情が静かに水面に浮かび上がるようなものだった。


 窓の外では、夕暮れの光が城の屋根を赤く染めている。


「ルイゼが……あの言い方をしたのなら、容赦はなかっただろうに」


 ぽつりと呟いたその声には、フィリアを心配する色よりも、どこか誇らしげな響きが混ざっていた。


「海の国の姫君は──なかなかやるじゃないか」


 そして静かに目を伏せ、机の上の書簡に目を戻す。

 だが、その手はどこか軽やかに動き、口元にはまだ、微かな笑みが残っていた。

 

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