4. この身は私だけのもの
結婚式当日──。
鐘が三度鳴り響く。銀月の城の天井は高く、冷たい光を湛えたステンドグラスが、まるで別の世界を映し出すように光を落としていた。
祭壇の前には、長い長い白のカーペット。両側には銀月の貴族たちが居並び、その中央を、フィリアは静かに歩いていた。
ゆるやかな金糸の髪が、揺れるたびに光を跳ね返す。
ドレスは淡い水色。海の国の格式を尊重した色だが、裾には銀月の王家の紋章が刺繍されていた。
──ああ、わたし、本当に結婚するんだ。
形式だけの結婚。けれど、それでも「王子の妻」としてここに立つ。
誰一人として、知った顔などいない国で。
笑わなくてはならない。気高く、美しく──太陽姫として。
「……海の国の第二王女、フィリア・アクアレーヌ、入場」
静寂を破って、司祭が名を呼ぶ。
フィリアは顔を上げた。緊張が喉を焼く。冷たい空気が肺に入るたび、意識がはっきりしていく。
貴族たちのお喋り。綺麗に並べられたご馳走。あちこちに花が飾られている。
そして、彼がいた。
祭壇の前──銀の王子。
セヴィ・ルヴィア・アルセイド。
陽の光をまるで受け付けないような銀髪。白の礼装を纏いながらも、彼はまるで氷像のように動かず、ただフィリアをじっと見つめていた。
その目に、愛情も、興味も──何も宿っていない。
それでも。
そのまなざしが、自分の心を乱すのはなぜだろう。
◇
神官が長い祝詞を読み上げている間、セヴィは一言も発さず、まるで無関心なように立ち尽くしていた。
けれど──
視線だけは、ずっとフィリアから逸らされなかった。
たまに睫毛が揺れる。まるで何かを思い出そうとするように。
祝詞が終わり、誓いの言葉を交わす段となった。
「セヴィ・ルヴィア・アルセイド殿。あなたはこの者を妻とし、生涯これを慈しみ、守ることを誓いますか?」
一瞬の沈黙。
空気が張り詰める。
「……誓う」
低く、冷たく、まるで感情のない声。
フィリアはわずかに目を伏せた。次は、自分だ。
「フィリア・アクアレーヌ殿。あなたはこの者を夫とし、生涯これに忠実であり、共に生きることを誓いますか?」
──共に、生きる。
たぶん、そんなことは叶わない。
けれど。
「誓います」
フィリアは笑った。太陽のように、まぶしく。心の底から好いたものと誓うかのように。
その瞬間だけ、セヴィの瞳がかすかに揺れた。
銀月の王家に代々伝わる、淡い青玉の指輪。
セヴィがそれを手に取り、フィリアの指先へと滑らせる。
その手は冷たく、しかし、どこか丁寧だった。
フィリアもまた、静かに指輪を差し出す。
互いの指先が触れる──ほんの一瞬。
凍てついた空気の中で、ひとつだけ、確かに温度があった。
◇
式が終わり、披露の祝宴が開かれる。
けれど、主役たるふたりの間に言葉は少なく、隣に座っていても互いに目を合わせることはほとんどなかった。
それでも、フィリアは完璧な姫だった。
笑顔を絶やさず、周囲への礼を欠かさず、誰の心にも不快を与えない。まさに、太陽。
セヴィはどんな顔をしているのだろうか。
ちらりとフィリアは隣を見る。
彼は黙ったままグラスに指をかけ、ただ淡々と料理に口をつけていた。美味しいのか、美味しくないのか。それすらもその表情からは分からない。
まるで隣に誰がいようとも関係ないかのように。
──ふと、目線があった。
その目は冷たくて、けれど何かを……確かに探していた。
「……似ている」
彼の呟きが、音楽と談笑の隙間から聞こえた。
フィリアは、その意味を問わなかった。
◇
銀月の城の夜は静かだった。
式を終えたばかりのはずなのに、フィリアの胸は落ち着かない。
侍女たちの噂話を拾ってしまったからだろうか。
「あのセヴィ王子もやっぱり初夜には向かわれるんでしょうか。姫の寝室へ」
「そりゃそうでしょう、初夜よ、初夜」
「セヴィ王子の情熱的なところ、想像つかないわ」
ひそひそ、きゃらきゃらと笑う若い女官たち。けれど、反対にフィリアの心はざわついた。
──もし、セヴィ王子が部屋に来たら。
愛してもいない男と情を交わさなければいけないのか。
──断れる?
断って、海の国に返されたらどうしよう。
胸がきゅうと痛んだ。この部屋の前に誰かが立って、ノックをするところを考えると泣きそうになった。
記憶が胸を締め付ける。
──フィリアの白い肌の上を、舐めるように動いたあの蛇のような瞳。──フィリア、お前が大人になったら……。胸が大きくなることを恨んで、膝を抱えて泣いた日。
愛してもいない男に触れられるのなんてごめんだ。
──フィリアの身はフィリアのためだけにある。
結婚したからと言って、この恐怖も過去も苦しみも、何一つ人に分け与える気などない。
フィリアはキッと宙を睨んだ。
ドレスを翻し、部屋を抜け出して、月の見えるテラスに出た。
──フィリア姫はご不在でした。そういうことにしてほしい。そういうことに、できるかしら?
夜風はひんやりと冷たいけれど、不思議と落ち着く。
「やっぱり、海の国とは全然違うわ」
そう呟いたその時だった。
足音が、静かに近づいてくる。
カツン、カツン。
それはまるで死刑宣告のように聞こえた。
心臓の音が足音と重なって不協和音が響く。
カツン、カツン、カツン……。