3.はじめまして、嘘の花嫁です
──そうして、幼いオフィーリア姫は海の国にやってきたのでした。
最低限の荷物を持って、最速で。
姫なんて気づかれないように麻のドレスを纏ったオフィーリアは海の国の城の門をくぐった。
「緑の国の第一王女・オフィーリアでございます」
「大変だったようね。ああ、そんなところに立ってないで早くこちらへ。紅茶を用意させるわ」
母の妹──マリアはそう言ってオフィーリアの荷物を使用人に持たせた。マリアは海の国の国王の妃であった。どこか母と似ている気配を探そうとオフィーリアは目の前の女性をじっと見た。
──ショートカット……はお母様とは違う。
──でも、背はお母様と同じくらいね。
──どこかおしとやかで、折れそうな雰囲気があるけれど、とっても優しそうな方。
「あなたはきっとここで暮らすことになるわ」
オフィーリアはふかふかの椅子に座った。そうすると、どこか現実味がない。
──さっきまでは緑の国にいたのに。
──お母様とお父様は大丈夫かしら。
考えると涙が滲みそうになる。オフィーリアはぎゅっと唇を噛み締めて、涙をこらえた。
「今、娘を呼んでくるわ。セレナ……!」
「はあい」
どこか間延びした声が聞こえて、ゆっくりと誰かが入ってくる。
その人は、海の国らしく、深い青のドレスを身にまとっている。ストンと落ちたサラサラの髪。鼻の周りに飛んでいるそばかす。くるりと立ち上がっている睫毛。猫のように釣り上がった瞳。
彼女はフィリアの姿を見とめて、きゅう、と目を三日月型に細めた。
「私はセレナ。海の国の第一王女。あなたの三つ上。よろしくね」
◇◇
──スリル満点のかくれんぼみたいね。
物陰に身を潜めながら、フィリアはかすかに笑った。けれどそれは、どこか張り詰めた微笑みだった。足音が近づいてくるたびに、心臓の鼓動がどんどん早まる。
──まさか、あれは……セヴィ王子?
写真で見たことのある銀髪。そして、雪の中でもくっきりとわかる引き締まった背中。誰にも似ていない、その凛とした雰囲気──あれは、間違いなく彼だった。
フィリアは思わず息をのんだ。
距離が近づいてきて、雪を踏みしめる音が止まる。フィリアの心臓も、一瞬だけ止まりそうになる。
「……気のせいか」
その低くて冷たい声が、風のように耳をなでた。やがて、足音が遠ざかっていく。
──助かった……。
けれどその瞬間、ぴしり、と足元の雪が崩れた。フィリアはバランスを崩して、わずかに音を立ててしまう。きゃ、と思わず声が漏れ出る。慌てて口を塞いだが、もう遅い。
──そうして、すぐに影が落ちた。
「……やはり、誰かいたな」
鋭い視線が突き刺さる。フィリアは物陰から出るしかなかった。そっと顔を上げると、そこにはまさに“氷の王子”と呼ばれるにふさわしい男が立っていた。
目が、合った。
まるで宝石のような冷たい銀の瞳。鋭く、冷徹で、他人を寄せつけない凍てつくような空気。それなのに、その視線の奥には、かすかに揺らぐ何かがあった。
「……あなたが、セヴィ王子?」
フィリアは震えそうな声を抑えて尋ねる。
けれど王子は答えない。
代わりに、じっと彼女を見つめたまま言った。
「なぜ、こんな時間に、こんな場所に?」
「……歩きたくなったの」
「一人で?」
「はい」
短いやりとりの間にも、彼の視線は鋭くフィリアを値踏みするように走る。
けれど、フィリアは微笑みを崩さない。
──冷たい……でも。
何かが、ひっかかる。
まるで、遠い昔にもこんなふうに誰かに見つめられたことがある気がする──そんな既視感に襲われた。
フィリアは微笑んだ。
「改めてご挨拶を。海の国より参りました、フィリア・アクアレーヌです。……はじめまして。今日、あなたの妻になる者です」
そう名乗ると、セヴィの目がほんの少しだけ見開かれた。
「……そうか。君が、俺の結婚相手か」
その言葉には、褒めるでも、侮るでもない、ただの事実確認のような乾いた響きがあった。
「では、後ほど式で会おう」
それだけ言い残し、彼は背を向けた。カツン、カツン、と冷たい足音が去っていく。
婚約者に興味がない人なんているのか。ただの政略結婚のフィリアでさえ、結婚相手の顔くらいは把握しているというのに。
──本当に……氷の人。
そう思いながらも、フィリアはなぜかその背中に、心地よさを感じていた。
干渉してこない、冷たい人。
こっちに興味なんてないんだわ。
良かった。──それならば嘘を吐いても罪悪感なんて抱かなくて良いんだから。
「大丈夫」
フィリアは呟いた。
「結婚式もきっと大丈夫」
自分に言い聞かせるように。
天使のように美しい笑みを浮かべて。
◇
その頃。
セヴィはたった今会ったばかりの女性の顔を思い浮かべていた。
絹糸のような金色の髪。
宝石みたいに輝く新緑の瞳。
一度目にしたら忘れない、あまりにも整った容姿。
見たことがあるはずがない。
だけど──。
セヴィは額を人差し指で叩いた。こんこん、と。
脳みそを回転させるための微かな力。
「なにかが引っ掛かる」
ぼそり、とセヴィは呟いた。