25.不器用なひと
城の白い回廊を抜け、馬車が城門を出る。
「今から市場に視察に行くが、お前も王子の妻として見ていた方が良いとは思わないか?」
朝、突然フィリアは告げられ──今はセヴィの隣で馬車に乗っている。
その横顔はいつも通り冷たく、取りつく島もない。
けれどフィリアは気づいていた。
本当に視察が目的ではなく、自分を外へ連れ出してくれたのだと。
──不器用なひと。
窓から見える城下町は活気に満ちていた。
色とりどりの天幕が並び、商人たちが声を張り上げ、香辛料や焼き菓子の匂いが風に混じる。
「わっ……!」
思わず声を漏らすと、セヴィの視線が一瞬だけこちらをかすめ、すぐに逸らされた。
──何やってるの、私。
子どもみたいに。
でも、活気のある市場に心が躍ったのは隠しようのない事実。
市場に足を踏み入れると、押し寄せる人の波。
フィリアは子供のように目を輝かせ、あちこちを見渡した。
「海の国では、こんな賑わいは滅多に見られませんでした」
そう言って果物の屋台へ駆け寄る。
赤く熟した果実が山のように積まれていた。
指先を伸ばした瞬間、低い声が遮る。
「触るな。買うなら俺が払う」
セヴィの言葉に驚いて振り返ると、恰幅のよい店主がにやりと笑い、
「おや、王子様のお連れか。お代はいりませんよ」と、恭しく差し出した。
セヴィは即座に硬い声を返す。
「払う」
その瞳に宿る強い拒絶。
フィリアは胸の奥にちくりと痛みを覚えた。
──きっと……“施し”を受けることを嫌っているのね。
彼の孤独を想うと、急に愛おしさが込み上げた。
「では、私が払います。これは私が欲しかったものですから」
銀貨を差し出すと、店主が愉快そうに笑う。
「もう嫁さんに尻に敷かれてるではないですか。──王子も惚れた相手には弱いのですね」
──惚れた相手。そんな訳ない。
だって私たちは政略結婚なのだから……。
それでも、その言葉に頬が熱くなる。
セヴィの横顔は石のように硬いまま。
けれど耳の先がわずかに赤いのを、フィリアは見逃さなかった。
さらに進むと、大道芸人が広場で火を操り、人々が歓声を上げる。
フィリアは思わず近くへ寄った。
人垣に押され、体がぐらりと揺れる。
「きゃっ——」
次の瞬間、強い腕が腰を支えた。
振り返れば、すぐそばにセヴィの顔。
「……危ない」
彼の手は思っていたよりも熱く、鼓動が指先まで伝わってくるようだった。
胸の奥が跳ね、言葉を失う。
「目を離すな」
「……ごめんなさい」
震える声で答えると、セヴィは眉をひそめ、ぱっと手を離した。
人のざわめきの中で、一瞬の熱だけが、確かにフィリアの心に刻まれた。
◇
「お前と一緒にいると、よく声を掛けられるな」
ぽつり、とセヴィが言った。
「あら? セヴィ王子のご人徳のおかげだと思ってました」
「いつもはもっと、恐れられているのだがな。お前がいるからか、それとも、俺が……」
──俺が変わったのか?
そうセヴィが言った途端、「甘いお菓子はいかが」と早速声が掛かる。
なんだかフィリアは恥ずかしくなって、焼き菓子を買いに屋台へ向かう。
フィリアは一つ買い、セヴィに差し出した。
「一口いかがですか?」
「不要だ」
「……でも、美味しいですよ」
差し出したままじっと見上げる。
しばらくの沈黙のあと、観念したように彼はかじった。
「これに毒が入っていたら、俺たちは心中だな」
「……ご冗談を!」
ドキリ、と心臓が跳ねた。
セヴィはそのままもぐもぐと咀嚼する。
表情は変わらない。
「どうでした?」
「……悪くない」
そのたった五文字が、フィリアには胸いっぱいの贈り物のように感じられた。
思わず笑みがこぼれる。
そんなやり取りをして、歩き出そうとしたとき──
ふと、フィリアの目に映ったのは彼の口元だった。
「……あ」
小さな砂糖のかけらが、唇の端に白く光っている。
「なに」
「ここ……」
気づけば、フィリアの指が自然に伸びていた。
彼の口元に触れて、そっと砂糖を拭い取る。
──一瞬。
それだけの仕草。
けれどセヴィはビクリと肩を揺らし、深い瞳が驚きに大きく見開かれた。
すぐに目を逸らし、吐き捨てるように言った。
「……勝手に触れるな」
足早に歩き出す彼。
残されたフィリアは、頬を真っ赤に染めて立ち尽くした。
(勝手に……触れた……? でも……)
指先にまだ、砂糖の甘さが残っていた。
それはなぜか、胸をざわめかせる熱に変わっていた。
◇
夕暮れ。
馬車に戻る途中、セヴィがふいに口を開いた。
「……また来たいか」
振り返った彼の横顔は、茜色の光を浴びて翳りを帯びている。
冷たさの奥に、ふと孤独がにじんで見えた。
フィリアは胸を締めつけられながらも、静かに答える。
「はい。あなたと一緒なら」
彼の瞳が一瞬揺らぎ、けれどすぐに元の無表情へ戻った。
「俺は……明日からしばらく城を空ける」
セヴィが独り言のように言った。
どこに。どうして?
疑問ばかりのフィリアの顔を見て、セヴィはふっと笑った。
「一か月間。南の方の視察へ行く。王子の妻として、留守の間をよろしく頼む」
「はい」
なんと口に出していいか分からなかった。
寂しいと言っていいのか。
寂しいと言うことを望んでいるのだろうか、この人は……。
フィリアはにこりと笑って、「お任せくださいませ」と凛とした声で言った。




