24.絵の中の花
あの夜──。
「助けて」と声を振り絞り、セヴィに救い出された瞬間のことを、フィリアはまだ鮮明に覚えていた。
あんなにも必死な顔のセヴィを見たのは初めてだった。
いつも冷ややかで、表情を動かさず、まるで感情を失った氷の王子。けれど、あの時だけは違った。
頬を紅潮させ、瞳は燃えるように激しく揺れていて──自分を抱きしめる腕は、決して離さないと誓うかのように強かった。
(本当に……助けてくれたんだわ)
思い返すと胸が熱くなり、同時に涙腺が刺激される。
でも、もう泣かない。
私はここにいてもいいのだと──そう思わせてくれたから。
◇
数日後のことだった。
フィリアは城の中を歩いていて、偶然ひとつの部屋の扉がわずかに開いているのを見つけた。
中からは静かな気配。
人の声もしない。
でも、どこか惹かれるように、足が止まった。
「……ここは?」
恐る恐る覗き込むと、そこは書斎のようであり、画室のようでもあった。
壁には銀月の地図や古い歴史書。机の上には羽ペンとインク。
そして、窓際の小机に──白い画用紙が数枚重ねられていた。
風がすうと吹き込み、上に置かれた一枚がふわりと舞い上がる。
「あっ……」
反射的に手を伸ばしたフィリアは、その紙を受け止めた。
そこに描かれていたのは──。
「……お花?」
丁寧に描かれた、一輪の黄色い花。
雪の中で凛と咲く姿が、柔らかな筆致で表されている。
フィリアははっとした。
──あの日、庭園で見つけた黄色い花だ。
自分が雪をどけてやった、必死に生きようとする小さな花。
「まさか……」
その時、背後から気配を感じた。
振り返ると、銀髪の王子が立っていた。
セヴィだ。
「……何をしている」
無表情な声。
けれど、僅かに眉が動いた気がした。
「ごめんなさい、勝手に……」
「触るなとは言っていない」
意外な言葉に、フィリアは目を瞬いた。
セヴィは机に歩み寄り、散らかった紙を整える。その仕草は、思いのほか几帳面で、優しかった。
フィリアは胸に抱えた絵を見つめ、そっと尋ねる。
「これ……セヴィ様が?」
「……」
一拍の沈黙。
やがて、セヴィはほんの僅かに目を伏せた。
「……君を見て、描いた」
「え……?」
「その花……君に似ていると思った」
その言葉に、フィリアの心臓が跳ねた。
──やっぱり。
あの花を見たとき、自分自身の姿を重ねてしまった。どんなに厳しい環境でも、生き延びて咲いてみせる。そう思った。
セヴィも同じことを思ってくれていたなんて。
胸の奥がじんわりと熱くなる。
「……私も、そう思っていました」
気づけば、フィリアは微笑んでいた。
作り物ではない。
心の底から、自然に溢れてきた笑み。
セヴィの瞳がかすかに揺れるのが分かった。
今まで氷の仮面を崩さなかった男が、確かに息を呑んでいた。
「……君は」
彼の低い声が、わずかに掠れた。
「今の顔の方がいい」
その言葉に、フィリアの胸は一層熱くなった。
いつもの「嘘くさい笑顔」だと突き放すのではなく──初めて、心からの笑顔を肯定してくれた。
「セヴィ様……」
見つめ合う。
互いの心が、重なり合うような感覚。
やがて、セヴィは視線を逸らし、僅かに耳を赤く染めた。
「……無駄話はここまでだ」
くるりと背を向け、窓の外を見やる。
けれど、その耳の赤みを、フィリアは見逃さなかった。
──この人も、揺れている。
冷たい氷の王子も、決して心を失ったわけじゃない。
そう思うと、フィリアの笑みはますます柔らかくなった。
◇
部屋を出てからもしばらく、フィリアの胸は高鳴りっぱなしだった。
手の中に残る、紙のざらりとした感触。
絵の中で咲く黄色い花は、きっとこれからも自分を支えてくれるだろう。
──ありがとう、セヴィ様。
心の中で呟きながら、フィリアは足取り軽く廊下を歩いた。
部屋の中で、赤く染めた頬を手で覆う銀の王子がいることにフィリアは全く気が付かなかった。
「なんだ……?」
セヴィは呻いて、自分の冷たい手で両頬を覆った。
熱は、まだ引きそうにない。
◇
「いい? 相手はお姫様なのよ。失礼のないようになさい」
「分かってるってば! メリー! 私ももう大人なのよ」
「本当かしら?」
「もう、信頼してよ」
その頃、こそこそと囁き合う人影が二人──。




