2.今は亡き故郷
──あれは。
その男は長身だった。
しっかりと鍛えられているのに、どこかすらりとしている。
銀の髪が繊細な光を放っている。
男はどこか遠く見つめ、それから何かを思い出すように目をつぶった。その、長い睫毛や形のいい鼻にフィリアはしばし見惚れてしまった。
──あれは……まさか……セヴィ王子?
その時だった。
「はっ……くしゅん」
フィリアは思わず自分の鼻を抑えるが遅かった。──彼がばっと振り返る。
「誰か、いるのか? ──おい、そこにいるのは誰だ?」
剣呑な声。
フィリアは思わず物陰に隠れた。男の足音が近づくたびに、ドクンドクンと心臓が跳ねた。
──スリル満点のかくれんぼみたいね。
こうしていると、昔のことを思い出す。ずっと昔の──フィリアがまだ──何も知らない子供だった時のこと。
「オフィーリア姫!」「オフィーリア!」
ああ、フィリアを呼ぶ声が──ばあやの声が──お母様の声が──もう今は亡き大好きな人たちの声が──聞こえる。
◇
緑の国──それは名の通り、緑に満ちた豊かな王国だった。高い山から流れる澄んだ水は川となり、広い田畑を潤していた。人々は素朴であたたかく、どこかおっとりしていて、街の広場では今日も誰かがパンを焼き、子どもたちの笑い声が風に運ばれていく。
その中心にある王城で、第一王女オフィーリアは育てられていた。
「姫さまー! おやつの時間ですよ!」
「あっ、やだ! 今はお花に水をあげてるの!」
城の中庭で、赤いジョウロを抱えた小さな少女がいた。ふわふわの金色の髪を揺らしながら、小さな手で必死に花に水を注いでいる。ばあやが駆け寄ってきても、お構いなし。
「また逃げて……。ほんとに、お転婆なんですから」
「だって、これ見て! つぼみがひとつ、開いたの!」
オフィーリアの瞳が輝く。エメラルドのようなその瞳に映るのは、ついに咲き始めた小さな花のつぼみ。昨日まで固く閉じていたのに、今日はふわりと顔をのぞかせていた。
ばあやは思わず微笑んで、そっと姫の頭を撫でた。
「そうですね。頑張ったご褒美ですね」
「うんっ!」
花の香り、ばあやの手のぬくもり、青い空。あの頃のすべてが、今でもまぶたの裏に焼き付いている。
──緑の国は、いつも春のようだった。
その日も、オフィーリアは母の手を握って歩いていた。
「お母さま、あの小鳥の名前、なんていうの?」
「スピネラよ。春の始まりを告げる鳥。あなたにそっくりね。よく歌って、よく笑うから」
「ええっ? わたし、あんなにぴょんぴょん跳ねてる?」
「そうよ、ぴょんぴょん姫さま」
母がいたずらっぽく笑って、ふたりで顔を見合わせて笑い合う。
父もまた、仕事の合間にオフィーリアを抱き上げ、空を見せてくれた。
「この国の空は、君の瞳と同じ色をしてるんだぞ」
それが、オフィーリアのすべてだった。
この国が好きで、両親が大好きで、自分が生きていることが幸せだと信じて疑わなかった。
──その夜までは。
城に緊急の知らせが届いたのは、星のきらめく夜だった。
その知らせが入った時、父は信じられないという顔をしていた。そんな、まさか、と譫言のように呟いて、両の手で顔を覆ったのをオフィーリアは初めて見た。
母がオフィーリアの肩を抱く。
その手がわずかに震えていた。
「銀月の国が……動いた?」
「まさか……同盟を破って?」
兵たちがざわめく。母は何も言わず、娘を強く抱きしめた。
夜が明ける頃には、もう街には兵士の姿が現れ始めていた。父の表情が固くなる。母の笑顔が消える。
──どうして、どうして。
「戦になったら……」
母は呟いた。
「勝ち目は……」
ある訳が、ない。
その瞬間誰もが思った。
この国はあまりにも平和で──平和すぎたのだった。
オフィーリアはとんでもないことが起こっていると思いながらそっと母の服を握った。真っ青な顔をしていた母がふとこちらを向いて、すっと微笑んだ。何かを切り替えたような、諦めたような微笑みだった。
その顔がずっと残っている。
「海の国のおばさまのところに行くのよ。私の妹、マリアおばさまは、あなたを必ず守ってくださるわ」
母はそうオフィーリアの髪を撫でた。やさしい手付きだった。
「お母さまは? お父さまは?」
問い掛ける声が震えた。涙でぼやけて見えなくなった。母はまた笑った。
外では大臣が走っている。
遠くでは市井のものが不安に怯えている。
もっと遠くでは兵士たちが戦っている。
そんな状況に似つかわしくない、綺麗な笑み。
けれどそれは、この国を支えてきた者が見せる気丈な、安心感のある微笑みだった。
「後から行くから、待っててね」
馬車に揺られながら、オフィーリアは小さな窓から振り返った。
霧がかった城の尖塔が遠ざかっていく。
手を振る母の姿は、もう見えなかった。