16.美しい嘘
数時間後。
シーザスと名乗る宝石商は、豪奢なベルベットの布にくるまれた大小さまざまな宝石を広げていた。色とりどりのネックレスやブローチ、髪飾りが陽光に照らされて輝いている。
「銀月の国といえば、やはりこの“月銀石”でございます」
商人は銀糸のように光る細いネックレスを恭しく差し出した。
「王族の銀髪に映えるようにと、銀職人が丹精を込めた逸品でして……奥方様にもぜひ──」
フィリアは、穏やかに笑ってそれを受け取ったが、視線はすぐ横にある別の品へと流れていった。
──それは、深く透き通った緑の宝石がついた、小さなネックレス。
装飾は控えめだが、そのぶん宝石の色が映える。翡翠にも似ているが、もっと柔らかく温かい緑。どこか懐かしい色だった。
緑の国の森に、似ている。
ふと、幼い頃に見上げた木々の天井を思い出す。風に揺れる葉の音。優しく微笑んでいた父と母の顔。
気づけば、フィリアの唇には小さな微笑みが浮かんでいた。
──しかし、それも一瞬。
「……こちらも素敵ですね」
取り繕うように微笑みを消し、フィリアはそっと宝石から手を引いた。
「銀の方が、この国にはふさわしいと思います」
そのやり取りを、セヴィは少し離れた椅子に腰かけながら無言で見ていた。
彼の目は、フィリアの頬に浮かんだ淡い笑みにわずかに揺れた。
胸の奥で、なにかがふっと灯る。
──笑っていた。
けれど、すぐにその笑みが消えた。
──気のせいか。
彼女が緑の宝石を手放したあとも、セヴィの目にはその石が焼き付いて離れなかった。
◇
「……買っておいた。あのネックレスだ」
その晩、フィリアの部屋を訪れたセヴィは、小さな包みを差し出した。
深緑のリボンで丁寧に結ばれた箱。それを見た瞬間、胸の奥がちくりと疼く。
「ネックレス……?」
戸惑いながらもフィリアは箱を開けた。
──そこには、昼間見惚れたあのネックレスが入っていた。
あの、懐かしい緑の光。
子どものころ、森で遊んだ日の木漏れ日みたいな、やさしい翠。
「 見てただろう」
フィリアの指が震える。
──どうして、こんなにも優しいの。
緑の国の記憶に触れるものは、今やとても貴重だった。
ひとつひとつ、誰にも気づかれぬよう心の奥にしまいこんでいた思い出。
けれど、彼は──その扉を、そっと開けてくれた。
「すごく……綺麗です」
フィリアはネックレスを胸に当て、そっと頬を緩めた。
「まるで、私の……」
「瞳に似合うと思った」
セヴィが言葉を重ねる。
その瞬間、フィリアの目にうっすらと涙が滲んだ。
けれど、それは悲しみの涙ではなかった。
胸の奥がじんわりと熱くなって、うまく言葉が出てこない。
──うれしい。
──こんなに、うれしいなんて、知らなかった。
これまでも、気遣いや贈り物を受けたことはあった。
けれど、こんなにも自分自身を見てくれた贈り物は──初めてだった。
「ありがとうございます……本当に」
フィリアは、深く、深く頭を下げた。
けれどセヴィは、困ったようにぽつりと呟く。
「……そうやって頭を下げられると、俺が冷たい夫に見える」
「そんなこと……思ってません。とても、うれしいです」
フィリアは胸に手を当てて、そっと笑った。
翌朝、ネックレスをつけたフィリアは、鏡の前でひとつ深呼吸した。
光があたるたび、宝石が柔らかな翠をきらめかせる。
──似合っているかな。
──セヴィ様、喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えている自分がいる。
ネックレスをもらっただけなのに、心が軽くなった気がして、思わず笑ってしまった。
──こんなにも、誰かに見てほしいって……初めて。
◇
翌朝。セヴィと並んで歩くフィリアの首元には、あの緑のネックレスが光っていた。
「そのネックレス……無駄遣いですか」
いつものように現れたルイゼが、ぴしゃりと嫌味を言った。
「まったく。こんな高価な贈り物とは──」
セヴィは立ち止まった。無表情のまま、しかし冷たくない声で言い返す。
「……妻を大事にしているだけだ」
視線だけでルイゼを射抜くように見下ろす。
「以前、あなたが“夫婦はお互いに支え合うべきだ”と教えてくれた。……だから、実践している」
ルイゼは、銀縁の眼鏡を押し上げた。
「……皮肉ですか?」
「いや、感謝だよ」
セヴィの声には、珍しくユーモアすら滲んでいた。
フィリアは思わず口元を覆い、笑いをこらえた。
──なに、この人。
冷たいと思っていたのに。こんなやさしいところがあるなんて、ずるい。
けれど、その笑みもまた、すぐにかき消された。
だって、これは偽りの結婚。
このネックレスのように美しい“嘘”。
……でも、もう少しだけ、この嘘に甘えてもいいですか? セヴィ様。




