13.誰も助けになんか来ない
「お父様の部屋に呼ばれたようね」
ツンとした口調で、セレナが言う。
あの日から忘れられないのは、ダールトン国王の、あの粘ついた眼。
部屋に帰って、触られた手をなんども布で拭った。
それでも、感触は消えない。
「セレナお姉様……」
──言ってしまおうか。
──いや、言えない。
フィリアは下唇を噛み締めた。
あんな男でも、セレナの母なのだ。
マリア叔母様の夫なのだ。
「ただ、絵画を見せてもらっただけです」
「ふうん、絵画ね。……私はそんなもの見せてもらったこと、ないわ」
冷たい声。
「セレナお姉様……」
「良かったじゃない。お父様に愛されて」
セレナは勘違いしている。
ダールトン国王がフィリアに向けているのは家族としての愛ではなく……。
でも、そんなこと言えようものか。
涙がにじむ。
縋るように、フィリアは目の前の姉を見た。気が付いたら、助けを求めるようにセレナの手を掴んでいた。
その時だった。
「……っ! やめて!」
ぱしん、と手が振り払われる。
セレナが酷く顔を顰めていた。
ああ、まったくセレナらしくないことに、彼女は金切り声を出して叫んだ。
「その瞳、やめなさい! 私のことを憐れんでるみたいに……! 惨めなものを見るみたいにっ!」
「お姉様、私はそんな目で見ていないです」
「見てるのよ……! ずっと……!」
「来なさい」と裾を引っ張られる。引きずられるようにフィリアは歩いた。
「ここは……」
物置だった。
古臭い書物が置かれているのを見て、フィリアは一歩を踏み出した。──お姉様は何を見せようとしているのだろうか?
そのとき──ガタン、と戸が閉まった。
視界が闇で覆われる。
──閉じ込められた!
フィリアは慌てて扉を開けようとするが、うんともすんとも言わない。
「お姉様……! どうして……! 開けてください! 開けて!」
闇の中で叫ぶと、隔てた戸の向こう側でセレナが身動きする音がした。
「お父様に気に入られて調子に乗っているみたいだから、思い出しなさい」
「なにを」
「あなたの故郷も、あなたを救ってくれる人も、ぜーんぶなくなったってことを!」
セレナが去っていく気配がする。
フィリアは慌てて扉を叩いた。
ガンガンと叩いた。拳が酷く痛む。
「ごめんなさい、お姉様! 私が悪いの! 全部私のせいなの! 私が生きてるから、ここに来たから……。」
もうセレナがそこにいるかは分からない。
けれど、フィリアには叫び続けることしかできなかった。
「ごめんなさい、お姉様。お姉様を傷つけるつもりはなかったの! ごめんなさい、ごめんなさい」
涙が滲んだ。暗闇の中、もう何時間経ったか分からない。
「だから……だからあっここから出して……!」
泣き叫ぶように、泣き喚くように、フィリアは力の限り泣いた。
それでもまだ、光は差してこない。
「誰か、助けて……! だれかっ! 出して、ここから!」
窓が開かないか、なんども揺さぶった。
窓が割れないか、部屋の書物を窓に投げつけてみた。
戸が破れないか、何度も体当たりした。
叫んで、泣いて、ボロボロになって、フィリアは膝を抱えて蹲った。
「お母様、お父様……助けて……」
声はひどく枯れていた。
──あなたの故郷も、あなたを救ってくれる人も、ぜーんぶなくなったってことを!
そうだ。
ここには誰も味方がいない。
誰も、フィリアのことを愛してくれる人はいない。
誰も助けになんて来ない。
助けを呼ぶだけ、期待するだけ、無駄なのだ。
それに気づいたとき、フィリアはただただ静かに涙を流した。
扉が開いたのはそれから二日後だった。
「さすがに死なれたら困るからね」
光の中で、セレナは歪に笑っていた。
「ありがとうございます。お姉様」
それに合わせてフィリアも笑った。
完璧な──太陽姫の笑みで。
そうしてフィリアは太陽姫になったのだ。
◇
「出して……!誰か、ここから出して……!」
ベッドの上で、うわごとのように唇が震える。身体は小さく縮こまり、冷たい汗が首筋を伝って落ちていく。
何かにすがるように伸ばした指先は、誰も掴めない空をかきむしる。
そのとき── ひんやりとしたものが、彼女の額に触れた。
その冷たさは、夢の中の悪寒ではない。
額に置かれたのは冷水に浸されたハンカチ。
──それは、フィリアの熱をすっと冷やした。
途端にフィリアの身体から汗が引いていく。
「……お前は何の夢を見ているんだろうな」
誰かの声がしたような気がした。
低く、静かで、けれど優しく響く声。
フィリアの呼吸が、徐々に整っていく。
こわばっていた指先が、ようやく力を抜いてベッドの上に落ちた。
──夢の中では、誰も助けてくれなかった。
でも、今は……。
フィリアはもう一度深く息を吐いて、眠りの深い底へ落ちていった。
◇
次に目を覚ましたとき、カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいた。
何か、重たい夢を見ていた気がする。けれど、それはもう遠くに霞んでいる。
──ここは、どこ?
身体を起こそうとしたが、まだ少しふらついた。
けれど、昨日の悪寒や寒さは消えていた。
額に乗っていた、水にぬれたハンカチを広げてみる。
上質なリネンに、丁寧な金糸で施された刺繍──〈S〉。
──セヴィ王子……?
確証はない。けれど、心のどこかでわかっていた。
あのとき、夢から救い出してくれたのは彼だと。
「どうして……」
フィリアにはちっとも彼のことが分からない。
けれど、どうしてか、胸を突く思いがあって、そのハンカチをぎゅっと抱きしめてしまった。
◇
「海の国の太陽姫」
その頃──、月の見えるテラスで一人、セヴィは呟いた。
「能天気な者だとばかり思っていたが……違うのか?」
うなされるフィリアがあまりにも苦しげで、汗の浮かぶ額を思わず拭った。
柄にもないことをした、とセヴィは思った。
どんな夢だったのだろう。
どうしてそんなに苦しんでいるのだろう。
これは国のための政略結婚。
興味のないはずだったのに、どうしてこんなに気になるのだろう。
知りたい、と。
また、柄にもないことを思った。
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