第九章『魂の署名』
デジタル探偵シャドー:第九章『魂の署名』
『これは、データの痕跡ではありません。生命活動の痕跡…人間の、脳波パターンです』
シャドーから送られてきた、ありえない一文を、冴木は何度も読み返した。
脳波?真っ白な光のデータに、人間の脳波が記録されているというのか。
冴木: 『どういう意味だ。詳しく説明しろ』
シャドー: 『解析を継続。対象の脳波は、極めて特殊な状態を示しています。デルタ波に近い低周波でありながら、意識的にその状態を維持している形跡が見られます。これは、深い瞑想状態にある僧侶や、長期の感覚遮断トレーニングを積んだ宇宙飛行士に見られるパターンに類似。しかし、それらとも僅かに異なる、未知の精神状態です』
未知の精神状態。その言葉に、冴木は時任の言葉を思い出していた。
『犯人は、デジタルの「永遠性」を否定している』
『自分が作り出した神を、自らの手で殺そうとしているのかもしれない』
犯人は、単にデータを消したのではない。
デジタル(0と1の集合体)で埋め尽くされていた空間を、アナログ(人間の意識)で上書きしたのだ。
それは、この世で最も静かで、個人的な「魂の署名」。
「…犯人は、ハッカーじゃない」
冴木は呟いた。
「脳科学者…あるいは、それに近い領域の人間だ」
捜査の方向性が、180度転換した瞬間だった。
冴木は、新たな指令をシャドーに送る。
冴木: 『国内の大学、研究機関、企業における、BCI及び、高度な脳神経科学のプロジェクトをリストアップ。特に、今回の美術館の設立や、作品の制作にコンサルタントとして関わった人物がいないか、クロスチェックしろ』
シャドー: 『検索範囲を再設定。実行します』
これまでの闇雲な捜査とは違う。明確なターゲットを絞った探索。数分後、シャドーの出した答えは、一つだった。
シャドー: 『一件ヒット。
・氏名:神足 真理
・経歴:元・東都大学先端科学研究所・主任研究員。専門は、非侵襲型BCIと意識のマッピング。
・特記事項:3年前、デジタルアート美術館の設立準備委員会に、技術顧問として参加。彼女が提案した『鑑賞者の脳波とリンクし、無意識を映し出すアート』という企画が、倫理的な問題と技術的コストを理由に却下されている。その後、研究所を退職し、現在は所在不明』
神足真理。
名前を見た瞬間、冴木の脳裏で、全ての点が繋がった。
企画を却下されたことへの復讐か?いや、違う。もっと根源的だ。
彼女は、自らの研究の正しさを、そして、自らが最も美しいと信じる芸術の形を、世界に証明しようとしたのだ。
彼女にとって、商業的で情報過多な「動く絵画」は、醜悪な偽物だった。
そして、彼女はそれを消し去り、その場所に、自らの精神そのものである「無」を展示した。
世界で最も巨大な、彼女一人のためのキャンバス。
「…見つけたぞ、沈黙の画家」
冴木は、神足真理の経歴をさらに深く調べるようシャドーに命じながら、席を立った。
シャドーのデータが彼女の現在の居場所を突き止める前に、自分の直感が告げる場所へ向かうためだ。
時任は言った。『彼が捨てきれなかった「何か」が隠されている』と。
神足真理が捨てきれなかったもの。それは、自らの才能への執着、そして、世界に認められたいという承認欲求。
ならば、彼女は必ず見ているはずだ。
自らの最高傑作が、世界にどんな波紋を広げているのかを。
冴木の足は、湾岸エリアへと向かっていた。
あの、巨大な白い光を放ち続ける、デジタルアート美術館。
その光景が最もよく見える場所で、「画家」は、きっと自分の作品を静かに鑑賞しているに違いない。




