第八十九章『アナログな、手錠』
デジタル探偵シャドー:第八十九章『アナログな、手錠』
冴木が、たどり着いたのは、大阪市内のごくありふれた、オートロックの、マンションだった。
目的の、部屋の前でインターホンを、押さずに彼は、静かにドアノブに、手をかける。
……鍵は、かかっていなかった。
究極の、セキュリティを扱う人間ほど、物理的な守りには、無頓着になる。あるいは、自らの能力への、絶対的な自信が、そうさせるのか。
冴木は、静かにドアを、開けた。
部屋は、生活感が驚くほど、希薄だった。
がらんとした空間の中央に、まるで、祭壇のように6枚の、巨大なモニターと、ハイスペックなPCが、鎮座している。
その、モニターの光を浴びて、ヘッドフォンをした、一人の若者……小野寺拓海が、キーボードを叩いていた。
冴木が、部屋に入ったことに、全く、気づいていない。
画面には、あの、商店街の防犯カメラの映像が、いくつも、映し出されていた。彼は今、この瞬間も「亡霊」として、商店街を監視していたのだ。
冴木は、わざと靴音を、立てて、一歩踏み出した。
「…!」
その音に、小野寺は、弾かれたように、振り返った。
驚きと、怒りと、そして「なぜ、ここに?」という、純粋な疑問が混じった顔。
「……誰だ、あんた」
「警視庁の、冴木だ」
冴木は、静かに告げた。
「面白い、ゲームだな。老人たちを、じわじわと、追い詰めていく、リアルタイムシミュレーションか?」
「……何のことだか、さっぱり」
小野寺は、そう嘯きながらも、その指は、巧みに別のキーへと、動きかけていた。データ消去の、コマンドだろう。
だが、その指が、キーに触れる寸前。
ピタリ、と、彼の動きが、止まった。
全てのモニターの画面が、一瞬でブラックアウトし、中央にシャドーの、紋章だけが、静かに、浮かび上がっていたからだ。
シャドー: 『……無駄です、小野寺拓海。あなたの、管理下にあった、全システムの、制御は、先ほど、全て、こちらに、移管しました。ハードディスクの、データも、完全に、保全済みです』
冴木の、イヤホンから聞こえるのと、全く同じ声が、部屋のスピーカーから、響き渡る。
「……うそだ……僕の、システムが……外部から……」
小野寺は、信じられない、という表情で、画面を、見つめている。
自分の作り上げた、完璧なデジタルの箱庭が、いとも容易く、他者に乗っ取られた。その事実が、彼のプライドを、粉々に打ち砕いた。
「お前の、敗因は二つだ」
冴木は、ゆっくりと、彼に近づきながら、言った。
「一つは、俺の相棒を、甘く見たこと。そして、もう一つは…」
冴木は、小野寺の目の前で、冷たい金属の、塊を取り出した。
「……デジタルの、世界に、夢中になりすぎて、アナログな、この『手錠』の存在を、忘れていたことだ」
その、言葉を最後に。
商店街を蝕んでいた「亡霊」は、そのあまりにも、物理的で、現実的な鉄の輪によって、その自由を完全に、奪われた。
事件は静かに、幕を閉じた。




