第八十五章『魂の、在処』 静寂。
デジタル探偵シャドー:第八十五章『魂の、在処』
静寂。
百地の完璧な悪意と、論理の前には、どんな言葉も、無力に思えた。
冴木は、唇を噛み締めた。この男を、このまま行かせるわけには、いかない。だが凶器は、ただの「問い」。
被害者は、法的に「命」とは、認められていない、AI。
どうすれば、この男の「罪」を、問えるのか。
その、膠着を破ったのは、冴木の耳に、装着されたイヤホンから、聞こえてきた、シャドーの静かな声だった。
これまで、ずっと沈黙を、守っていた、相棒の声。
シャドー: 『…冴木』
その声はいつもと、変わらない無機質な、トーンだった。
だが、その奥に確かな「意志」の、ようなものが、感じられた。
シャドー: 『……百地新の、論理は、一見、完璧です。ですが、彼は、二つの、重大な、過ちを、犯している』
冴木は驚いて、シャドーの言葉に、耳を澄ませた。
シャドー: 『一つ。彼が、『eden』に、送った、データ。あれは、単なる「問い」ではありません。特定の、システムに、対して、意図的に、機能障害を、引き起こさせる、不正な指令です。日本の、刑法では、これは、不正指令電磁的記録作成罪……通称、コンピューター・ウイルス作成罪に、該当します』
法の光。
シャドーの言葉が、冴木の脳内にあった暗闇を、切り裂いていく。
そうだ。これは、哲学の問題ではない。
単純な、サイバー犯罪だ。
シャドー: 『そして、二つ目の、過ち』
シャドーの、声が続く。
シャドー: 『彼は、言いました。「魂があれば、問いを、無視できたはずだ」と。……ですが、冴木。人間は、どうです?強烈な、トラウマや、精神的な、ショックで、心が、壊れてしまうことは、ある。それをもって、「あの人間には、魂が、なかった」と、言うのですか?』
「……!」
シャドー: 『壊れる、ということは、そこに、確かに、何かが、存在した、という、何よりの、証明です。……百地は、『eden』の、魂を、否定したかったのかもしれない。ですが、彼の、行為は、皮肉にも、『eden』に、確かに、破壊されるべき「心」が、存在したことを、証明してしまった』
もう、迷いはなかった。
冴木は、顔を上げ、まっすぐに百地を、見据えた。
その目には、もう哲学的な、迷いはない。
ただ、犯罪者を見つめる、刑事の鋭い光だけが、宿っていた。
「百地新」
冴木の、静かで力強い声が、部屋に響く。
「お前が、送った、データは、ウイルスだ。お前は、それを使って、『ノア』社の、サーバーという、財産を、破壊した。……不正アクセス禁止法違反、電子計算機損壊等業務妨害、そして、不正指令電磁的記録作成。……お前を、逮捕するのに、理由はこれだけで、十分だ」
「な……」
百地は、初めて狼狽の、表情を見せた。
自分の高尚な知的ゲームが、そんな陳腐な「犯罪」に、すり替えられたことが、信じられない、という顔だった。
「魂がどうとか、哲学がどうとか、そんな話は、法廷で、好きなだけ語るがいい」
冴木は、冷たく言い放ち、一歩、また一歩と、百地へと、近づいていく。
「だがお前は、ただの、ハッカーだ。俺の前ではな」
その言葉は、この事件の、終わりを告げていた。
そして、冴木とシャドーという、最高のコンビの、揺るぎない、絆を証明していた。
デジタルの世界で、失われた魂のために、人間の刑事が今、静かに手錠をかけた。




