第八十一章『最も美しい嘘』
デジタル探偵シャドー:第八十一章『最も美しい嘘』
2025年8月10日、日曜日、午前8時26分。
医療刑務所を後にした、冴木の足は、真っ直ぐ警視庁へと向かっていた。
彼の、頭の中では時任錠が、残した一つの問いが、ぐるぐると渦巻いていた。
「最も愛され、そして、最も醜い汚点を持つ、人間」
その答えに、彼がたどり着くのに、時間はかからなかった。
日本国民なら、誰もが知る、その名前。
デビュー以来40年間、常にトップを、走り続ける、国民的な歌姫。
天宮 さき。
その輝かしい経歴の中で、たった一つだけ、彼女を、今も苦しめ続ける、暗い影。
20歳の頃に、彼女自身が運転する車で、起こしてしまった、同乗者の親友を、死なせてしまった、あの悲惨な交通事故。
法的には、無罪となったが、世間の記憶には、今も、その「汚点」が、深く刻み込まれている。
「…シャドー」
自席に戻った冴木は、静かに指令を出す。
「ターゲットを、特定した。国民的歌手、天宮さきだ」
シャドー: 『…了解。監視対象を設定します』
冴木: 『彼女の過去、特にあの「事故」に関する、全てのデジタル・アーカイブ…新聞社、警察の記録、個人のブログ…その全てを、24時間監視下に置け。犯人は、必ずこの、最も醜い「傷」を、消しにやってくる。奴が、その「手術」を始めた瞬間を捉え、回線を逆探知するんだ』
それは広大な、インターネットの海に、一本の、釣り糸を垂れるような、気の遠くなる、賭けだった。
だが、冴木の直感は、確信していた。犯人は、必ずこの「餌」に食いつく、と。
そして、数日後。
その時は、静かに訪れた。
シャドー: 『…! 冴木、来たぞ!
大手新聞社の、過去記事データベースに、極めて、ステルス性の高い、不正アクセスを、確認!
ターゲットは、25年前の天宮さきの、交通事故の、記事だ!』
モニターに、当時の記事の原文が、映し出される。
すると、そのテキストが、まるで意思を、持ったかのように、リアルタイムで、書き換えられていく。
事故の原因が、彼女の不注意から、「対向車の無理な、追い越し」へと。
同乗者の死が、彼女のせいではなく、「彼女が、最後まで、庇い続けた結果」へと。
醜いゴシップ記事が、感動的な、悲劇の物語へと、「彫刻」されていく。
冴木: 『追え!シャドー!』
シャドー: 『…了解!回線を、逆探知!プロキシを、剥がしていく!一枚、二枚…七枚!…見えた!奴の、本当のIPアドレスが!』
シャドー: 『…特定完了!東京都文京区の、閑静な、住宅街にあるマンションの一室だ!』
冴木は、受話器を、掴んだ。
「突入班用意!…行くぞ!」
数十分後。
そのマンションの一室に、冴木たちは踏み込んだ。
部屋の中には、一人の初老の男が、静かに座っていた。元・国立国会図書館の、デジタルアーカイブ部門に、勤めていた司書だった男だ。
彼は驚くでもなく、ただモニターに映し出された、自らが完成させた「最も、美しい、嘘」の記事を、満足そうに眺めていた。
「…これで彼女も、ようやく救われる」
その、呟きを最後に。
哀しき思い出の彫刻家は、静かに逮捕された。
事件は、終わった。
だが、ネット上には、美しい嘘と、醜い真実が、混在したまま残されてしまった。
本当の「救済」とは、何だったのか。
その答えは、誰にもわからないまま。




