第八十章『悪魔の批評』
デジタル探偵シャドー:第八十章『悪魔の批評』
2025年8月10日、日曜日、午前8時07分。
医療刑務所の面会室は、相変わらず、無機質な静寂に包まれていた。
アクリル板の向こう側で、時任錠は、まるで冴木が来ることを知っていたかのように、優雅にチェス盤を眺めている。
「また君か、冴木刑事」
時任は、顔を上げずに言った。
「君が、私の元へ来るということは、また、この退屈な世界に、面白い『芸術家』が現れたということだろう?」
冴木は椅子に座ると、単刀直入に事件の概要を説明した。人々の過去を、より美しい物語へと、完璧に書き換えてしまう、謎の犯人『思い出の彫刻家』。その、善意とも悪意とも取れる、不可解な犯行を。
時任は、初めてチェス盤から顔を上げた。その目に、これまで見たことのない、強い、好奇の光が宿っていた。
「…ほう。それは面白い」
彼は、しばらく楽しそうに、思考を巡らせていたが、やがて一つの駒を、パチリ、指した。
「その『彫刻家』とやらは、一流の芸術家だ。だが、三流の哲学しか、持ち合わせていない」
「どういう意味です?」
「彼は、『美しい嘘』は、『醜い真実』に、勝ると信じている。なんと浅はかで、傲慢な思想だろう」
と、時任は言った。
「真の美というものはな、刑事さん。傷や、汚れ、欠点といった、不完全さの中にこそ、宿るのだ。…彼は、それが分かっていない」
時任は、ゆっくりと言葉を続けた。
「その男の、弱点はそこだ。彼は、芸術家を気取りながら、『不完全さ』を、許すことができない。醜いものを見れば、それを美しく『修正』せずにはいられない、強迫観念の持ち主だよ」
その言葉が、冴木の脳内で、閃光のように弾けた。
「犯人を、見つけたいのなら、彼の過去の『作品』を、追うのは間違いだ」
時任は、楽しげに最後の、ヒントを与えた。
「彼の、未来の『作品』を、予測するんだ。
…考えたまえ。今の日本で、最も国民に愛されながら、しかし、その経歴にたった一つだけ、決して消えない醜い『汚点』を、持つ人間は誰だ?
…その『汚点』こそが、彼が最も彫り直したいと願う、最高のキャンバスのはずだよ」
面会終了の、ブザーが鳴る。
冴木は、礼も言わず席を立った。
頭の中は、時任が与えた、たった一つの問いで、満たされていた。
「最も愛され、そして、最も醜い汚点を持つ、人間」
その答えは、おそらく日本国民の、誰もが知っている。
犯人は、必ずそこに現れる。
冴木は、犯人の、次の犯行現場を、確信した。
あとは、その「彫刻」が始まる、その瞬間に、現行犯で押さえるだけだ。




