第八章『悪魔の助言』
デジタル探偵シャドー:第八章『悪魔の助言』
医療刑務所の面会室は、無機質な白と、アクリル板の冷たさだけが支配する空間だった。
先に座って待っていた冴木の前に、ゆっくりとした足取りで、時任錠が現れる。
囚人服に着替えてもなお、彼が持つ老紳士然とした気品は、失われていなかった。
時任は、アクリル板の向こう側の椅子に腰を下ろすと、面白そうに目を細めて冴木を見た。
「これはこれは、冴木刑事。君のような男が、こんな場所で退屈している私に会いに来るとは…よほど面白いパズルでも見つけたようだね」
「あなたなら、解けるかもしれないと思いまして」
冴木は、単刀直入に事件の概要を説明した。神業的なハッキング、多層的なバックアップの完全消去、そして『沈幕の画家』と名乗り、「無」の芸術を謳う犯人像。
一通り聞き終えた時任は、楽しそうにクツクツと喉を鳴らした。
「…なるほど。それは、私の模倣犯などでは断じてない。私とは全く違う種類の人間だ」
「どういう意味です?」
「私が見たのは、『過去』の美学だ」
と時任は言った。
「失われゆくアナログの、手間と時間をかけた世界の美しさ。だから私は、モノを『盗み』、私のコレクションに加えた。それは所有欲であり、保存欲だ。足し算の発想だよ」
彼は、アクリル板を指でそっとなぞった。
「だが、その『沈黙の画家』とやらは違う。彼の芸術は『無』だと言ったそうじゃないか。彼は、何かを所有したいわけでも、保存したいわけでもない。彼が見ているのは、『未来』だ」
「未来…?」
「そうさ」
時任の目が、鋭い光を宿した。
「考えてもみたまえ、刑事さん。デジタルデータの本質とはなんだ?それは、無限にコピーが可能で、決して劣化しない『永遠』の生命だ。君たちがバックアップと呼ぶものは、その永遠性を担保するシステムに他ならない」
時任は、まるで講義でもするかのように、言葉を続けた。
「その『永遠』を、彼は否定している。バックアップごと、その存在を完全に消し去り、『無』に還す。これは、デジタルという存在そのものへの挑戦状だ。『お前たちには、永遠の価値などないのだ』という、過激なまでの宣言だよ」
冴木の背筋が、ぞくりとした。時任の言葉は、犯人の核心を的確に射抜いているように思えた。
「犯人は、おそらく…極めて優秀な技術者だ。それも、デジタルの『永遠性』を作り出す側のね。システムの生と死を、誰よりも深く知る人間。だからこそ、その虚しさに気づいてしまった。彼は、自分が作り出した神を、自らの手で殺そうとしているのかもしれない」
時任は、最後にこう付け加えた。
「ヒントを一つやろう。刑事さん。本当に『無』を愛する人間は、自らの名前を残したりはしない。『沈黙の画家』などという芝居がかった名前を名乗るからには、彼にはまだ『俗』な部分が残っている。彼が消し去ったデータの中に、あるいは、彼が残した『白』という色の中に、彼が捨てきれなかった『何か』が隠されているはずだ」
面会終了のブザーが鳴る。時任は満足そうに立ち上がると、最後に振り返った。
「実に面白いパズルだ。犯人が捕まったら、ぜひ結末を聞かせてくれたまえ。楽しみにしているよ」
刑務所を後にする冴木の頭の中は、時任の言葉で満たされていた。
『彼が消し去ったデータの中に、あるいは、彼が残した「白」という色の中に、彼が捨てきれなかった「何か」が隠されている』
「白」…。
冴木はポケットからスマートフォンを取り出し、シャドーとのチャットルームを開いた。時任との会話を、シャドーがどう分析するかわからない。だが、試してみる価値はあった。
冴木: 『「白」。RGB値(255, 255, 255)。この色に隠されたメッセージ、あるいはデータがないか、あらゆる角度から再解析しろ』
それは、大海に小石を投げるような命令だった。だが、数秒後、シャドーから返ってきた応答は、冴木の予想を裏切るものだった。
シャドー: 『解析開始。…対象の「白」データに、微細なノイズを検出。人間の視覚では認識不可能なレベルの、周期的なパターンが存在します。これは…』
シャドーの応答が、初めて途切れた。まるで、信じられないものを発見し、思考が停止したかのように。
そして、数秒の沈黙の後、驚くべき一文が表示された。
シャドー: 『これは、データの痕跡ではありません。生命活動の痕跡…人間の、脳波パターンです』