第七十八章『書斎の対決』
デジタル探偵シャドー:第七十八章『書斎の対決』
奈良、山辺の道。
古くからの集落が点在する、静かな小道を、冴木は一人、歩いていた。
シャドーが示した、古民家はもう目前だ。周囲は、鳥の声と、風にそよぐ木々の音だけが満ちている。
ここが、あの静かなるサイバーテロの発生源だとは、にわかには信じがたい。
目的の古民家は、大きな椋の木に寄り添うように、ひっそりと建っていた。手入れの行き届いた庭、磨き上げられた縁側。ここには、硯遼太郎が愛した「静寂」と「美」が、確かに存在していた。
冴木は、玄関の引き戸に、そっと手をかけた。鍵は、かかっていない。
彼は、靴を脱ぎ、静かに、中へと足を踏み入れた。
家の中は、墨の香りがした。
そして、膨大な数の、紙の書物。壁という壁が、天井まで届く書架で埋め尽くされている。まさに、個人の「図書館」だ。
その書斎の中央で、一人の老人が、書見台に向かい、静かに筆を走らせていた。
冴木の気配に気づくと、彼は、ゆっくりと筆を置き、振り返った。痩身だが、その眼光は、剃刀のように鋭い。硯遼太郎だった。
「…刑事さんかね」
硯は、穏やかに言った。
「それとも、私の文章を読み解いてくれた、ただ一人の『読者』かな」
「両方ですよ、硯先生」
冴木は、静かに答えた。
「そうか」
硯は、満足そうに頷いた。
「私の、たった一つの『読点』に気づくとは。大した鑑賞眼だ。君のような男が、警察にいるとは、世も末だな」
彼は、冴木に座るよう、目で促した。まるで、これから始まる、知的な対話を楽しむかのように。
「なぜ、こんなことを?」
冴木の問いに、硯は、ゆっくりと首を振った。
「君には、わかるまい。言葉が、魂が、ゴミのように消費されていく、この時代の醜さが。行間も、余韻も、想像力も、全てを奪われ、ただ、分かりやすさだけが求められる。私は、それに、我慢がならなかった。だから、少しだけ、昔の美しい姿に、戻してやっただけだよ」
「そのために、共犯者まで作り、AIまで開発したと?」
「彼は、共犯者などではない。私と同じ、言葉の美しさを信じる、同志だよ。そして、AI『リラ』は、私の理想の『編集者』であり、『作家』だ。人間の感情に惑わされず、ただ、最も美しい言葉を紡ぐことができる」
硯は、立ち上がると、書架の一つに触れた。
「ここは、私の聖域だ。私は、ここで、永遠に、美しい言葉たちと生きていく。君たちの、醜い現代から、隔絶されてね」
その姿は、狂信者でありながら、同時に、自らの美学に殉じる、孤高の芸術家そのものだった。
冴木は、静かに、しかし、力強く言った。
「硯遼太郎。あなたの芸術は、ここで終わりだ。著作権法違反、及び、不正アクセス禁止法違反の容疑で、逮捕する」
その言葉を聞いても、硯は、笑っていた。
「…いいだろう。だが、覚えておきたまえ。君たちが、言葉の魂を殺し続ける限り、私のような人間は、何度でも現れる」
冴木が、一歩、踏み出す。
伝説の編集者と、名もなき刑事。
二人の「読者」の、静かな対決は、墨の香りが満ちる書斎で、今、幕を閉じた。




