第七十一章『空ろな電波塔(ホロウ・タワー)』
その日、東京は沈黙した。犯人が、人々から奪ったのは「電波」。そして、与えたのは、失われたはずの「静寂」だった。
デジタル探偵シャドー:第七十一章『空ろな電波塔』
2025年8月3日、日曜日、午前7時48分。
その朝、東京は突如として、沈黙した。
日曜の朝、いつものように、スマートフォンに手を伸ばした人々は、皆同じ異常に気づいた。
画面の上部に、表示されるはずの、電波のアンテナマークが、消えているのだ。
「あれ、圏外?」
キャリアを再起動しても、SIMカードを抜き差ししても、状況は変わらない。
電話がかからない。メッセージが届かない。SNSが見られない。
それはまるで、文明が一夜にして、数十年後退したかのような、感覚だった。
Wi-Fiが繋がる自宅では、かろうじてネットが使えたが、一歩外へ出れば、そこは情報の届かない、孤島。
やがて人々は、これが単なる、通信障害ではないことを知る。
テレビが緊急速報で、報じたのだ。
「現在、東京スカイツリー、及び、東京タワーが、何者かによってジャックされ、首都圏の、全ての携帯電話通信が、遮断されています」
大パニックが、始まろうとしていた。
だがその時。
まだ生きている、最後のメディア…ラジオから、静かな声が流れ始めた。
『皆さん、おはようございます。聞こえますか?』
その声は穏やかで、知的で、そしてどこか、神々しいほどの、落ち着きを払っていた。
『驚かないでください。これは、テロではありません。私からの贈り物です。今日一日だけ、あなた方を、そのデジタルの手錠から、解放します。…さあ、顔を上げてください。いつも見ていた、小さな画面ではなく、本当の世界を、その目で見てください。隣にいる人と、話をしてください。今日という日を、私はあなた方に、プレゼントします』
犯人『解放者』からの、あまりにも一方的な、犯行声明。
そして、美しい「救済」の宣言だった。
警視庁の対策本部は、設立と同時に機能不全に、陥っていた。
外部との連絡が、ほとんど取れないのだ。
その大混乱の中、冴木は一人、有線でかろうじて繋がっている、シャドーとの専用回線を、開いていた。
彼は、ラジオから流れてくる、犯人の「説法」を、静かに聞いている。
(…こいつ、本気で世界を救うつもりでいやがる)
その純粋で、しかしそれ故に危険な狂気を、彼の直感は、正確に感じ取っていた。
冴木: 『シャドー、聞こえるか。どうやら、俺たちのライフラインが、人質に取られたらしい。犯人は、自らを「解放者」と、名乗っている。…まずは、この放送の発信源を、特定しろ。敵は、電波塔を掌握している。つまり、そこが、戦場だ』
シャドー: 『…了解。通信が著しく、制限されていますが、解析を開始します。敵は我々の耳と口を塞ぎながら、我々に語りかけている。…極めて厄介な相手です』
冴木は、窓の外を見た。
スマホが使えず、途方に暮れる人々の、群れ。
この沈黙のパニックを終わらせるには、空にそびえ立つ、あの、二つの巨大な塔を、奪還するしかない。
冴木とシャドーの、最も困難な戦いが、静かに始まった。




