第七章『沈黙の画家』
真っ白な「無」の芸術は、静かなる挑戦状。
その謎を解く鍵は、獄中にいる最悪の「悪魔」の手に委ねられていた。
デジタル探偵シャドー:第七章『沈黙の画家』
相沢の事件から季節が一つ巡った頃。芸術の秋に沸く東京で、その事件は静かに、しかし鮮烈に幕を開けた。
舞台は、湾岸エリアに新設されたばかりの、国内最大級のデジタルアート美術館。その目玉は、幅20メートルにも及ぶ巨大なLEDウォールに映し出される、気鋭のメディアアーティストによる「動く絵画」だった。
無数の光の粒子が、星雲のように集まり、神話の情景を描き出しては、また別の姿へと変容していく。その壮大な作品は、連日多くの観客を魅了していた。
しかしある朝、美術館のスタッフは、信じられない光景を目の当たりにする。
壁を埋め尽くしていたはずの絢爛な光は、跡形もなく消え去っていた。そこに映し出されていたのは、ただの「完璧な白」。全てのピクセルが、最大輝度の白色を発しているだけ。データサーバーを確認しても、作品のデータは綺麗に消去され、ハッキングの痕跡どころか、アクセスログすら残っていなかった。
数時間後、美術館の公式サイトがジャックされ、トップページに一つのメッセージが表示された。
『我が名は「沈黙の画家」。
過剰な光と情報に満ちたこの世界に、最も美しい芸術を贈ろう。
それは、「無」という名の芸術だ』
警視庁の捜査会議は、これまでにない緊張と混乱に包まれていた。当初、「バックアップからすぐに復旧できる」という楽観的なムードは、美術館の技術責任者からの報告によって、絶望へと変わったからだ。
「…ダメです。オンラインのバックアップも、昨日確認したオフラインのバックアップも、全て『白』に汚染されていました。犯人は、我々の復旧手順を完全に読み切っていたとしか…」
どよめきが起きる会議室で、冴木閃は、腕を組んでモニターに映る「真っ白な画面」をただ見つめていた。彼の超直感は、この犯人が時任とも相沢とも違う、全く異質な種類の知性であることを感じ取っていた。
これは美学だけの問題ではない。神業的な技術と、冷徹なまでの計画性。全てをゼロにする「引き算」の芸術だ。
冴木は、自席に戻り、シャドーにアクセスした。
冴木: 『「沈黙の画家」。バックアップを含む多層的なデータ消去。痕跡なし。関連するハッカーコミュニティ、過去の類似事件を検索』
シャドー: 『検索開始。…完了。該当するハンドルネーム、及び手口を持つ人物は、過去のいかなるデータベースにも存在しません。犯行声明のテキストデータにも、特異な記述や隠しコードは検出されませんでした』
シャドーの返信は、簡潔で、そして完全な敗北を意味していた。手がかりゼロ。
犯人は、まるで最初から存在しなかったかのように、デジタルの世界に何の痕跡も残していない。
数日が経過しても、捜査は全く進展しなかった。犯人からの新たな声明もなく、ただ美術館の壁だけが、虚しく白く輝き続けている。焦りだけが募る中、冴木は、自分の直感が、犯人の「知性」の輪郭を捉えきれずにいることを自覚していた。
(わからない…。この犯人は、何に価値を見出している?何に怒り、何を美しいと感じている…?)
その時、ふと、冴木の脳裏に、あの老紳士の顔が浮かんだ。
アナログの美学に殉じ、デジタルを「幻」だと言い切った男。自分とは全く違う哲学を持ちながら、しかし「美」という一点においては、誰よりも純粋だった犯罪者。
「…あの男なら、この『沈黙の画家』の知性を、どう分析するだろうか」
それは、刑事としてはありえない選択肢。プライドが邪魔をする、禁じ手だ。
だが、事件が解決できるならば、どんな手段でも使う。それが、冴木閃という刑事だった。
彼は席を立つと、上司に一言だけ告げた。
「少し、所用で出ます」
冴木が向かった先は、警視庁の執務室ではない。
彼が乗った車が目指していたのは、東京郊外にある、厳重なセキュリティに守られた医療刑務所。
時任錠が、収監されている場所だった。
刑事と、彼が捕らえた天才犯罪者。ガラス越しの再会が今、始まろうとしていた。