第六章「珈琲は記憶の香り
デジタル探偵シャドー:第六章「珈琲は記憶の香り」
深夜の住宅街に、その喫茶店はまるで時が止まったかのようにひっそりと佇んでいた。看板の明かりは消えているが、店の奥から微かな光が漏れている。冴木は、ドアノブに手をかけ躊躇なく扉を開けた。
カラン、と乾いたベルの音が鳴る。
店内は昼間のそれとは全く違う、静謐な空気に満ちていた。カウンターの内側で、一人の初老の男が月光に照らされながら、黙々とコーヒー器具を磨いている。
シャドーが提示したリストにあった喫茶店の店主。そして10年前、安藤研究室で頻繁に顔を合わせていた、当時の大学院生だった男だ。
「…こんばんは、相沢さん」
冴木の呼びかけに、相沢と呼ばれた男は、ゆっくりと顔を上げた。その表情に驚きはない。まるで、冴木が来ることを、ずっと前から知っていたかのように穏やかだった。
「冴木君か。いや、今は冴木刑事、と呼ぶべきかな。こんな時間にどうしたんだい?美味しいコーヒーでも淹れてあげようか」
「ええ、いただきます。あの頃と同じものを」
冴木がカウンターの椅子に腰を下ろすと、相沢は手慣れた様子で豆を挽き始めた。店内に懐かしい香りが満ちていく。シャドーがデータで提示した記憶の香りだ。
「安藤先生へのストーカー行為、あなたの仕業ですね」
と、冴木は静かに切り出した。
相沢の手が、一瞬だけ止まる。だがすぐに動きを取り戻した。
「…証拠は?」
「ありません。物理的な証拠も、デジタルな証拠も、あなたは何一つ残さなかった。完璧な仕事です」
冴木は、カウンターに置かれた小さな砂糖壺を指差した。
「でも、あなたはたった一つ、消し忘れたものがある。俺の記憶です」
相沢は何も答えず、サイフォンのお湯が上がっていくのを静かに見つめている。
「私はデジタルの世界で情報を集めた。その結果あなたに繋がる直接的なデータを何も見つからなかった。代わりに、俺の記憶を刺激するだけの、無関係な情報だけが残った。10年前の天気、流行っていた音楽、そして、この店のコーヒー豆の銘柄…」
冴木は続けた。
「バラバラだった記憶が、そのコーヒーの香りで繋がったんです。安藤先生の研究室で、いつもこのコーヒーを淹れてくれていたのは、助手をしていたあなただった。先生の家族写真の配置も、昔の論文の癖も、奥様の好きだった花も、一番近くで見ていたあなたなら、全て知っている」
お湯が静かにフラスコへと落ちていく。抽出が終わったのだ。
「なぜ、こんなことを?」
相沢は、出来上がったコーヒーを二つのカップに注ぎ、一つを冴木の前に置いた。そして初めてまっすぐに冴木の目を見た。
「君に、思い出してほしかったのさ」
彼の声は静かだが、深い嫉妬と憧憬が入り混じっていた。
「君が学生時代に書いた、あのレポートのことを」
「……」
「君は、あのレポートで、犯罪者の心理を、まるで見てきたかのように描き出した。論理じゃない、共感でもない。ただ『わかる』という感覚。安藤先生はそれを『超直感』と呼び、君を天才だと絶賛した。だが、私は恐ろしかった。凡人である私には到底理解できない、君のその才能が」
相沢は自嘲気味に笑った。
「私は必死にデータを集め、論文を読み漁り、論理を積み上げて、やっと犯罪者心理の入り口に立つ。だが君は一瞬の閃きで、その遥か先に行く。…私は、君のようになりたかった。そして同時に君のその才能が、本当に正しいものなのか、確かめたかったんだ」
今回の事件は、相沢による10年越しの壮大な「実験」だった。
冴木が書いたレポートの手法を、彼自身が完璧に模倣する。デジタルな痕跡を一切残さず、ターゲットの心理を徹底的に揺さぶる。その完全犯罪を、冴木閃の「超直感」だけが見抜くことができるのか、と。
「安藤先生を苦しめたのは、申し訳なく思う。だが、これで証明された」
と相沢は言った。
「君の才能は本物だ。そしてそれは、我々凡人が決して手にしてはならない力だ…」
相沢は、残っていたコーヒーを飲み干すと、静かに立ち上がった。
「店の裏に犯行に使ったPCも、先生から盗んだ写真の切れ端も、全てまとめてある。朝になったら出頭するよ」
全てを告白し終えた彼の顔には、どこか安らかささえ浮かんでいた。長年のコンプレックスと、歪んだ憧れから、ようやく解放されたのかもしれない。
冴木は一人、店に残された。手元のコーヒーカップからは、まだ温かい湯気が立ち上っている。それは、忘れていた過去の記憶の香りであり、自らの才能の証明であり、そして、一人の人間の人生を狂わせた、苦い香りでもあった。
彼は、そのコーヒーを、一口も飲めずにいた。