第五十七章『星空の返却』
デジタル探偵シャドー:第五十七章『星空の返却』
2025年8月28日、月曜日、午後9時20分。
山梨県の、八ヶ岳の、麓。
冴木は一人、車のエンジンを切り、静寂に耳を澄ませていた。
聞こえるのは、虫の声と、風の音だけ。
そして空には、まるで宝石をばら撒いたかのような、無数の星が輝いている。
ここが、天沢朔が愛した聖域。
彼の山荘の明かりは、点いていなかった。
だが、その少し離れた丘の上に、微かな光が見える。
冴木は、懐中電灯を使わずに、その光を目指して、丘を登っていった。
丘の、頂上には彼がいた。
天沢朔は、巨大な天体望遠鏡を、静かに覗き込んでいた。彼の周りには、いくつものモニターが置かれ、複雑な電力系統図と、星図が映し出されている。
ここが、あの、壮大な「テロ」の、司令室だったのだ。
「…見事な、星空ですね。天沢さん」
冴木の声に、天沢はゆっくりと、顔を上げた。その顔に、驚きはなかった。
「…刑事さんか」
彼は、穏やかに、言った。
「まあ、座りたまえ。今、ちょうどアンドロメダが一番美しい時間だ」
彼は、冴木を刑事としてではなく、同好の士として、迎え入れた。
「なぜ、こんなことを?」
「なぜ、かね」
天沢は、空を見上げた。
「私はただ、返してほしかっただけなのだよ。この当たり前の夜空を。…そして、思い出してほしかった。我々が、どれほど美しく、そしてかけがえのないものを、自らの手で消してしまったのかを」
彼の、その純粋な動機。
それは、罪であると同時に、一つの警鐘でもあった。
「…あなたのメッセージは、確かに、届きましたよ」
冴木は、言った。
「多くの人々が、あの夜、空を見上げた。あなたのおかげで」
「そうかね」
天沢は、少し寂しそうに笑った。
「それならば、良かった。私の人生を賭けた悪戯も、無駄ではなかったな」
彼は、ゆっくりと立ち上がると、自らのノートパソコンを閉じた。
「…そろそろ、魔法が解ける時間だ。彼らに、空を返そう」
彼が、エンターキーを押すと。
東京の夜景が、まるでクリスマスツリーのように、再び一斉に点灯を始めた。
人々は、安堵の声を上げる。
そして、その眩い光と引き換えに、彼らは再び満天の星空を失った。
「…さあ、行こうか」
天沢は、自ら冴木に、両手を差し出した。
「これで私も、ようやく、ゆっくりと眠れる」
逮捕の瞬間は、あまりにも静かだった。
冴木は、彼を、連行する、車の中から、もう一度、山梨の夜空を見上げた。
そこには、東京では決して見ることのできない、圧倒的な宇宙が広がっていた。
犯人は、捕らえた。
事件は、解決した。
だが、冴木の心の中には、一つの問いが残っていた。
果たして、本当の「罪」とは、一体何だったのだろうか、と。
星空を消した、我々の「日常」か。
それとも、星空を取り戻そうとした、一人の、男の「夢」か。
その答えは、まだ、誰にも、わからなかった。




