第五十四章『最後のフレーム』
デジタル探偵シャドー:第五十四章『最後のフレーム』
2025年7月27日、日曜日、午前7時35分。
冴木がたどり着いた、多摩地区の森麟太郎の自宅。
そこは、彼が命を懸けて守り抜いた、雑木林に静かに抱かれていた。
小鳥のさえずりと、木々の葉が擦れ合う音。ドアを開けると、中から土の匂いがした。
「…お待ちしておりましたよ、刑事さん」
玄関に立っていたのは、穏やかな笑みを浮かべた老人、森麟太郎、その人だった。
彼は驚くでもなく、逃げるでもなく、ただ客人を、迎え入れるように、静かに頭を下げた。
「さあ、どうぞ。お茶でも、いかがですかな」
案内されたのは、彼の書斎であり、そして、犯行の全てが行われたコマンドセンターだった。
しかし、そこにハイテクな機材は、何もない。
ただ、古いフィルムの編集機と、壁一面の自然に関する蔵書。そして窓際には、たった一台、最新のパソコンが置かれているだけ。
壁には、これまで東京中を彩ってきた、美しい風景写真が、誇らしげに飾られていた。
「…素晴らしい、書斎ですね」
冴木は、言った。
「私の、宝物です」
森は、目を細めた。
「そして、いつか、失われるかもしれなかった、宝物でもあります」
彼は、全てを語り始めた。
再開発計画との、長い長い闘争の日々。そして、計画が中止になった後も、人々の記憶から、この美しい森の存在が、消えていくことへの恐怖。
「私は、ただ思い出して、ほしかっただけなのです」
と、森は、言った。
「我々の足元には、こんなにも美しい世界が、まだ、残っているのだと。広告や、無意味な情報よりも、ずっと価値のあるものが、あるのだと」
彼の、その純粋な動機。
それは、罪であると同時に、一つの正義でもあった。
「…森麟太郎」
冴木は、静かに告げた。
「あなたを、不正アクセス禁止法違反、及び、威力業務妨害の容疑で、逮捕します」
「ああ、わかっております」
森は、穏やかに頷いた。
彼の戦いはもう、終わりを告げていたのだ。
彼が、差し出した手に、冴木が手錠をかけようとした、その時。
森は、最後のお願いをするように、窓際のパソコンを、指差した。
「…あと、数分で最後の『作品』が、公開される予定です」
彼は言った。
「今朝、この書斎の窓から撮影した、夜明けの写真です。…どうか、それだけは、見届けては、いただけませんかな」
冴木は、何も言わず、ただ頷いた。
そして、二人は並んでパソコンの、小さな画面を見つめた。
やがて、画面に一枚の写真が、映し出される。
木々のシルエットの向こう側から、世界が生まれ変わるかのように、黄金の光が溢れ出してくる、荘厳な夜明けの写真。
その、神々しいほどの美しさ。
冴木はその光景から、目を離すことができなかった。
「…美しい…」
「ええ」
森は、満足そうに言った。
「世界は、こんなにも美しいのです」
その言葉を、最後に。
一人の光のゲリリラは、静かに、その役目を終えた。
事件は、幕を閉じた。
だが彼が、人々の心に灯した、小さな美しい光はおそらく、これからも消えることはないだろう。




