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『デジタル探偵シャドー』  作者: さらん
第十四の事件:『虫の福音』篇

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第五十一章『夏の聖域』


デジタル探偵シャドー:第五十一章『夏の聖域』


2025年7月26日、土曜日、午前8時01分。

冴木がたどり着いた、多摩地区の、天野博士の自宅。


そこは、家というより、森そのものだった。鬱蒼と茂る雑木林に、埋もれるように、古い一軒家が建っている。そして、その隣には朝日を浴びて、ガラスが鈍く輝く、巨大な温室があった。


ブーン、という、無数の羽音。

ジリ、ジリ、という、虫の声。


ここだけが、東京の、失われた「夏」の記憶を、保存しているかのようだった。


冴木は、温室の開け放たれたドアへと、向かった。

中に足を踏み入れると、むわりとした湿った土と、草いきれの匂いが、彼を包んだ。


そこは、楽園だった。

色とりどりの、チョウが舞い。

木の幹には、カブトムシや、クワガタが、蜜を吸いに集まっている。

天井近くでは、トンボが群れをなして、ホバリングしていた。


その、楽園の中央で。

一人の、白衣を着た老人が、蝶の幼虫がついた、葉っぱを愛おしそうに、眺めていた。

天野博士だった。


「…刑事さんかね」


天野は、振り返らずに言った。その声は、穏やかだった。


「ええ」


冴木は、静かに答えた。


「あなたの福音は、どうやら子供たちには、届いたようですよ」

「そうかね」


天野は、嬉しそうに、少しだけ笑った。


「それならば、良かった。私の長年の研究も、無駄ではなかったな」


彼は、ゆっくりと冴木の方へと、向き直った。

その顔に、罪悪感や恐怖の色は、ない。ただ、やり遂げた者の、静かな満足感だけが、あった。


「なぜ、こんなことを?」

「なぜ、かね」


天野は、遠い目をした。


「先日、孫に、尋ねられたのだよ。『じいじ、どうして、僕の家の周りには、虫さんがいないの?』と。…私は何も、答えられなかった。我々大人が、彼らから当たり前の自然を、奪っておきながら、その理由すら説明してやれんのだ」


彼は、自分のしわくちゃの手を、見つめた。


「だから、還してやりたかっただけなのだよ。ほんの少しの間だけでも。彼らが、本来いるべきだった、このコンクリートの森に。…私の最後の、わがままだったのかもしれんな」


それは告白であり、そして一つの時代の、終わりを告げる、独白だった。


「…天野博士」


冴木は、言った。


「あなたを、保護します。威力業務妨害、及び、生態系保護法違反の、疑いです」

「ああ、わかっておるよ」


天野は、穏やかに頷いた。


「この子たちの、世話だけは誰かに、頼めるかね?」


彼は温室の中の、小さな命たちを見渡した。

「…私が責任をもって、専門の機関に、引き継ぎます」

「そうか。ありがとう」


天野は、心の底から安堵したように、微笑んだ。

彼が、冴木に連行されていく、その時。


温室の、外の生け垣の向こう側で、近くに住むのであろう、小さな兄妹が、こちらを覗いているのが、見えた。


その、兄の指先には、一匹のシオカラトンボが、そっと止まっていた。

子供たちの、その宝石のように、輝く瞳。


冴木はその光景を、ただ静かに見つめていた。

天野博士の犯した罪は、法によって、裁かれるだろう。


しかし、彼が蒔いた「福音」は、確かに一人の子供の、心の中に小さな、しかし永遠に、消えないであろう、「夏の記憶」を、残したのだ。


それは、一体罪なのか。

それとも、愛なのか。

答えはまだ、誰にも、わからなかった。


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