第五章「計算された空白」
デジタル探偵シャドー:第五章「計算された空白」
冴木: 『10年前の東都大学。心理学部の在籍者リスト。特に、俺が提出したレポートを…閲覧できる可能性があった人間を洗い出してくれ』
冴木が送信したのは、犯人特定への最短距離を狙った、刑事としての正攻法だった。だが、シャドーから返ってきた応答は、彼の期待を無情に裏切るものだった。
シャドー: 『要求されたデータセットは、現在提示する情報群に対して、解決への寄与率が低いと判断。代替情報を提示します』
ウィンドウに、箇条書きのリストが機械的に表示された。
・項目1: 10年前の、特定の3日間の気象データ(東京)。快晴、のち曇り。平均湿度65%。
・項目2: 当時、大学周辺で流行していたインディーズバンドの楽曲リスト3曲。
・項目3: 安藤教授の研究室で利用されていたコーヒー豆の銘柄と、当時の仕入れ先である喫茶店の店主の氏名。
・項目4: 冴木が当時所属していたゼミの、図書館からの貸出図書リスト上位5冊。
「……は?」
冴木は、思わず声を漏らした。なんだ、このガラクタの山は。気象データ?音楽?コーヒー豆?ふざけているのか。こちらの要求を「寄与率が低い」と切り捨てておきながら、提示してきたのが、この意味不明な情報の羅列。
冴木: 『なんだこれは。要求したデータを出せ』
シャドー: 『提示した情報群が、現時点での最適解です』
返信は、それだけだった。まるで、壊れた自動応答システムと対話しているかのようだ。冴木は舌打ちし、PCを閉じた。シャドーは使えない。今回は、自分の足と頭、そして、今は霧がかっている直感だけが頼りだ。
その夜、冴木は眠れずにいた。苛立ちと焦りが、思考を空回りさせる。彼はベッドから起き上がると、シャドウが提示したガラクタのリストを、もう一度眺めてみた。
(気象データ…あの日は確か、やけに蒸し暑かった…)
(この曲…学園祭で、誰かが下手な演奏をしていたな…)
(このコーヒーの匂い…安藤先生の研究室は、いつもこの匂いがした…)
(この本…ああ、そうだ。この本を巡って、アイツと口論になった…)
その瞬間だった。
バラバラだった情報の断片が、冴木の脳内で一つの像を結び始めた。それは、論理的な繋がりではない。匂い、音、肌で感じた湿度、本の手触り。シャドーが提示したデータは、冴木の「記憶の保管庫」の扉を開けるための、無機質な鍵の束だったのだ。
シャドーは、冴木に犯人の名前を教える代わりに、冴木自身も忘れていた過去の「情景」そのものを、データとして叩きつけた。
そして、複数の情景が重なり合う中心に、一人の人間の姿が、ゆっくりと浮かび上がってきた。
いつも穏やかに笑っていた、顔。
議論になると、決して自説を曲げなかった、頑固さ。
そして、冴木の才能を、誰よりも近くで見ていた、あの目。
冴木は、息を呑んだ。
信じられない、という思いと、なぜ今まで気づかなかったんだ、という納得感が、同時に全身を駆け巡る。
犯人の正体は、10年前の学生リストの中にはいない。
なぜなら、その人物は、リストを「閲覧する側」ではなく、「管理する側」の人間だったからだ。
シャドーの狙い通り、冴木の超直感のパフォーマンスは、極限のストレスと、過去の記憶のフラッシュバックによって、強制的に最高レベルまで引き上げられていた。
冴木はコートを掴むと、深夜の街へと飛び出した。目的地は、一つしかない。
シャドーが示したガラクタのリストの項目3。
『安藤教授の研究室で利用されていたコーヒー豆の銘柄と、当時の仕入れ先である喫茶店の店主の氏名』
あの時、研究室でコーヒーを淹れてくれていたのは、いつも、あの人だった。