第四十九章『虫の福音』
その朝、東京は失われた「夏」を取り戻した。それはテロではなく、一人の老人が、都会の子供たちへ贈った、最後の「贈り物」だった。
デジタル探偵シャドー:第四十九章『虫の福音』
2025年7月26日、土曜日、午前7時38分。
その朝、東京は不思議な音色に、包まれて目を覚ました。
それは、車の騒音でも、工事の音でもない。
何万、何十万という蝉が、一斉に鳴き始めた、圧倒的なまでの、生命のシンフォニーだった。
港区の高層マンションで、一人の少年が、ベランダの窓に、顔を押し付けていた。ガラスの向こう側で、大きなカブトムシが、ゆっくりと歩いている。
「…ママ!カブトムシがいる!」
新宿のオフィス街で、休日出勤の若い女性が、空を見上げて、立ち止まっていた。ビルの谷間を、おびただしい数の、シオカラトンボの群れが、銀色の川のように、流れていく。
「…なに、これ…」
テレビのニュースは、この異常事態を、トップで報じていた。
『東京の都心部、23区の、ほぼ全域で、原因不明の、昆虫の大量発生が、確認されました。専門家は、生態系への深刻な影響を、懸念しており、政府は緊急対策本部の、設置を…』
子供たちの歓声と、大人たちの戸惑い。
美しい自然の帰還と、未知のバイオテロへの、恐怖。
東京は、その日美しく、そして、不気味な混乱の、渦中にあった。
冴木が、非番の朝に叩き起こされ、警視庁に駆け付けたのは、午前9時を回った頃だった。
対策本部は、すでに、戦場のような、様相を呈していた。
「被害報告は!?」
「物理的な被害は、ありません!ですが、アレルギー症状を、訴える市民が、多数!」
「犯人は!?犯行声明は、まだか!」
冴木は、その喧騒を、背中で聞きながら、一人警視庁の、外へ出た。
目の前の、街路樹に、彼は手を伸ばす。すると、一匹のアゲハチョウが、ふわりと、彼の指先に、止まった。
その、か細い足の、感触。
遠い昔、父親と、虫取り網を持って、野山を駆け回った、夏の日の記憶が、鮮やかに蘇る。
(…これは、テロじゃない)
彼の直感が、告げていた。
(これは、祝福だ。あるいは、呪いか。…いや、これは、『福音』だ)
彼は、庁舎に戻ると、シャドーへと、アクセスした。
同僚たちが、防犯カメラの映像や、不審者の情報を、血眼になって、探している。だが、冴木が追うべきは、そこではない。
冴木: 『シャドー。今回の事件、犯人の、デジタルの足跡は、ないだろう。だから、全く別のものを、追え』
シャドー: 『…指令を、どうぞ』
冴木: 『この、虫たちの「福音」を、心から喜んでいる、子供たちの、声を集めろ。そして、この光景を見て、俺と同じように、「懐かしい」と感じている、老人たちの、SNSでの呟きを、拾え。犯人の魂は、そっち側にいる』
それは、犯罪捜査とは、到底思えない、奇妙な命令だった。
犯罪の痕跡ではなく、人々の「喜び」と「郷愁」を、探せ、と。
デジタルの探偵が、初めて完全に、アナログな「心」の捜査を、開始した。




